お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
戦傷死した鎌倉誠一少尉(23歳)の場合~日露戦争の第一回目の臨時大祭で合祀~ ― 2010/10/11
戦死した村治少尉につづいて、戦傷死した鎌倉少尉の場合はどうなったでしょうか。
鎌倉誠一少尉について、明治44年の『大津市志』の「人物志」はつぎのように記録しています。
そして、第一回目の大祭で合祀されたのです。
鎌倉誠一少尉について、明治44年の『大津市志』の「人物志」はつぎのように記録しています。
大津市上百石町百三十番屋敷つまり、鎌倉少尉は、戦闘により受けた傷で三日後に病院で亡くなりました(戦傷死)。23歳でした。
陸軍歩兵少尉正八位勲六等功五級 鎌倉 誠一
明治十四年五月八日生
明治三十一年中央幼年学校出身歩兵第二十聯隊小隊長として三十七八年戦役従軍各地戦闘三十七年九月三日清国遼陽付近の戦闘に於て左胸及前膊貫通銃創を受け同月六日「シュジャトウン」野戦病院に於て負傷により死亡同日戦功に依り叙勲六等単光旭日章及功五級金鶏勲章並に従軍記章を賜はり同三十八年五月に靖国神社に合祀せられる。
そして、第一回目の大祭で合祀されたのです。
戦闘死した村治昭少尉(21歳)の場合~日露戦争の一回目の臨時大祭(明治38年5月)で合祀~ ― 2010/10/10
靖国神社には、「合祀基準」というものがあり、戦没したただけでは、合祀されませんでした。死に方が問題なのです。
明治 11(1878)年6月27日太政官への伺いでは、戦闘死者、戦傷死者、戦闘中の事故死者、敵の捕虜となって死亡した者は合祀の対象でした。しかし、戦病死者は含まれていませんでした。
戦病死者は、明治31(1898)年に陸軍大臣告示がだされ、特別合祀となりました。つまり、合祀することが基本になったのではなく、特例で認めたにすぎません。基準は日露戦争でも変わりませんでした。
つまり、戦病死者は、日露戦争でも、あくまで特別合祀でした。戦死者などの合祀とは別に、遅れて行われました。つまり、時間的にも差別をうけたのでした。
段々畑のような傾斜をもつ旧大津陸軍墓地の最上段に、将校だけの墓地がつくられています。大小さまざまな十数柱の墓碑が並んでいます。
ここに村治昭少尉の墓碑があります。
いくつかの墓碑をはさんで左には、父親である陸軍二等軍医正村治重厚陸軍二等の立派な墓碑が建っています。
村治少尉については、まえにもブログで書きました。
明治44年の『大津市志』の「人物志」には、つぎのような記事がありました。
二回目は、明治三十九(1906)年五月でした。
明治 11(1878)年6月27日太政官への伺いでは、戦闘死者、戦傷死者、戦闘中の事故死者、敵の捕虜となって死亡した者は合祀の対象でした。しかし、戦病死者は含まれていませんでした。
戦病死者は、明治31(1898)年に陸軍大臣告示がだされ、特別合祀となりました。つまり、合祀することが基本になったのではなく、特例で認めたにすぎません。基準は日露戦争でも変わりませんでした。
つまり、戦病死者は、日露戦争でも、あくまで特別合祀でした。戦死者などの合祀とは別に、遅れて行われました。つまり、時間的にも差別をうけたのでした。
段々畑のような傾斜をもつ旧大津陸軍墓地の最上段に、将校だけの墓地がつくられています。大小さまざまな十数柱の墓碑が並んでいます。
ここに村治昭少尉の墓碑があります。
いくつかの墓碑をはさんで左には、父親である陸軍二等軍医正村治重厚陸軍二等の立派な墓碑が建っています。
村治少尉については、まえにもブログで書きました。
明治44年の『大津市志』の「人物志」には、つぎのような記事がありました。
大津市神出見ての通り、村治少尉は、日露戦争で二回行われた臨時大祭のうち、最初のときに、合祀されたのです。
陸軍歩兵少尉正八位勲六等功五級 村治 昭
明治十六年二月十七生
