お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


Google
WWW を検索 このブログ内を検索

砲撃戦の舞台「延坪島」~朝鮮ニ於ケル暴風雨被害ニ関スル件~2010/11/23

「延坪島」~朝鮮ニ於ケル暴風雨被害ニ関スル件~
 朝鮮半島で砲撃戦が起こったというニュースを聞きました。心に緊張が走りました。許されない行為です。事件の舞台となったのが「延坪島」でした。
 事件の今後を見守りたいという思う一方で、この島の歴史的過去が気になりました。
 そこで「アジ歴」(「国立公文書館 アジア歴史資料センター」の略)の簡易検索で調べてみました。侵攻した日本軍がここで戦火を交えた記事は、幸いにも見つかりませんでした。その代わり、ものすごい暴風雨による被害記録が出てきました。死者4名、行方不明13名、負傷者144名、船舶全潰264隻、半潰30隻、行方不明30隻、遭難者1776名。
 今回の砲撃戦も偶発的なものに終わり、これ以上の被害者も出さないことが大事だと思います。その上で、原因と責任をあいまいにせず、再発を防止する措置を求めます。
朝鮮ニ於ケル暴風雨被害ニ関スル件
六月二日午前二時半ヨリ同十時迄黄海道平安南道及平安北道ノ各道西海岸方面ニ暴風雨襲来シ黄海道海州郡松林面延坪島付近ノ被害最モ激甚ヲ極メ五日迄ニ判明セルモノ死者四名、行衛不明十三名、負傷者百四十四名、船舶ノ全潰二百六十四隻、半潰三十隻、行衛不明 三十隻、遭難者千七百七十六名、損害見込額三十四万円ニ達スル

「木更津の山中にあるB29搭乗員慰霊碑」に感銘をうける2010/10/02

 戦争の記録や国内にある戦争の遺物に関心がある方は多数いらっしゃるし、ブログで紹介されている方や、積極的に活動している団体もあります。

 「千葉県の戦争遺跡」というブログは、その一つです。

それを拝見している最中に、
つぎの記事が目に留まりました。
 「木更津の山中にあるB29搭乗員慰霊碑」

強い感銘を受けましたので、紹介します。

 尖閣諸島問題が、漁船乗組員逮捕事件以来、焦点になってきています。国内外の動きからは、考えるべきことが多数あるように思います。
 私が考えていたテーマは、国家的な利害がむき出しの対立関係にいたったとき、国民同士は、どう向き合うべきかということです。そんなこんやのときに、この記事に気持ちが救われました。

多木浩二 『戦争論』(岩波新書1999年)2009/12/12

多木浩二 『戦争論』(岩波新書1999年)
多木浩二『戦争論』を買ってきました。
いまからちょうど10年前の1999年に出版されています。
『戦争論』という名前から、
クラウゼヴィッツの名前が浮かびます。
おなじ『戦争論』という名前の古典的名著の著者。
プロイセンの軍人です。
森鴎外が読み、軍の要請で翻訳したはずのものです。
ロシアではレーニンが高く評価し、
その基本的テーゼを肯定的に用いています。

私はのんきなもので、クラウゼヴィッツの現代における
位置について考えたことがありませんでした。
そのテーゼ『戦争は政治の継続である』
そのまま受け入れていたわけです。

多木浩二氏は、冒頭から、それを俎上にのぼせています。
 戦争を政治の延長と見なしたこ、それはとりもなおさずクラウゼヴィッツにとって、戦争が国家間の政治外交的関係を進める上で、当然ありうるものだったことを意味する。戦争を悪と見なすことは、彼の理論の範囲内ではありえない。クラウゼヴィッツは戦争を合目的化していたのである。近代国家の指導者たちは、戦争の合法化、合目的化という意味で、クラウゼヴィッツの考え方からはなれることができなかった。それは戦争の様相が変わってしまった今日でも、メンタリティのなかに残っている。

