お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
明治5年の兵卒の墓碑の碑文~「清水男外吉之墓」の背面~に原型がある ― 2010/11/02
農民が圧倒的多数の平民から徴兵して、明治陸軍を築く構想を建てたのは、大村益次郎でした。そういう意味では建軍の父なのでしょう。現実にそれを実行したのは、山県有朋でした。
徴兵は明治6年以降。それまでは、各藩の藩兵をあつめて、ありあわせの軍で間に合わせるしかありませんでした。それらは、主に士族であり、「壮兵」と呼ばれました。
それらの拠点として、鎮台が生まれ、そのもとで、彦根に営所がつくられました。そこに駐屯したのは、十八番大隊。農民騒擾の鎮圧に出動していました。その兵卒の墓碑が上の写真です。
りっぱな墓碑であり、碑文はいまなおしっかり読めます。
十八番大隊の墓碑は5基ありました。当初は彦根にありましたが、維持できなくなり、明治40年代に旧大津陸軍墓地に移設されました。
その旧大津陸軍墓地ですが、ここを営所とした歩兵第九聯隊のための墓地でした。練兵過程で亡くなる兵卒はでてきます。そのための埋葬地を必要としたからです。それは、全国の営所で共通の動きであり、その最初で最大のものが旧真田山陸軍墓地です。 この墓地に残る最初の頃の墓碑には、明治8年という日付が刻まれています(上の写真をクリックして拡大すれば読み取れます)。それは、この地に営所が建設された同じ年のことです。訓練をはじめるやいなや、たちまち病死をする若者が生まれたのです。衛生状態とか、訓練の激しさが関係していると思われます。
さて、そうして大津営所で亡くなった兵卒のための墓地が、明治11年までは中断のFブロック、それ以降は下段(東と西)です。
明治5年の十八番大隊の墓碑と歩兵第九聯隊の墓碑を比較するのは、興味深いことです。ただ、日清戦争以後の墓碑のように碑文がなければ、比較することができません。碑文がある日清戦争以前の墓碑との違いを見てみたいと思います。
徴兵は明治6年以降。それまでは、各藩の藩兵をあつめて、ありあわせの軍で間に合わせるしかありませんでした。それらは、主に士族であり、「壮兵」と呼ばれました。
それらの拠点として、鎮台が生まれ、そのもとで、彦根に営所がつくられました。そこに駐屯したのは、十八番大隊。農民騒擾の鎮圧に出動していました。その兵卒の墓碑が上の写真です。
りっぱな墓碑であり、碑文はいまなおしっかり読めます。
男外吉石川縣貫属卒加賀石川郡金沢大工町清水彦三男嘉永庚戌二月廿五日生明治壬申三月應徴為歩兵十八番大隊兵卒同年四月廿七日病没於大阪鎮台第一分営彦根屯所時年二十三「貫属」という言葉は、戸籍のある土地という意味です。本籍、家族関係(○○の男)、生年月日、入営日と入営先、死亡年月日、死亡場所、死亡年齢の順番で記述されています。旧大津陸軍墓地の墓碑を見ても、以後、これと同じ記述形式となっていきます。
十八番大隊の墓碑は5基ありました。当初は彦根にありましたが、維持できなくなり、明治40年代に旧大津陸軍墓地に移設されました。
その旧大津陸軍墓地ですが、ここを営所とした歩兵第九聯隊のための墓地でした。練兵過程で亡くなる兵卒はでてきます。そのための埋葬地を必要としたからです。それは、全国の営所で共通の動きであり、その最初で最大のものが旧真田山陸軍墓地です。 この墓地に残る最初の頃の墓碑には、明治8年という日付が刻まれています(上の写真をクリックして拡大すれば読み取れます)。それは、この地に営所が建設された同じ年のことです。訓練をはじめるやいなや、たちまち病死をする若者が生まれたのです。衛生状態とか、訓練の激しさが関係していると思われます。
さて、そうして大津営所で亡くなった兵卒のための墓地が、明治11年までは中断のFブロック、それ以降は下段(東と西)です。
明治5年の十八番大隊の墓碑と歩兵第九聯隊の墓碑を比較するのは、興味深いことです。ただ、日清戦争以後の墓碑のように碑文がなければ、比較することができません。碑文がある日清戦争以前の墓碑との違いを見てみたいと思います。
Kブロック埋葬者名簿(簡略版)@旧大津陸軍墓地 ― 2010/11/01
旧大津陸軍墓地のKブロックの墓碑名簿(簡略版)
2010年10月にBINが調査して、大津市が保管する名簿を訂正したものです。後日調査される方のために作成しました。生年月日、出身地、入営年月日、など碑文に刻まれている内容などについては、加筆していく予定です。