明治三十四年十二月士官候補生出身歩兵第九聯隊小隊長として三十七八年戦役従軍各地戦闘明治三十七年八月三十一日遼陽付近の戦闘に於いて面部貫通銃創を受け戦死同日戦功に依り叙勲六等単光旭日章並に功五級金鶏勲章従軍記章を賜はり同三十八年五月靖国神社に合祀せらる。
二回目は、明治三十九(1906)年五月でした。
大津市の戦跡(9) 刻まれた「士族」の文字に ― 2009/04/23
前回は、墓碑に刻まれた
「奇兵隊」の文字が
私の想像力をかきたて、
150年を超える年月を飛び越え、
心を長州にむけたことを書きました。
同様に、 「士族」と刻まれた墓碑を見つけたとき
私は、新政府によって疎まれ、
西南戦争の敗北で、最終的に
復権の道を絶たれた人たちの
運命に強い興味を惹かれたのです。
旧大津陸軍墓地の500を超える
個人墓碑のいくつに「士族」という
文字が刻まれているのか、
まだ調べつくせていません。
その一人ひとりの生き様を
可能な限り、追跡したいという
思いがあるのです。
上の写真は「陸軍曹長」という階級を
もった若者の墓碑です。
文字は大きく、鮮明に残っています。
まずは、ご紹介にとどめます。
「奇兵隊」の文字が
私の想像力をかきたて、
150年を超える年月を飛び越え、
心を長州にむけたことを書きました。
同様に、 「士族」と刻まれた墓碑を見つけたとき
私は、新政府によって疎まれ、
西南戦争の敗北で、最終的に
復権の道を絶たれた人たちの
運命に強い興味を惹かれたのです。
旧大津陸軍墓地の500を超える
個人墓碑のいくつに「士族」という
文字が刻まれているのか、
まだ調べつくせていません。
その一人ひとりの生き様を
可能な限り、追跡したいという
思いがあるのです。
上の写真は「陸軍曹長」という階級を
もった若者の墓碑です。
文字は大きく、鮮明に残っています。
まずは、ご紹介にとどめます。
大津市の戦跡(8) 「奇兵隊」出身者の墓碑 ― 2009/04/22
「奇兵隊」は、高杉晋作が創設した庶民軍です。
幕末、長州が戦うことになった戦争、たとえば
四境戦争で旧武士団に勝る力を発揮しました。
さらに、戊辰戦争をたたかいぬき、
明治政府の基盤を固めたのです。
一坂太郎『長州奇兵隊』(中公新書)によれば、
歴戦のなか、戦死した奇兵隊士の墓碑が
全国いたるところに現存するそうです。
官軍勝利のあと、新政府軍の創設にあたっては、
厳しい選抜をうけ、待遇を不服としたものは
叛乱を起こし、敗北し、処刑されました。
新政府に選ばれたもののみが、
陸軍に奉職することが許されたのです。
つまり、長州の「奇兵隊」は、幕末に生まれ、
明治の夜明けと切り開く栄光をもちながら、
陸軍創設の枠組からはずされ、
一部の者を除き、切り捨てられた
悲劇の(そして過渡的な)軍隊なのです。
旧大津陸軍墓地には、奇兵隊出身者の墓碑があります。
もっとも山手の高い位置、将校の墓地にです。
墓石の背面に彫られた碑文によれば、
山口忠孝は、士族出身で四男。
藩政時代に、奇兵隊に入り、いくたの戦に従軍。
そのまま陸軍に奉職し、中尉となり、
大津に営舎をもつ第九聯隊に配属され、
そこで病死したとあります。
幕末から明治20年までのながい時間を
山口を出発点に軍隊一筋ですごしてきて
37歳出なくなった田中忠孝中尉・・・。
死の直前、なにを考えたのでしょうね。
この碑文を初めて読んだ私は、
幕末の長州が教科書的な知識
ではなく、なまなましい現実として
目の前に現れたのを感じて、
しばらくその場にたたずんでいました。
幕末、長州が戦うことになった戦争、たとえば
四境戦争で旧武士団に勝る力を発揮しました。
さらに、戊辰戦争をたたかいぬき、
明治政府の基盤を固めたのです。
一坂太郎『長州奇兵隊』(中公新書)によれば、
歴戦のなか、戦死した奇兵隊士の墓碑が
全国いたるところに現存するそうです。
官軍勝利のあと、新政府軍の創設にあたっては、
厳しい選抜をうけ、待遇を不服としたものは
叛乱を起こし、敗北し、処刑されました。
新政府に選ばれたもののみが、
陸軍に奉職することが許されたのです。
