お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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「陸軍歩兵二等卒林力松之墓」@旧真田山陸軍墓地2011/09/15

「陸軍歩兵二等卒林力松墓」@旧真田山陸軍墓地
 これが旧真田山陸軍墓地に置かれている「二等卒 林力松 之墓」です。いわば公的な墓碑。
 近づいて写せば大きく見えますが、実際は、腰の高さもありません。
 出身地(南小松=旧志賀町、現在の大津市)に誇らしげに建っている墓碑との落差はあまりに激しいものがあります。
故郷や両親にはではOnly Oneですが、軍隊ではOne of them。絵に描いたような姿です。

「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争 その19 ~金百貮拾圓ヲ賜フ~2011/09/12

中村家に保存されている中村林蔵の資料(1)
 日清戦争へ出征して生きては戻らなかった兵卒たちの「その後」の物語です。中村林蔵は、第九聯隊に所属した陸軍歩兵二等卒でした。遼東半島に上陸した直後に病死したことは、見てきたとおりです。
 明治28(1895)年4月に下関講和条約が締結され、5月には批准されました。大陸に渡っていた日本軍は、続々、凱旋帰国しました。7月のことです。このために、仮設の凱旋門が宇品港から市内に入る道に設けられました。その後、その地には凱旋碑が建てられることにもなりました。
 中村林蔵は、5月1日に亡くなっていましたから、凱旋帰国できません。また、所属した第九聯隊全体が新たな任務をあたえられため、11月末まで大陸にとどまりました。
 凱旋帰国は、年の瀬ぎりぎりとなりました。それでも、生きて戻れた兵卒は幸せです。
 ところが、聯隊は、一週間後の明治29(1896)年1月日に、再び出征することになります。台湾征服戦争への従軍でした。

 さて、「死後の物語」です。
  中村林蔵が亡くなった同じ月の末に、台湾で反乱がおこります。台湾の側から見れば、独立戦争。日本の側から見れば征服戦争がはじまります。その最中、10月28日に、近衛師団長北白川能久が戦病死しました。皇族で最初の戦没者でした。11月11日に国葬が行われました。
 同年12月15日に、靖国神社に日清戦争の戦没者、1,496名が合祀され、16日から18日まで臨時大祭。これを最初として、日清戦争の合祀者は、1万4800人に及びました。
 明治30年の末に、中村林蔵の父・中村利平のもとに、上の写真の書類とともに、金百貮拾圓が送られてきました。「戦役ノ功ニ依リ受賞スベキ処、死歿セシニ付キ特○ヲ以テ」賜ったものでした。
 そして、そのお金をもって、中村林蔵碑が建てられ、村挙げて、除幕式が営まれたそうです。
 中村林蔵の死の様子は、これまでの私の推察であたっていたのでしょうか。「戦役ノ功」の内容とは、どのようなものなのでしょうか。
 中村林蔵碑の碑文をていねいに、読み直す必要があります。

「故近衛歩兵一等軍曹 切烈無比釋義淳」@寿命寺2011/09/10

「故近衛歩兵一等軍曹 切烈無比釋義淳」
 旧雄琴村・寿命寺墓地の続きです。

  戦死者の墓碑の一番左にある墓碑を見てみます。
 墓碑の正面には、次のように刻まれています。
故近衛歩兵一等軍曹 切烈無比釋義淳
 この正面の碑文からは、埋葬されている人の名前がわかりません。「義淳」なのでしょうか。どの戦争で亡くなったのかという問題もここからは答えがありません。
 右側面を見てみます。
 しかし、「明治廿八年・・・・台湾・・・・・・・・病死 三上政吉」ぐらいしか読み取れません。「廿八年」も微妙なところです。しかし、氏名が「三上政吉」、近衛歩兵と台湾の文字から考えて、日清戦争でなくなったのではないかと思います。
 左側面の「三上庄吉」は、建立された方の名前でしょう。しかし、そうなると、同じ三上庄吉さんが二つの墓碑(三上秀哲三上政吉)を建立されているということになります。日清戦争と日露戦争の双方で?それとも、二つの墓碑は同じ日露戦争で?  旧雄琴村の日露戦争の「戦時事績」には、三上秀哲さんは、戦病死者として掲載されています。同じ日露戦争ならば、しかも、もしかしたら兄弟かもしれない三上政吉さんが掲載されないのは変ではないでしょうか。ですから、政吉さんは日清、秀哲さんは日露戦争で亡くなったと思います。