①K以下の数字は、現在の位置を示す。
②階級名
③氏名
④西以下の数字は、移葬前の当初の位置
⑤死亡年月(日)
以上139柱。
2010年10月にBINが調査して、大津市が保管する名簿を訂正したものです。後日調査される方のために作成しました。生年月日、出身地、入営年月日、など碑文に刻まれている内容などについては、加筆していく予定です。
①K以下の数字は、現在の位置を示す。
②階級名
③氏名
④西以下の数字は、移葬前の当初の位置
⑤死亡年月(日)
○最前列 K001~K017
K001 故陸軍歩兵一等卒 青山 喜代治? 西1
大正10年11月
K002 故陸軍歩兵上等兵 青山 ○之助 西2
大正11年 1月
K003 故陸軍歩兵上等兵 青山 捨吉 西3
大正11年 2月
K004 故陸軍歩兵一等卒 瀬戸 喜蔵 西4
大正13年 4月
K005 陸軍歩兵二等卒 藤井 新蔵 西5
大正 5年 2月
K006 故陸軍歩兵二等卒 川上 重太郎 西6
大正11年12月
K007 故陸軍歩兵二等卒 洞 栄作 西7
大正 7年12月
K008 故陸軍歩兵一等卒 岡川 八郎衛 西8
大正 7年12月
K009 陸軍歩兵●等卒 楓井 嘉吉 西9
明治40年 6月
K010 陸軍歩兵二等卒 佐々木 三次 西10
大正 2年12月
K011 故陸軍歩兵二等卒 伊藤 弥七 西11
大正10年 4月
K012 二等兵卒 市田 與三郎 西12
明治11年10月
K013 故陸軍歩兵二等卒 樋口 一蔵 西13
大正10年 5月
K014 陸軍歩兵一等卒 平田 清七 西14
大正 2年 8月
K015 故陸軍歩兵一等卒 森田 善太郎 西15
大正 2年11月
K016 陸軍歩兵二等卒 南部 岩雄 西16
大正 4年 4月
K017 陸軍歩兵一等卒 松田 ●良次郎 西17
●は漢字ロムにない。「大」の下に「良」と書く
明治40年 6月
○前から二列目 K018~K034
K018 陸軍歩兵一等卒 中野 又太郎 西34
明治38年 5月
K019 陸軍歩兵●●卒 大垣 平八 西33
明治38年 2月
K020 陸軍歩兵二等卒 富島 九平 西32
明治38年 3月
K021 陸軍歩兵二等卒 田中 與三郎 西31
明治36年 3月
K022 (俘虜清人) 汝 恒信 西30
明治27(1894)年11月12日赤痢にて死亡
K023 故陸軍歩兵 高田 芳雄 西29
大正 9年 3月
K024 故陸軍歩兵上等兵 山中 久一郎 西28
大正12年10月
K025 故陸軍歩兵二等兵 田中 ○郎 西27
大正 7年12月
K026 陸軍歩兵上等兵 河合 庄吉 西26
明治40年12月
K027 陸軍歩兵二等卒 馬場 金弥 西25
明治41年 5月
K028 故陸軍歩兵二等卒 磯部 安吉 西24
大正 4年 4月
K029 陸軍歩兵一等卒 高山 藤市郎 西23
明治40年 3月
K030 (俘虜清人) 寶 少春 西22
明治27(1894)年11月11日
K031 陸軍歩兵二等卒 中村 仙重郎 西21
明治42年 4月
K032 陸軍歩兵二等卒 西村 大助 西20
大正 6年 9月
K033 陸軍歩兵二等卒 實柳 庸成 西19
大正 5年 1月
K034 故陸軍歩兵二等卒 井上 友蔵 西18
大正 7年12月
○前から3列目 K035~K051
K035 ○○○○○○ 伊○ 清太郎 西35
明治38年 4月
K036 陸軍歩兵上等兵 松野 無松 西36
明治38年11月
K037 陸軍歩兵二等卒 川瀬 市治郎 西37
明治38年 6月
K038 陸軍歩兵二等卒 杉本 傳吉 西38
明治28年 8月
K039 陸軍歩兵二等卒 林 安之助 西39
明治29年 9月
K040 陸軍歩兵二等卒 福川 寅次郎 西40
明治29年12月
K041 陸軍歩兵一等卒 中村 卯之助 西41
明治29年12月
K042 陸軍歩兵二等卒 前川 俊造 西42
明治30年 2月
K043 陸軍歩兵二等卒 早瀬 栄蔵 西43
明治30年 2月
K044 陸軍歩兵二等卒 宮坂 安次郎 西44
明治30年 5月
K045 陸軍歩兵一等卒 富永 猶吉 西45
明治30年 5月
K046 ○○○○卒 小西 戈治郎 西59
明治21年 3月
K047 生兵 三田村 勝治郎 西93
明治13年11月
K048 二等卒 小田 辰五郎(二行) 西127
明治11年 8月
K049 二等卒 西堀 與惣治郎(二行) 西132
明治11年 9月
K050 二等卒 萩田 庄吉(二行) 西133