つまり、長州の「奇兵隊」は、幕末に生まれ、
明治の夜明けと切り開く栄光をもちながら、
陸軍創設の枠組からはずされ、
一部の者を除き、切り捨てられた
悲劇の(そして過渡的な)軍隊なのです。
旧大津陸軍墓地には、奇兵隊出身者の墓碑があります。
もっとも山手の高い位置、将校の墓地にです。
墓石の背面に彫られた碑文によれば、
山口忠孝は、士族出身で四男。
藩政時代に、奇兵隊に入り、いくたの戦に従軍。
そのまま陸軍に奉職し、中尉となり、
大津に営舎をもつ第九聯隊に配属され、
そこで病死したとあります。
幕末から明治20年までのながい時間を
山口を出発点に軍隊一筋ですごしてきて
37歳出なくなった田中忠孝中尉・・・。
死の直前、なにを考えたのでしょうね。
この碑文を初めて読んだ私は、
幕末の長州が教科書的な知識
ではなく、なまなましい現実として
目の前に現れたのを感じて、
しばらくその場にたたずんでいました。
墓碑の謎を解く手がかりをみつけました ― 2008/11/05
謎があるから解きたくなるのです。
旧大津陸軍墓地の将校の墓地には、「陸軍大尉南保一義之墓」の隣にだれのものかわからない墓碑が置かれています。
上の写真では、一番右が南保一義の墓碑、真ん中が謎の墓碑です。
形や置かれている場所からして、南保一義大尉に関係がある墓碑だと推察できます。一部の文字が「南保」と読める気がします。しかし、それ以上の証拠と根拠がなかったのです。
最近撮影した写真を見て、手がかりをすでに手に入れながら気づかない場合もあるのだと思いました。
墓碑正面の左下に、上の記事の「南保之翁」という文字が読めるのです。
旧大津陸軍墓地の将校の墓地には、「陸軍大尉南保一義之墓」の隣にだれのものかわからない墓碑が置かれています。
上の写真では、一番右が南保一義の墓碑、真ん中が謎の墓碑です。
形や置かれている場所からして、南保一義大尉に関係がある墓碑だと推察できます。一部の文字が「南保」と読める気がします。しかし、それ以上の証拠と根拠がなかったのです。
最近撮影した写真を見て、手がかりをすでに手に入れながら気づかない場合もあるのだと思いました。
南保 一義 陸軍歩兵大尉 石川縣石川郡金澤芳濟町南保之翁の男にして明治年間歿滋賀縣犬上郡松原町陸軍埋葬地に埋め四十一年四月他五名の遺骨と倶に同縣滋賀郡滋賀村大字山上陸軍墓地に移葬せらる(官報)判読が難しい文字の推定は、こちらの頭に予想のあるなしによって ちがってくるものです。
墓碑正面の左下に、上の記事の「南保之翁」という文字が読めるのです。
墓碑の謎にいどむ:二つの将校の墓碑@旧大津陸軍墓地 ― 2008/10/05
しばらくは、上の写真の二つの墓碑の謎に挑みたいと思います。
左が墓碑銘など解読不能の墓碑、
その右が「南保一義之墓」と正面に刻まれている墓碑です。
前置きの話はこうです。
明治10(1877)年10月7日に、大阪鎮台「大津営所付埋葬地」が大津市の部屋ヶ谷に竣功しました。現在、それを祝う人がいなくなりましたが、まもなく、131周年を迎えるわけです。
ちなみに、上の日付が、旧大津陸軍墓地のはじまりといえます。
大阪鎮台大津営所は、四鎮台制から六鎮台制へ移行する際に、設立が決定されました。三井寺が所有する森林などを切り開いて建設する必要があったので、入営は部隊編成より後となりました。明治8(1875)年3月に第九連隊(第一と第二大隊)が移駐し、機能を開始しました。墓地に現存する墓碑銘を見る限り、連隊の死亡者は、明治8年7月から出ていますが、埋葬地の完成は、10月です。その間、どこに埋葬していたかは、不明です。
要するに、旧大津陸軍墓地は、第九連隊の墓地です。それが本筋なのですが、そこには異質の墓碑がある、そこを調べてみようというのです。
さて、問題の墓碑です。
旧大津陸軍墓地の個人墓碑は、「大津営所」の将校、下士官、そして兵士の墓碑以外に、「彦根分営」から移葬された墓碑が、5基存在します。
ひとつは、上の「南保大尉」の墓碑。