寿命寺墓地には日清戦役と日露戦役の墓地がある2011/09/10

寿命寺の戦死者の墓碑
 私の地元滋賀県大津市の話にもどります。
 仰木の里の大学グラウンドの下手に真新しい墓地がありました。旧雄琴村の墓地であったことと、その移設の経緯は、下の記念碑から読み取れました。
 戦没者の墓碑は、上の写真のように1箇所にまとめられています。最初は、左の二柱は別物だと思っていました。しかし、碑文を読めば、やはり戦争にかかわる墓碑でした。右の背の低い墓碑5柱とその左となりの高く尖った墓碑が、昭和の墓碑でした。
 それ以外の三つの墓碑については、別々に紹介します。
 碑文は摩耗して読み取れない部分もありましたが、一番左が、日清戦争の墓碑ではないかと思います。右の二つの柱は日露戦争の墓碑。

 旧雄琴村の「戦時事績」から作成したのが下の名簿でした。日清については名簿がありません(私は見つけることができていません)。
(旧)滋賀郡雄琴村 日露戦争戦病死者

●陸軍歩兵曹長 小谷 鏻之助
   戦死
●陸軍砲兵二等卒 小川 清太郎
   病死
●陸軍歩兵上等兵 三上 秀哲
    病死

「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争 その18 ~明治29年歿の兵卒について~2011/09/02

「明治廿九年二月十四日於台湾歿」
 206名の兵卒は同じ墓地区画のなかに眠っています。204柱には「明治廿八年」と刻まれていますが、2柱だけ、「明治廿九年」と刻まれた墓碑があります。
明治29年2月14日 台湾  一等卒 小泉 彌太郎(24)
明治29年3月25日 台湾台北 一等卒 北川 長松(59)
 なぜ、二人だけ明治29年で、しかも台湾なのか。

 その答えは、『大津市史』(昭和17年)の文章のなかにあります。すこし面倒ですが、全体の流れがおさらいできます。
 明治二十七年征清の役起こるや十一月二十六日動員下令、十二月二日動員を完結した。十八日軍旗祭に併せて同連隊の管区滋賀・三重・京都・奈良の一府・三県有志者発起の出征予餞会を錬兵場に開き、長くも第四師団長白川宮殿下の御来臨を辱うし令旨を賜ふ。(中略)
 翌二十八年三月二十四日師団は第二軍に編入せられて広島に集合の命を受け、連隊は二十八日屯営を発し、四月十一日宇品を解纜して愈々出征の途に上った。十六日大連に入り、二十二日柳樹屯に上陸したが、既に講和休戦となったので五月十七日第二軍の戦闘序列を解かれ、師団は遼東半島守備の命を受けて、爾来連隊は海城その他に駐屯すること九ヶ月で、同年十二月凱旋の命に接して宿営地を発し、連隊(第二中隊員)は十二月二十五日衛戌地に帰り、同三十日第二中隊帰営して茲に出征の事は全く終わった。
 然るに凱旋後未だ日を経ざるに二十九年一月四日台湾匪徒討伐の命を受け、大久保混成旅団長の隷下に属して一月七日屯営出発、八日宇品出帆、同十三日台湾基隆港に上陸して石碇街・坪林尾・石漕・殺牛察等の匪徒を掃蕩し、七月より十一月に亘り凱旋した。
 日清戦争の実戦に参加した部隊は、明治28年7月に凱旋帰国を果たしています。ところが、講和条約締結後に、中国大陸に上陸した第九聯隊は、戦闘序列を解かれますが、そのまま遼東半島の守備に残されます。そこで、204名が病死。ようやく、12月に戻ったのはよいですが、わずか一週間の帰国で、今度は、台湾へ出征の命令。上記の2名は、無事遼東半島から戻れたものの、台湾へ送られ、そこで亡くなったと思われます。