明治11年 5月
K051 生兵 永井 七五郎(二行) 西135
不明
○4列目、K052~K068
K052 歩兵二等銃卒 田本 太蔵 西63
明治19年 6月
K053 故歩兵一等卒 宮崎 駒吉 西62
明治19年 5月
K054 歩兵○等卒? 松本 光治郎 西61
明治21年12月
K055 ○○○○○ 福田 金治郎 西60
明治21年 6月
K056 歩兵二等卒? 前田 留次郎 西58
明治20年11月
K057 生兵 大八木 菊之助 西57
明治20年 8月
K058 歩兵一等銃卒 高田 里次郎 西56
明治20年 7月
K059 生兵 石田 重吉 西55
明治20年 6月
K060 歩兵一等銃卒 久野 豊杢 西54
明治20年 3月
K061 歩兵二等卒 田村 政治郎 西53
明治25年??月
K062 歩兵二等卒 岡田 友吉 西52
明治25年 5月
K063 歩兵一等卒 望田 源之助 西51
明治25年12月
K064 歩兵一等卒 山川 仙太郎 西50
明治24年 7月
K065 歩兵二等卒 小林 ○之助 西49
明治24年 6月
K066 歩兵二等卒 竹嶋 鶴松 西48
明治24年 4月
K067 二等卒 泉並 ○(廉)?蔵 西47
明治23年11月
K068 歩兵二等卒 寺島 外吉 西46
明治23年 8月
○前から5列目 K069~K085
K069 歩兵○○卒? 森田 喜次郎 西64
明治19年 6月
K070 歩兵上等兵 西村 岩吉 西65
明治19年 6月
K071 歩兵二等銃卒 坂口 捨吉 西66
明治19年 6月
K072 歩兵○○○卒 三上 松之助 西67
明治29年 6月
K073 歩兵○○銃卒 新谷 宣吉 西68
明治19年 7月
K074 歩兵二等銃卒 増田 ○之助 西69
明治19年 7月
K075 生兵 山下 長松 西70
明治18年11月
K076 歩兵二等卒 西田 戈治郎 西71
明治16年11月
K077 歩兵二等卒 山本 兼松 西72
明治17年11月
K078 歩兵二等卒 安井 伊之助 西73
明治17年 6月
K079 歩兵二等卒 瀧原 定吉 西74
明治17年 7月
K080 喇叭一等卒 田原 仁次郎 西75
明治17年 8月
K081 歩兵二等卒 山元 石之助 西76
明治17年 9月
K082 歩兵二等卒 四方 榮吉 西77
明治16年 4月
K083 歩兵二等卒 早馬 徳次郎 西78
明治15年11月
K084 歩兵二等卒 久保田 留二郎 西79
明治15年 8月
K085 歩兵二等卒 亀井 新二郎 西80
明治15年12月
○6列目 K086~K102
K086 二等卒 村田 斉?五郎 西98
明治14年 1月
K087 歩兵二等卒 望月 新吉 西97
明治12年12月
K088 二等卒 中川 元吉 西96
明治13年11月
K089 歩兵二等卒 瀬尾 ○一郎? 西95
明治13年11月
K090 歩兵二等卒 森 文六 西94
明治13年11月
K091 歩兵上等卒 末 鉄次郎 西92
明治15年 9月 *中折れ
K092 歩兵二等卒 濱地 熊次郎 西91
明治15年 9月
K093 歩兵二等卒 渡邉 久吉 西90
明治14年11月
K094 歩兵二等卒 藤枝 ○次郎 西89
明治15年 8月
K095 歩兵二等卒 中濱 長松 西88
明治15年 8月
K096 歩兵二等卒 仲井 乙吉 西87
明治19年11月
K097 歩兵二等卒 松永 ○○ 西86
明治15年 5月
K098 歩兵二等卒 山野 伊達? 西85
明治17年10月
K099 歩兵二等卒 守谷 丈吉 西84
明治16年 4月
K100 歩兵二等卒 田畑 芳松 西83
明治16年 7月
K101 歩兵二等卒 大中 芳松 西82
明治16年 2月
K102 歩兵一等卒 鈴木 力之助 西81
明治16年 2月
○前から7列目 K103~K116
K103 歩兵二等卒 武智 隆太 西99
明治14年 2月
K104 歩兵一等卒 萬濃 勇吉 西100
明治14年 4月
K105 生兵 脇田 福蔵 西101
明治12年10月
K106 歩兵二等卒 生川 光三郎 西102
明治10年12月
K107 二等兵卒 入山 五郎右衛門 西103
明治13年 1月
K108 二等兵卒 瀧岡 久二郎?? 西104
明治13年10月
K109 生兵 越知 清太郎 西105
明治13年 1月
K110 陸軍歩兵二等卒 南嶋 浅太郎 西106
明治13年 8月 *建て直し?