残りは、下の写真でいけば、手前5柱の兵卒の墓碑です。
下の公文書によれば、南保一義大尉以外に5基の兵卒の墓碑が、彦根市から移葬されたことになっています。
写真ではわかりにくいかも知れません。兵卒の墓碑は大きく、大尉である南保一義の墓碑は小さく、台座の石も存在しません。これが不思議に思えました。
さらに、墓碑文が正面以外にも存在するのですが、文字として解読困難な状態です。読めるのは、「南保一義大尉之墓」のみです。
公文書には、触れられていませんが、南保大尉の墓石の隣の墓碑に注目しました。見ての通り、上部が丸いカマボコ形は共通しています。しかし、この墓碑は、正面の文字さえ読めません。
「南」という文字がいくつかあるように思えますが、それは、隣に置かれている南保大尉との関係を推察する心の作用にもよるのかも知れません。
この墓地にだれが埋葬されているのかと言う陸軍の文書を、私はまだ見つけていません。手元にあるのは、1976年にバイパス工事のために、墓地の一部を破壊し、隣接地に移し替える工事をした際に作成された大津市保管の名簿があるだけです。
この名簿の存在は、助かりますが、必ずしも正確ではありません。学術的調査を目的としてないせいもあるかと思います。
この名簿にも、この墓石銘は記述されていません。
以上のことは、いままでも書いてきたことです。
今回、挑もうと思っているのは、南保一義大尉とは何者か、その墓碑には、なにが書かれてるのか(判読)、隣の墓碑はなにのか、ということです。
滋賀県立図書館にひさしぶりに出かけた際に、ガリ版刷りの「彦根市年表」を見つけました。データの出所も書かれているもので、興味深いものです。
記述の密度には、精粗ありますが、得心がいったことがあります。
それは、「大洞火薬庫」と「大洞埋葬地」の関係です。
彦根藩は、新政府側にたって、戊辰戦争を戦います。しかし、軍事的単位としての藩は解体され、城および軍事施設は破壊もしくは売却さえる運命をたどります。
この途上で、「大洞埋葬地(陸軍墓地)」が登場します。
南保大尉の墓碑の移葬願い文書は、明治初年から、大洞陸軍墓地が存在していると書かれいます。それは、残念ながら直接は確認できません。
しかし、当然ありえることだと思います。
なぜなら、彦根藩は、軍務局武芸小屋をもっていて、英国式の軍事訓練を行っていたからです。明治2年2月3日に、藩主井伊直憲は、八坂練兵所を視閲しています。
明治3年11月9日、武芸小屋を兵学校と改称しています。
こういう訓練の途上でなくなった兵卒を葬った場所が大洞埋葬地であると推察できます。
明治4年の彦根藩の常備兵力は、少佐1名を筆頭に、士官が80名。兵卒が555名とされています。同じ4年に、兵学校を生兵所と改称しています。そこで、18歳から27歳までの子弟の文武教育を施したとされています。
同年3月、陸軍省は、彦根藩の大洞火薬庫を接収し、陸軍省の所管とします。彦根市百年年表(ガリ版)のこの項目のところで、「明治11年に4月に売却されるまで陸軍墓地に充てられた」と書かれていたのです。
これで、疑問の一つが解けたのです。
同年12月に、全国四鎮台制(東北=仙台、東京、大阪、鎮西=熊本)のうち、大阪鎮台の小営を小浜におく予定が、火事のために、彦根にもってくることになったからです。
第18番大隊が小浜から彦根に駐屯します。
彦根藩の兵力がこのとき、どうなったのか、直接の言及はありません。明治6年3月12日、八坂の練兵場が、彦根分営(小営)に引き継がれたそうです。しかし、同年4月28日、第18番大隊は、京都の伏見へ移駐することになります。
以上、大洞火薬庫と大洞埋葬地(陸軍墓地)が同一場所であること、そして、そこが第18番大隊の将兵の埋葬地に使われたということがあらためて確認されました。
明治初年というのは、明治元年ではなく、明治のはじめという意味でしょうし、彦根藩の武士なら、自分の家の墓をもっているはずですから、あらためて陸軍墓地に葬る必要はないでしょう。
