お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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写真集「大津市の昭和」で見つけた写真2019/12/17

「昭和カフェ」の書棚に置かれていた『大津市の昭和』(樹林舎2018)。
そこに収録されていた写真がこれ。
大津陸軍墓地の清掃奉仕。
こういう写真は、旧真田山陸軍墓地にもある。
どこでも行われていたんだろう。

もう何度も旧大津陸軍墓地に足を運び、
写真も撮り続けているけれど、
見たことがない墓地の姿である。

これは、まちがいなく、
バイパス工事で破壊される前の兵卒の墓地の姿。

とても興味深い。

戊辰役殉難士菩提所2019/12/09

戊辰役殉難士菩提所
戊辰役殉難士菩提所。
京都をあるけば、いたるところに史跡。
東福寺塔頭の一つ地退耕庵。
その門前にある。

ギャラリーQにて戦跡写真展示会(11/15~20)2019/11/15

 ギャラリーQを借りて、戦跡(碑や墓碑など)の写真展示会をしました。はじめて、これまでやってきた探求を形にして、公開しました。
 会場は、商店街のなかにありますが、人通りは少ない場所です。友人や知人に案内して、できるだけ見ていただけるようにしました。

10/27見学会への準備 その32019/10/12

画面正面が清国兵士「寶少春」の墓碑
日清戦争のとき(明治27=1894年)、清国兵士が、俘虜として日本各地に収容されました。松山、大阪、大津、名古屋、豊橋、佐倉などです。
 大津市では、東本願寺別院と本長寺が収容所でした。
 記録によれば、そのうち2名が病死し、大津陸軍墓地に埋葬したとあります。墓碑には、1柱には汝恒信、もう1柱には寶少春と刻まれています。
 この二つの墓碑について、今回では新しい発見はありません。

10/27見学会にむけての準備 その22019/10/12

ロシア人俘虜の墓碑@旧大津陸軍墓地
 見学予定コースの最初は、旧大津陸軍墓地。私が詳しく調べている場所であるだけでなく、陸軍の駐屯地があった場所であり、明治初期から1945年の敗戦までの期間をカバーできるからです。
 旧大津陸軍墓地の成り立ちなどの話は15分。その後、どの墓碑・記念碑を紹介して回れば、ツァーの趣旨に沿うものになるかです。
 私が見学会をはじめたのは、2007年11月14日が最初です。そのときは、まだ憲法改正の動きはありましたが、集団的自衛権を認める閣議決定や安保法制の成立より前でした。情勢に触れず、旧大津陸軍墓地をそのまま解説するというものでした。
 12年後の今回は、いよいよ日本が海外での戦闘に参加し、実際に犠牲者を出す可能性が生まれたものでの見学会、12月あたりにオスプレイが参加する日米共同訓練が近接している高島市で行われるもとでの見学会です。名前も「平和ツァー」ですから、なにを伝えるのかを鮮明にしたほうがいいと思いました。
 そういう考えで、紹介する墓碑・記念碑を選ぶとどうなるか。
士族中心の軍隊から徴兵軍への移行については、簡単にして、侵略戦争の実相がまざまざと見ることができるものを選ぶということでしょうね。
 日中戦争・太平洋戦争の末期以外は、日本は戦場になっていませんから、直接のものはありません。まちがいなく侵略戦争をしたという証拠は、俘虜(捕虜)の墓碑の存在だと思います。
 清国の俘虜の墓碑が2柱。ロシア人兵士の墓碑が1柱。
 これら3柱については、その存在は広く知られてないし、これまでの見学会よりもていねいに掘り下げるのがいいのじゃないかと思いました。