なるほど、そうですね。
先を読むのが楽しみです。

一枚の写真と一本の電話2009/12/03

それは昨晩のこと。ある会場で、女性県議のFさんが語ったエピソードが心に残りました。Fさんは困惑ぎみに話しました。「私が訪れたとき、90歳ぐらいのお年寄りが、ここで待っていてくれと奥に入り、一枚の写真を持ってこられきました。若い兵隊さんが4名写っている写真でした。その方は、一番隅に自分が写っていると指差しました。そのお年よりは、生きて戦争から帰ってきたのですが、となりの方たちは、沖縄へ派遣されてそこで戦死しました。亡くなった人たちの家族が写真をたよりに尋ねてきて、『うちのひとはどういう死に方をしたのでしょうか。教えてください』と繰り返し求められたそうです。その高齢者は、たまたま隣に移っているだけで、それ以上の面識もなければ、ましてやその後の消息は知りようもありませんでした。その高齢者は、とても悲しそうに無念そうに語りました。」
 その高齢者がいまだにこのことを心の重荷にしていること、そして、その写真をわざわざ見ず知らずのFさん見せ、心にたまったことを訴えたいと思ったこと(Fさんは困惑した様子でしたが)を聞き、私は、あらためて戦争の傷跡の深さを知ったのです。
 家族は、若者の最後を知りたかったのです。それなくしては、非業の死を受け入れることができないということなのでしょう。
 これが一枚の写真の話です。
 一本の電話は今日のことです。
 お昼前に私の携帯にかかってきました。番号は、メールでお伝えしておいたので、見知らぬ高齢者の声でしたが、私はピンときたのです。それは、丁寧なお礼の電話でした。親戚の方が戦場で亡くなった様子を私が調べてお知らせしたことの返礼でした。
 私は、若者の最後の姿を追い求める切ない気持ちに、昨晩と今日触れました。そのことをブログで書いておきたかったのです。
 上の写真は、西南戦争から太平洋戦争・日中戦争までをたたかった軍隊が大津市に衛戍地をもっていたという碑です。碑の裏側には、戦歴が誇らしげに刻まれています。しかし、そこには、無念の死に苦しむ家族などの思いは見ることはできませんでした。

《松本清張生誕100年記念 第四回平和・人権講演会》2009/11/21

《松本清張生誕100年記念 第四回平和・人権講演会》
チラシをいただきましたので、紹介します。
地味な取り組みですけれど、粘り強く
続けられていることにいつも敬意を抱きます。
ただ、私が参加できるかどうかは今は未定。

チラシの写真は、清張さんがハナを
ほじっているのかと誤解してしまいました。
失礼しました。
松本清張生誕100年記念 第四回平和・人権講演会
日時 2009年11月23日(祝)午後2時~
会場 明日都浜大津・大津市ふれあいプラザ 5F 中会議室
講演Ⅰ 清張と近江のかかわり
      同朋大学名誉教授・
      治安維持法国賠同盟滋賀県本部会長
       川端 俊英 さん
講演Ⅱ 治安維持法と松本清張と「昭和史」
      治安維持法国賠同盟滋賀県本部事務局長
       西田 清 さん
主催  治安維持法犠牲者国賠同盟滋賀県本部

Nさんと小学生との対話2009/10/21

先日、哨戒艇のお話で紹介した80歳を越えたNさん。
小学校に招かれて戦争の話をしたそうです。
それは、毎年らしいのですけれど、
今年はたくさん、質問が出たといっていました。

「うちのおじいさんは、戦前の時代は、
 国民が一体となっていて、いい時代だった」
と言っていますが、どうですか?

こう聞かれたそうです。

Nさんは、次のように答えたそうです。

あなたのおじいさんが
昔をどう感じていたのかということは、
人それぞれなので、それについては
いえませんが、
色んな意見を持ち、それを口にしようとしても、
憲兵というのがいて、自由にものがいえなかった
のが戦前の時代でした。
ですから、一体は一体だったかも知れませんが、
それはそうして無理やり造られたのだと、
思います。