南保大尉が、彦根藩の武士の可能性があると最初書きましたが、やはり、ちがうと思いました。
左が墓碑銘など解読不能の墓碑、
その右が「南保一義之墓」と正面に刻まれている墓碑です。
前置きの話はこうです。
明治10(1877)年10月7日に、大阪鎮台「大津営所付埋葬地」が大津市の部屋ヶ谷に竣功しました。現在、それを祝う人がいなくなりましたが、まもなく、131周年を迎えるわけです。
ちなみに、上の日付が、旧大津陸軍墓地のはじまりといえます。
大阪鎮台大津営所は、四鎮台制から六鎮台制へ移行する際に、設立が決定されました。三井寺が所有する森林などを切り開いて建設する必要があったので、入営は部隊編成より後となりました。明治8(1875)年3月に第九連隊(第一と第二大隊)が移駐し、機能を開始しました。墓地に現存する墓碑銘を見る限り、連隊の死亡者は、明治8年7月から出ていますが、埋葬地の完成は、10月です。その間、どこに埋葬していたかは、不明です。
要するに、旧大津陸軍墓地は、第九連隊の墓地です。それが本筋なのですが、そこには異質の墓碑がある、そこを調べてみようというのです。
さて、問題の墓碑です。
旧大津陸軍墓地の個人墓碑は、「大津営所」の将校、下士官、そして兵士の墓碑以外に、「彦根分営」から移葬された墓碑が、5基存在します。
ひとつは、上の「南保大尉」の墓碑。
残りは、下の写真でいけば、手前5柱の兵卒の墓碑です。
下の公文書によれば、南保一義大尉以外に5基の兵卒の墓碑が、彦根市から移葬されたことになっています。
写真ではわかりにくいかも知れません。兵卒の墓碑は大きく、大尉である南保一義の墓碑は小さく、台座の石も存在しません。これが不思議に思えました。
さらに、墓碑文が正面以外にも存在するのですが、文字として解読困難な状態です。読めるのは、「南保一義大尉之墓」のみです。
公文書には、触れられていませんが、南保大尉の墓石の隣の墓碑に注目しました。見ての通り、上部が丸いカマボコ形は共通しています。しかし、この墓碑は、正面の文字さえ読めません。
「南」という文字がいくつかあるように思えますが、それは、隣に置かれている南保大尉との関係を推察する心の作用にもよるのかも知れません。
この墓地にだれが埋葬されているのかと言う陸軍の文書を、私はまだ見つけていません。手元にあるのは、1976年にバイパス工事のために、墓地の一部を破壊し、隣接地に移し替える工事をした際に作成された大津市保管の名簿があるだけです。
この名簿の存在は、助かりますが、必ずしも正確ではありません。学術的調査を目的としてないせいもあるかと思います。
この名簿にも、この墓石銘は記述されていません。
以上のことは、いままでも書いてきたことです。
今回、挑もうと思っているのは、南保一義大尉とは何者か、その墓碑には、なにが書かれてるのか(判読)、隣の墓碑はなにのか、ということです。
滋賀県立図書館にひさしぶりに出かけた際に、ガリ版刷りの「彦根市年表」を見つけました。データの出所も書かれているもので、興味深いものです。
記述の密度には、精粗ありますが、得心がいったことがあります。
それは、「大洞火薬庫」と「大洞埋葬地」の関係です。
彦根藩は、新政府側にたって、戊辰戦争を戦います。しかし、軍事的単位としての藩は解体され、城および軍事施設は破壊もしくは売却さえる運命をたどります。
この途上で、「大洞埋葬地(陸軍墓地)」が登場します。
南保大尉の墓碑の移葬願い文書は、明治初年から、大洞陸軍墓地が存在していると書かれいます。それは、残念ながら直接は確認できません。
しかし、当然ありえることだと思います。
なぜなら、彦根藩は、軍務局武芸小屋をもっていて、英国式の軍事訓練を行っていたからです。明治2年2月3日に、藩主井伊直憲は、八坂練兵所を視閲しています。
明治3年11月9日、武芸小屋を兵学校と改称しています。
こういう訓練の途上でなくなった兵卒を葬った場所が大洞埋葬地であると推察できます。