「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争 その17 ~撤退命令以後~2011/09/02

「明治廿八年十二月八日於旅順口歿」(大塚長治郎墓碑)
 「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」、あわせて219名の日清戦争戦病死者(旧大津陸軍墓地に眠る)が、どういう死を迎えたのかが知りたいと思って書いてきました。
 しかし、階級と氏名だけでは、読んでいただく方にも気持ちが入らないだろうと思いました。「その1」で、次のように書きました。
 さて、219名というだけでは、あまりに抽象的です。
   大津市に営所をおく陸軍歩兵第九聯隊のなかには、高島市出身の兵卒も多数入営していました。そのなかに、中村林蔵、福井乙吉、内田検次郎、奥村粂蔵、井花長次郎、大塚長治郎、日置卯市そして富田媒吉
これらの20代の若者を頭に描きながら、お読み下さい。
 これらの若者8名の運命ですが、まず4月29日に「「沙家屯」で日置卯市が亡くなりました。5月1日には、同じ場所で、中村林蔵、内田検次郎そして奥村粂蔵が命を落としました。6月18日には「柳樹屯」で冨田楳吉、9月11日には「金州」で福井乙吉、10月6日には「海城」で井花長太郎が亡くなりました。
 それぞれについて、わかることは書きました。
 残るは、大塚長治郎ひとりです。
 明治28年4月、下関条約で清国との講和が成立し、遼東半島と台湾を「割譲」させ、巨額の賠償金を手に入れた日本でしたが、ロシアなどによる「三国干渉」で、遼東半島の返還を求められます。5月、ついにそれを受け入れることを決め、条約は批准されます。しかし、遼東半島の返却にもなう清国との交渉が11月までつづき、その間、大塚長治郎らが所属する陸軍歩兵第九聯隊は、遼東半島に駐留しつづけます。  11月、賠償交渉が終わり、撤退命令が下ります。第九聯隊は11月23日から、舎営地を離れ、帰国のために柳樹屯に集結します。
 大塚長治郎は、その時点でも、まだ命を保っていました。しかし、以下の兵卒とともに、帰国の船に乗ることができず、異土で果てることになりました。
12月 3日 金州  一等卒 寺田 吉太郎(99)
12月 6日 (-)  一等卒 土井 友吉(66)
12月 8日 旅順口 一等卒 大塚 長治郎(189)
12月11日 金州  一等卒 宮島 岩松(49)
 いま、わかることはこれだけです。

直四角柱型の戦没者の墓碑~「陸軍歩兵一等卒山田庄吉之墓」~2011/09/01

「陸軍歩兵一等卒山田庄吉墓」@高島市新旭町
 墓碑の形のことで思い出しました。
 「陸軍歩兵一等卒稲田岩太郎墓」(西野墓地)や「陸軍歩兵軍曹小林廣三郎墓」(河原墓地)と似た直四角柱型の戦没者の墓碑を新旭町で見たことがあります。
 それが「陸軍歩兵一等卒山田庄七之墓」です。
 養護学校のちかくの墓地・・・新庄墓地なんでしょうか・・・にありました。日露戦争の戦死者で砲弾型墓碑「故陸軍歩兵一等卒小林鹿治郎墓」のある墓地です。
 山田庄七は、日清戦争後に日本が清国から「割譲」された台湾の守備中に亡くなったことが墓碑に記されています。

 いましげしげと眺めると、石積みのうえに、台座が載っているのは、珍しい気がします。当初からこうなのか、そうではないのか。
 そういう扱いや変遷のなかに、戦死者の「死後の物語」があるように思います。
 稲田岩太郎や小林廣三郎の墓碑に比べると山田庄吉の墓碑は素朴です。そこに飾りを受けつけない厳しさを感じます。亡くなった当初は、美しい墓碑をつくるという発想は生まれない気がします。となると、岩太郎や廣三郎の墓碑は後の時代のものかも知れません。