と。

北朝鮮の新しい動きと日米合同演習と2009/09/19

三井寺での原爆慰霊法要で風船を放つ
 外交は、その情報が少なく、庶民にはわかりにくい世界です。
 オバマ演説があり、核兵器廃絶への流れが一気に加速するかと思えたのですが、近隣では、北朝鮮をめぐり、ロケット発射や核開発再開など、後ろ向きのニュースばかりが目立っていましたね。
 朝鮮半島の緊張緩和と非核化は、他人事ではありません。北朝鮮の多国間協議への復帰を強く望んでいました。
 民主党新政権の「核密約」問題への新しい前向きのアプローチとともに、北朝鮮の「六か国協議」復帰示唆は、明るいニュースです。ここまでこぎつけるために、中国やアメリカを中心に、どれだけ多くの努力が水面下ではらわれたのか、想像するしかありません。そして、それは、これからが本番ということになります。
 お隣の高島市「あいば野演習場」で、海外派兵を想定した日米合同演習が行われるタイミングなだけに、私は、朝鮮半島での緊張緩和の進展を強く願っています。
 写真は、毎年8月6日に行われる大津市の三井寺の原爆慰霊法要の風景。参加者が、平和への願いを込めて風船を放っています。
 私が撮影している場所は、かつて西南戦争の記念碑が建っていたところ。お寺の向こうに広がるのは、明治初年から陸軍の基地がおかれ、戦後は、アメリカ軍の占領地となった場所です。
 近代日本の戦争への起点であり、アメリカへの従属の象徴となった場所と、平和へのを発信する風船が同時に写っている写真ということになりますね。
金総書記、「6カ国」復帰を示唆=核問題で中国特使と会談
9月18日14時19分配信 時事通信
 【北京時事】新華社電によると、北朝鮮の金正日労働党総書記は18日、中国の胡錦濤国家主席の特使として平壌を訪れた戴秉国国務委員(外交担当)と会談した。金総書記は席上、核問題について「2国間および多国間の対話を通じ解決したい」と述べ、6カ国協議復帰の可能性を示唆した。こう着状態にある北朝鮮核問題が動き出す契機となるか注目される。
 会談では、戴氏が胡主席の親書を手渡した。胡主席は親書で、「中国は、(朝鮮)半島非核化の実現や北東アジアの平和・安定維持を一貫して目指しており、(北)朝鮮と共に努力することを惜しまない」とのメッセージを伝えた。
 これを受け金総書記は、朝鮮半島情勢や核問題をめぐる北朝鮮の立場を詳しく説明。「(朝鮮半島)非核化の目標を堅持し、平和安定維持に力を尽くす」と表明した。
 対話による核問題解決の姿勢を見せ、6カ国協議議長国の中国の顔を立てる一方、「2国間対話」の選択肢も示して、米国との直接協議を求める立場も維持した形だ。

民主党政権誕生~核密約問題の対応に注目しています~2009/09/17

不破哲三『日米核密約』
 核密約とは、1960年の日米安保条約改定のとき、《核を積んだ軍艦や飛行機の出入りは自由、そのときは事前協議はいらない》ということを確認しあった秘密協定のことです。
 不破哲三氏が2000年春の国会で、米外交文書をもとに、核密約文書を暴露して、政府を追及した(上の写真)のがはじまりです。
 自民党政府は一貫してその存在を認めませんでした。しかし、民主党の鳩山新首相と岡田新外相が、自民党政府とは異なる対応を公言していることが注目されます。
 たとえば、つぎのような報道です。
岡田外相「核密約を徹底調査」
9月17日7時56分配信 産経新聞
 岡田克也外相は17日未明、初閣議後の記者会見などで、核搭載米艦船の寄港などを認める日米核密約に関し、「外交は国民の理解と信頼に裏付けられていなければならない。大臣命令を事務次官に発して期間を切って徹底調査を命じる」と述べた。
 また、米国に対して核の先制不使用を働きかけるかどうかについて「私の持論は『先制使用すると明言する国に核軍縮や核の不拡散を言う資格があるのか』ということだ。先制不使用によって核の抑止力が弱まるとは考えていない。誰が考えてもそれ以外の結論はないのではないか」と述べ、外務省内で議論を進める考えを示した。
 在日米軍再編、アフガニスタン支援などに力点を置く考えを示し、来年1月で期限が切れるインド洋での給油活動について「単純延長はない」と明言した。
 一方、岡田氏は、昨年の日朝実務者協議の合意に基づき、北朝鮮側に拉致被害者に関する再調査を求める考えを示した。
このような姿勢をとる背景には、当事者の発言が相次いだことも挙げられます。
「核密約、現在も有効」 元政府高官が新証言
山陽新聞
 米軍核搭載艦船の日本への領海通過・寄港を黙認した核密約問題に絡み、首相官邸で外交政策立案に関与した元政府高官は1日、密約の存在を認めた上で「日本が『核の傘』に守られている以上(通過・寄港を認める)取り決めがあるのは当然」と言明。「(日米間で核密約を)殺したわけではない」とも述べ、密約を記した「秘密議事録」は現時点でも外交上有効との見解を示した。
 匿名を条件に共同通信に語った。
 元高官の証言は核密約の存在を新たに補強し、歴代保守政権が通過・寄港を黙認してきた背景に、「核の傘」を最優先する政策判断があったことを明確に認める内容。核密約が現在も有効だとしていることから、密約の全容解明を掲げる次期民主党政権は今後、難しい対米交渉を迫られる可能性が出てきた。
 元高官は、米国が冷戦終結後、核搭載艦船を日本に寄港させていない経緯から「(秘密議事録は)実態として死文化した」とする一方、仮に民主党政権が核密約を公開しても密約が失効するわけではないと語った。
 さらに、朝鮮半島有事に米軍が日米安全保障条約上の「事前協議」を経ずに在日米軍基地を使用できるとした密約に関しても、消滅したわけではないと述べ、核密約同様、現在も有効との認識を示した。
 元高官は「日本が守られているのに(核の通過・寄港を)ダメとは言えない」とし、「核の傘」堅持のために核密約が不可欠だったと指摘した。
(9月1日20時57分)