明治4年の彦根藩の常備兵力は、少佐1名を筆頭に、士官が80名。兵卒が555名とされています。同じ4年に、兵学校を生兵所と改称しています。そこで、18歳から27歳までの子弟の文武教育を施したとされています。
同年3月、陸軍省は、彦根藩の大洞火薬庫を接収し、陸軍省の所管とします。彦根市百年年表(ガリ版)のこの項目のところで、「明治11年に4月に売却されるまで陸軍墓地に充てられた」と書かれていたのです。
これで、疑問の一つが解けたのです。
同年12月に、全国四鎮台制(東北=仙台、東京、大阪、鎮西=熊本)のうち、大阪鎮台の小営を小浜におく予定が、火事のために、彦根にもってくることになったからです。
第18番大隊が小浜から彦根に駐屯します。
彦根藩の兵力がこのとき、どうなったのか、直接の言及はありません。明治6年3月12日、八坂の練兵場が、彦根分営(小営)に引き継がれたそうです。しかし、同年4月28日、第18番大隊は、京都の伏見へ移駐することになります。
以上、大洞火薬庫と大洞埋葬地(陸軍墓地)が同一場所であること、そして、そこが第18番大隊の将兵の埋葬地に使われたということがあらためて確認されました。
明治初年というのは、明治元年ではなく、明治のはじめという意味でしょうし、彦根藩の武士なら、自分の家の墓をもっているはずですから、あらためて陸軍墓地に葬る必要はないでしょう。
南保大尉が、彦根藩の武士の可能性があると最初書きましたが、やはり、ちがうと思いました。
1980年新設の「供養塔」@旧大津陸軍墓地 ― 2008/03/20
ミニ研究会用メモ:「将校の墓碑」一覧(20基)@旧大津陸軍墓地 ― 2008/03/19
旧大津陸軍墓地に存在する将校の墓碑は以下の20基である。
①陸軍歩兵大尉 正七位勲六等
浅野 典則
②陸軍歩兵少尉 正八位
田中 幸太郎
③陸軍歩兵大尉 従七位勲五等
徳大寺 亀一
④陸軍歩兵大尉 従七位勲五等
伏木 徳太郎
⑤陸軍歩兵大尉 正七位勲六等
松浦 文夫
⑥陸軍二等軍医正 正六位勲四等
村治 重厚
⑦陸軍歩兵中佐 従五位勲四等
井戸 順行
⑧陸軍歩兵少佐 従五位勲四等
中山 充蔵
⑨陸軍歩兵少佐 従五位正六位勲四等功五級
奈良 鉞治郎
⑩陸軍歩兵中尉 従七位勲五等
田中 忠孝
⑪陸軍歩兵大尉 正七位勲五等
谷村 元吉
⑫陸軍歩兵少尉 正八位勲六等功五級
村治 昭
⑬陸軍歩兵中尉 従七位
伊藤 兼太郎
⑭陸軍歩兵少尉 正八位勲六等功五級
鎌倉 誠一
⑮(文字解読不能)
⑯陸軍歩兵大尉
南保 一義
⑰陸軍歩兵中尉 従七位
宮田 金之助
⑱陸軍歩兵大尉 従六位勲四等
稲垣 伊右衛門
⑲陸軍歩兵少将 正五位勲三等功四級
草場 彦輔
⑳陸軍歩兵中佐 従五位勲四等
西田 源吾
「男(草場)辰巳」の文字。それは、南京事件、シベリア抑留、そして東京裁判に連なる名前です。 ― 2008/03/01
旧大津陸軍墓地に眠る将校で、もっとも階級が高いのは、草場彦輔少将。この人ばかりに気をとられて、この墓地で一番りっぱな墓碑を建てた人物に目が向いていませんでした。
●男辰巳
この墓碑を建てた人物の名前は、左側面に刻まれています。「男辰巳」、つまり、息子である辰巳=草場辰巳中将でした。
草場辰巳中将は、あの南京事件のとき、南京に突入した部隊の指揮を執っていました。南京に突入した師団の一つ、中島今朝吾中将率いる第16師団(京都)は、歩兵では二つの旅団からなっていました。一つは、佐々木到一少将(記録を残しています)率いる第30旅団、もう一つが、草場辰巳少将率いる第19旅団(第九連隊と第二十連隊)でした。
南京事件で有罪で死刑となった野田毅少尉は、第九連隊第三大隊に所属していました。
さらに、草場辰巳少将は、シベリアに抑留され、東京裁判の証人として日本に送られた3名の将校のうちの一人です。しかし、裁判直前に自殺。劇的な、そして不幸な最後を遂げています。
●草場辰巳中将の履歴
この経歴は、「軍人データベース サクラタロウDB」に依拠しています。
●草葉ひかるの祖父?