直四角柱型の二つの墓碑 ~稲田岩太郎(日清戦争)と小林廣三郎(日露戦争)~2011/09/01

小林廣三郎の墓碑の右側面と背面
 河原墓地の4基の日露戦争の墓碑のうち2基は、これまで見てきた戦没者の墓碑とは違う形をしています。「陸軍歩兵一等卒 國松藤次郎・國松喜三郎 墓」と「陸軍歩兵軍曹小林廣三郎墓」のことです。高島市にあるような砲弾型でもないし、四角柱の上に四角すいが載っている一般的な戦死者の墓碑の形でもありません。
 それで、いつ建てられたのか、その後の変化(積み直しや移転など)はないのか?
 二つの墓碑の側面も背面も見ましたが、建立年月日の記述はありませんでした。上の写真は、小林廣三郎の墓碑の右側面と背面です。残り2基については、後日。
「陸軍歩兵一等卒稲田岩太郎墓」(日清戦争)
 ところで、林廣三郎の墓碑とほぼ同じ形の戦病死者の墓碑があることを思い出しました。瀬田駅付近の西野墓地にある「陸軍歩兵一等卒稲田岩太郎墓」です。
「陸軍歩兵一等卒稲田岩太郎墓」右側面から
 なんらかの参考になるでしょうか?

 稲田岩太郎について、付け加えることがあります。岩太郎は、陸軍歩兵第九聯隊に所属した一等卒であり、日清戦争に出征しました。その墓碑は、旧大津陸軍墓地にもあるし、西野墓地にもあります。ともに、明治28年9月21日に死亡したことが記してあります。ただ、死亡場所の表示がありません。これが気になっています。

「臨時陸軍檢疫部職員死者追悼之碑」2011/08/30

 広島市に「臨時陸軍檢疫部職員死者追悼之碑」があることを知りました。その碑文も紹介されていましたが、カタカナは読みにくいので、すべてひらがなに直すことにしました。  まず、戦争における検疫部の重要性を一般的に述べる部分からはじまっています。
遠征の師あれば惡疫の之に随ふことは古今の戰史に徴して明らかなり。故に師の將に凱旋せんとするに先だち檢疫部を設け以って惨毒を豫防するは軍國の一大要務とす。尚も然らずんば縦令捷を外に制するも病に内に勝つことは能はずして或いは病死者をして戰死者の數よりも多からしむるに至る台察せらる可けんや。
 続いて、具体的な検疫の内容に触れています。
明治二十七八年戰役の終りに於て我陸軍は豫め臨時檢疫部を組織し似島彦島櫻島に檢疫所を行はしめたりき。其數船舶六百八十七隻人員二十三萬二千三百四十六名物品九十三万二千六百七十二點の多きに上れり。
 漢数字は直感的にわかりにくいです。船舶は678隻、人員232,346名、物品932,672点の検疫を行ったということです。
是に於て我軍國檢疫を達し全局の大功を収めたり。寔に萬古未曾有の盛事と云ふべし。鳴呼檢疫に從軍するの諸氏は一身を以て犠牲に供し一百餘日の久しき毫も倦怠の色なく遂に惡疫をして豫期の如く甚しきに至らしめずして止む。其功實に偉大なりとす。
 功績をたたえた部分につづいて、53名の犠牲者が出たことを明らかにしています。
就中陸軍歩兵少尉広田伸頼君以下五十有三名の如きは檢疫中病毒に感染し、以て其命を殞せり洵に其功績は陸軍檢疫部の偉業と共に湮滅す可らざるなり。乃な同志の賛助を得て之を石に勒し以て後世に傳ふること云爾
明治二十八年十月三十一日
 これは、軍隊や軍夫らが帰国する際に、コレラ、赤痢、腸チフスなどの病原菌を国内にもちこまないように水際で食い止める努力のことですね。