大津市立図書館で資料集め ~延々と続く戦死者の名簿~2009/09/17

戦死者の名簿が終わらない@『近江伊香郡志』下巻
 明日から、甲賀市へ一ヶ月間出張して仕事をすることになりました。4年前もたしかそうでした。今日は直前なので、お休みをもらいました。
 必要な資料を整えて、時間があるときに、目を通そうと、大津市立図書館に出かけてきました。県や市町村が発刊している公式の歴史書の兵事もしくは軍事の項目を閲覧することが目的です。
 天気がよい一日でしたから、外出して、遺跡のありそうなところを見学してもよかったのですが。
 私が目を通して、コピーをとったのは、
○『近江伊香郡志』下巻 昭和27・28年版(復刻版)
○『マキノ町誌』 昭和62年版
○『新旭町誌』 昭和60年版
○『滋賀県八幡町史』
 古いものは、戦死者をていねいに扱っていて、一人一人の名前や死亡場所まで掲載しています。そのために、何ページにもわたって累々たる戦死者の名簿を見ることになりました。私は、やりきれない思いでコピーを続けました。日清戦争や日露戦争を美化する人たちは、『県史』や『郡史』に刻まれているこの名簿を直視してはいないと思います。

「日米合同演習反対 10/3 あいば野集会」2009/09/07

 あいば野平和運動連絡会の事務局長のHさんから、文書をいただきましたので、紹介します。

 滋賀県の高島市にある「あいば野演習場」で、10月上旬から下旬にかけて、アメリカ陸軍第42歩兵師団第1-69歩兵大隊と陸上自衛隊第7普通科連隊(福知山)が参加する「日米合同演習」が実施されるそうです。
 あいば野での日米合同演習は、今回が10回目になります。
 抗議集会は、10月3日(土)午後2時から4時まで。集合場所は、高島市今津町の「住吉公園」。

 あいば野平和運動連絡会から、高島市に「あいば野演習場における日米合同演習に反対する請願書」が出されます。その文面も紹介しておきます。

あいば野演習場における日米合同演習に反対する請願書

高島市議会議長 渡邉近治 様

請願の趣旨
 陸上自衛隊幕僚監部はさる7月17日、「米陸軍と中部方面隊の日米共同実働訓練を、10月上旬から下旬に、滋賀県あいば野演習場および今津駐屯地で実施する」旨、発表しました。
 しかし、この演習は、自衛隊の海外派兵に向けて、「実戦経験豊かな」米軍から、自衛隊が「人殺し」の訓練を受けるものです。
 いま、海賊対策を名目にソマリア沖などへの自衛隊の派兵が行われていますが、このような「個別の派兵法では間にあわない」として『海外派兵恒久法』の制定が画策されています。
 また日常の演習内容も、専守防衛のための訓練から、海外で戦争するための訓練に変化し、あいば野においても、海外派兵の中核部隊として創設された「中央即応隊」との共同訓練が昨年9月全国ではじめて実施され、増設された「市街地訓練所(都市型戦闘訓練施設)」では、中部方面隊管内から年間数千人が来演し、「人殺し」の訓練を受けています。今回の日米合同演習は、これら日常訓練の集大成として行われるもので、自衛隊海外派兵を先取りする憲法違反の危険な演習です。
 今回参加する部隊は、自衛隊は第3師団第7普通科連隊(京都府福知山市)、米陸軍は第42歩兵師団第1-69歩兵大隊(ニューヨーク州兵)で、あいば野における日米合同演習は、昨年12月に続いて、1986年以来10回目になります。
 今後もあいば野に米軍が来ることが続けば、在沖縄海兵隊の「本土移転訓練」が年1回程度実施されている王城寺原演習場(宮城県)や日出生台演習場(大分県)などのように、あいば野に米軍専用の宿泊施設や食堂が建設される恐れがあり、米軍基地周辺で日常化している「米軍犯罪」が高島市内でおこる可能性も生まれ、高島市の発展にとって大きな障害になります。
 ついては、上記の趣旨をふまえて、貴議会が下記事項を決議し、関係省庁へ意見書を提出されるよう請願します。

 請願事項  あいば野演習場における日米合同演習に反対すること

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)