10/27の見学会にむけての準備 その12019/10/12

旧大津陸軍墓地の一部
 週一回の休日を使って、見学会(「平和ツァー in 大津」 主催:全教滋賀教組女性部 10/27)の下見をしてきました。日程は午前10時から14時までの間。移動の手間を考えると、二カ所程度がいいのではないかと思いました。
 そこで、①旧大津陸軍墓地(約600の墓碑と記念碑)、②「歩兵第九聯隊之跡」碑付近(歴史博物館に隣接)を回るプランを考え、実際に回ってみることにしました。
 旧大津陸軍墓地では、偶然、奉賛会の方がたの清掃の日と重なり、ご挨拶することができました。あわせて、10/27で問題ないのかも確認しました。清掃後は、墓碑の文字も鮮明で感謝を伝えました。
 10:00の集合場所(起点)からは歩いて15分ぐらい。10:15から10:30まで、アウトラインを話す。10:30から、墓地をめぐりながら、解説。
 13:00に歴史博物館に到着すれば、2箇所目は十分時間があるはずですから、12:30までの2時間が案内で使えることになります。

戦跡案内の依頼をうけて2019/06/09

教育関係の団体の方から、戦跡案内の依頼がありました。久々に声をかけていただきました。いい機会だと思って、「今、なにを学び、なにを伝えるのが大切か」を考えてみたいとおもいました。実施は10/27(日)の予定。

「オオスカシバ」がタマゴを産んでいるところ2015/10/15

オオスガシバ
今年の夏にはじめて出会いました。
オオスカシバ。
思ったより小さくて、
ふとっちょで、
羽を高速で動かしていました。
空中でホバリングすることもできます。

「故陸軍野戦銕道隊 松岡 七郎 墓」が今に語るもの2015/10/15

佐渡丸での遭難を記した墓碑文
この墓碑について、フェイスブックに以下のことを書きました。

「陸軍徴傭運送船」ってご存知ですか。戦争のために、陸軍に徴用された商船や客船のことです。乗組員も軍属として徴用されました。1950年代の朝鮮戦争でもあったことです。海外で戦争をするために、民間人が無理やり戦争にまきこまれることをしめす旧い墓碑を紹介します。
 ときは日露戦争の開戦から4か月後。1904年6月15日、ウラジオストックのロシア艦隊が日本の3隻の輸送船をそれぞれ捕捉し砲撃しました。最初につかまった「和泉丸」は退去を命じられた後、撃沈されました。
 つぎの「常陸丸」は壮絶な攻撃をうけながらも降伏せず、戦闘員と乗員あわせて1,091名が死亡。
 三番目の「佐渡丸」は砲撃をうけましたが、ロシア艦隊が早期に退去したので、逃走をはかり沈没をまぬかれました。しかし、壮絶な状況にありました。
 Wikipediaによると佐渡丸の戦死者は『陸軍219名、乗組員17名の総計236名[捕虜は陸軍(宮沢泰次郎陸軍三等軍医)と海軍(小椋)の将校各1名、文官14名、乗組員その他13名の計29名[、生存者は野戦鉄道提理部694名(うち将校12名)、第二臨時築城団22名(うち将校5名)、攻城砲兵司令部13名(うち将校3名)、戊碇泊場司令部135名(うち将校4名)、海軍関係者3名、便乗者2名、各種乗組員124名の計993名であった』
 この墓碑には、『陸軍野戦鉄道隊 松岡七郎乃墓 』と刻まれています。その側面には『明治三十七年六月十五日福岡県沖島付近佐渡丸遭難死 』とあります。まさに「佐渡丸」の21歳の乗員の墓碑でした。
 明治42年の『大津市志』には、この青年についての記事があります。
『大津市了徳町一番地   鉄道掃除夫雇人 松岡七郎   明治十六年三月十日生 明治三十七年五月二十六日野戦鉄道に隷属し、三十七八年戦役従軍御用船佐渡丸に乗込。明治三十七年六月十五日筑前国沖の島南方に於て敵艦の砲撃を受け避難準備中端艇沈没の為め溺死。同日従軍記章授与。同四十一年五月靖国神社に合祀せらる。 』
 民間人のために、軍人より遅く靖国神社に合祀されたのです。

崩壊前の日露戦争の墓碑(松岡七郎)2015/10/14

「故陸軍野戦鉄道隊松岡七郎墓」@大津市
先の記事で正面が崩れていた墓碑です。
2007年では、はっきり墓碑名が読めます。

「陸軍野戦鉄道隊松岡七郎」

このときでも、はがれおちる危険は
見えていました。

もう見ることができない姿です。
故人に対しても、残念なことです。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)