「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争 その16 ~海城~2011/08/30

大伴圓蔵墓碑より
 泉鏡花の小説『海城発電』の内容を、伊豆俊彦氏は、ホームページのなかで、次のように要約しています。
「海城発電」は『太陽』一八九六(明治二九)年一月号に発表された。日清戦争当時、日本軍が占領した中国遼寧省の海城を舞台とする話である。捕虜になった日本の看護員が、清国の傷病兵の看護に尽力し、感謝状をもらって帰って来た。敵情を訊問された看護員は、夜の目も寝ず、ひたすら看護に没頭したから、敵情については何も見聞きする余裕がなかったと答えた。これに激昂した軍夫(軍の雑役をする人夫)たちは、国賊だとののしり、感謝状を破り棄てよと迫る。看護員は自分は戦闘員ではなく、赤十字の看護員であるから「職務上病傷兵を救護するには、敵だの、味方だの、日本だの、清国だのという、左様な名称も区別もない」と主張して、軍夫たちの脅迫に屈しなかった。軍夫たちは懲罰のためと称 して、この看護員を恋い慕う病気の清国人少女を引きずり出し、凌辱し、輪姦して、死にいたらせた。冒頭文はこれを目撃したイギリスの新聞記者が「海城発」として、本国の通信社に打電したものである。
 さて、その海城。『戦役経歴書 第九聯隊』によると、第二大隊と第三大隊が到着したのは、明治28(1895)年6月6日でした。第二大隊は11月23日までこの地に残りましたが、第三大隊は8月24日に海城を出ています。
 ですから、9月以前は、第二と第三大隊に属した兵卒、9月以降は、第二大隊の兵卒だと思われます。
 6月23日 海城 輜重輸卒 清水 常吉(134)
 6月27日 海城 一等卒 中村 竹次郎(13)
 7月10日 海城 一等卒 高橋 彌三吉(183)
 7月13日 海城 一等卒 坪田 石之助(142)
 7月13日 海城 一等軍曹 小泉 音吉(B03)
 7月15日 海城 二等卒 西川 十太郎(191)
 7月16日 海城 一等卒 菅井 宇吉(100)
 7月17日 海城 一等卒 小走 音松(205)
 7月24日 海城 一等卒 阪本 竹松(38)
 7月24日 海城 二等卒 井詰 嘉吉(159)
 7月26日 海城 二等卒 吉村 広吉(4)
 7月26日 海城 二等卒 大伴 圓蔵(大津市)(48)
 8月 7日 海城 一等卒 川崎 利吉(18)
 8月 9日 海城 二等卒 山田 元次郎(30)
 8月11日 海城 一等卒 六條 伊蔵(61)
 8月17日 海城 一等卒 竹内 栄次郎(17)
 8月20日 海城 一等卒 松本 岩吉(146)

 9月 5日 海城 一等軍曹 中沢 市次郎(B07)
 9月 9日 海城 二等卒 井上 直蔵(203)
 9月13日 海城 一等卒 大橋 卯三郎(大津市)(200)
 9月13日 海城 一等軍曹 松室 重凞(B11)
 9月14日 海城 一等卒 田畑 富蔵(175)
 9月16日 海城 二等卒 青山 伊之助(71)
 9月16日 海城 二等軍曹 中村 定次郎(B08)
 9月18日 海城 二等卒 太田 竹松(106)
 9月19日 海城 一等卒 前田 繁二郎(154)
 9月21日 海城 二等卒 奥田 亀吉(114)
10月 5日 海城 一等卒 吉村 寅吉(102)
10月 6日 海城 一等卒 井花 長太郎(173)
10月16日 海城 一等軍曹 太田 末次郎(B13)
10月18日 海城 一等卒 田中 時松(140)
10月23日 海城 一等卒 宮田 梅吉(86)
 上の名簿のなかに、先日、その墓碑の所在(出身地での)がわかった大伴圓蔵井花長太郎の名前があります。死因は、『大津市志』に記述のある大橋卯三郎以外はわかりません。
 一番上の写真は、念仏寺にある大伴圓蔵の墓碑の右側面の碑文で、下は同じ圓蔵の旧大津陸軍墓地にある墓碑の側面です。
旧大津陸軍墓地の大伴圓蔵の墓碑から

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)