草葉ひかるという歌手の祖父が、草場辰巳という文書があります。
「草場家の人々 ~ 草葉 ひかるの祖父 ~」
この真偽について、教えていただける方を求めています。
●男辰巳
この墓碑を建てた人物の名前は、左側面に刻まれています。「男辰巳」、つまり、息子である辰巳=草場辰巳中将でした。
草場辰巳中将は、あの南京事件のとき、南京に突入した部隊の指揮を執っていました。南京に突入した師団の一つ、中島今朝吾中将率いる第16師団(京都)は、歩兵では二つの旅団からなっていました。一つは、佐々木到一少将(記録を残しています)率いる第30旅団、もう一つが、草場辰巳少将率いる第19旅団(第九連隊と第二十連隊)でした。
南京事件で有罪で死刑となった野田毅少尉は、第九連隊第三大隊に所属していました。
さらに、草場辰巳少将は、シベリアに抑留され、東京裁判の証人として日本に送られた3名の将校のうちの一人です。しかし、裁判直前に自殺。劇的な、そして不幸な最後を遂げています。
●草場辰巳中将の履歴
明治41年5月27日 陸軍士官学校卒業
明治41年12月25日 陸軍少尉
大正1年12月13日 陸軍大学校入校
大正4年12月11日 陸軍大学校卒業
昭和6年8月1日 陸軍歩兵大佐・参謀本部運輸課長
昭和8年8月1日 歩兵第11聯隊長
昭和10年3月15日 満洲国交通部顧問
昭和11年8月1日 陸軍少将
昭和12年3月1日 歩兵第19旅団長
昭和13年10月30日 第2野戦鉄道司令官
昭和14年3月9日 陸軍中将・関東軍野戦鉄道司令官
昭和15年10月1日 第52師団長
昭和16年11月6日 関東防衛軍司令官
昭和17年12月21日 第4軍司令官
昭和19年2月7日 参謀本部附
昭和19年11月30日 待命
昭和19年12月1日 予備役
昭和19年12月16日 召集・大陸鉄道司令官
昭和21年9月17日 東京裁判出廷前に自決
この経歴は、「軍人データベース サクラタロウDB」に依拠しています。
●草葉ひかるの祖父?
草葉ひかるという歌手の祖父が、草場辰巳という文書があります。
「草場家の人々 ~ 草葉 ひかるの祖父 ~」
この真偽について、教えていただける方を求めています。
陸軍中将・村治敏男の経歴 ― 2008/02/29
旧大津陸軍墓地に眠る村治重厚二等軍医正の墓碑には、建立者として、「村治敏男」という文字が刻まれている。
では、いったい、村治敏男とは、どういう人物か?
では、いったい、村治敏男とは、どういう人物か?
村治敏男の経歴大正2年5月26日 陸軍士官学校卒業
大正2年12月25日 陸軍少尉
大正8年12月1日 陸軍大学校入校
大正11年11月29日 陸軍大学校卒業
昭和12年8月2日 陸軍歩兵大佐
昭和12年8月7日 関東軍野戦鉄道参謀
昭和13年6月4日 関東軍野戦鉄道参謀長
昭和13年7月15日 歩兵第22聯隊長
昭和14年8月1日 陸軍少将・第1鉄道輸送司令官
昭和15年6月26日 参謀本部附
昭和15年12月2日 壱岐要塞司令官
昭和17年6月26日 第2野戦鉄道司令官
昭和19年10月26日 陸軍中将
昭和20年2月20日 東部軍司令部附
昭和20年4月1日 大邱師管区司令官
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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