K111 喇叭二等卒 奥藤 吉五郎 西107
明治11年10月
K112 喇叭?二等卒 黒田 太蔵 西108
明治13年 8月
K113 二等兵卒 田中 藤次郎 西109
明治12年 8月
K114 一等兵卒 奥村 次郎吉 西110
明治12年 8月
K115 陸軍一等兵卒 今西 丑松 西111
明治12年 8月
K116 二等兵卒 松井 音松 西112
明治12年 9月
○8列目 K117~K130
K117 二等卒 山内 新太郎 西126
明治11年10月
K118 二等兵卒 中尾 茂八 西125
明治11年 9月
K119 生兵 竹詰 音之助 西124
明治11年 9月
K120 一等卒 辻 伊助 西123
明治11年 9月
K121 一等兵卒 後藤 音五郎 西122
明治11年 9月
K122 二等兵卒 宍藤 助二 *実藤?西121
明治12年 8月
K123 一等兵卒 福田 音次郎 西120
明治12年 8月
K124 一等兵卒 山口 庄次郎 西119
明治12年 8月
K125 一等卒 望月 直吉 西118
明治12年 8月
K126 一等兵卒 中村 小太郎 西117
明治12年 7月
K127 二等兵卒 加藤 源七 西116
明治12年 1月
K128 歩兵 四方 弁吉 西115
明治12年 4月
K129 二等兵卒 羽田 藤二郎 西114
明治12年 9月
K130 二等兵卒 北井 西113
明治12年 9月
○9列目左から右へ
K131 (階級名なし) 清水 男外吉 東9
明治 5年 4月
K132 (階級名なし) 長谷 吉太郎 東10
明治 5年 6月
K133 (階級名なし) 新畑 周二 東11
明治 5年 7月
K134 (階級名なし) 辻 安次 東12
明治 5年 7月
K135 (階級名なし) 岡田 ○良 東13
明治 5年 8月
K136 二等喇叭卒 鵜飼 万治郎 西128
明治11年 8月
K137 上等卒 伊藤 惣七 西129
明治11年 6月
K138 生兵 生田 亀吉 西130
明治11年 8月
K139 二等卒 栢垣 徳松 西131
明治11年 9月
以上139柱。
下段西側の生兵の墓碑は8柱 ― 2010/10/27
下段東側で「生兵(せいへい)」の墓碑の数を数えました。14柱でした。下段西側は、個人墓碑の数は西側より多いですが、生兵の墓碑は、8柱でした。
まずはリスト。
まずはリスト。
1.西135(K051) 永田 七五郎ところで、「生兵」という言葉はいつまで旧陸軍で使われていくのでしょうか。明治20(1887)年までは確かなようですが。
不明
2.西130(K138) 生田 亀吉
明治11年 8月
3.西124(K119) 竹詰 音之助
明治11年 9月
4.西105(K109) 越知 清太郎
明治13年 1月
5.西101(K105) 脇田 福蔵
明治12年10月
6.西 93(K047) 三田村 勝治郎
明治13年11月
7.西 70(K075) 山下 長松
明治18年11月
8.西 57(K057) 大八木 菊之助
明治20年 8月
「兵卒の墓碑と階級名」Ⅰ~Ⅸの中間的なまとめ ① 記録文書の誤記について~ ― 2010/10/23
旧大津陸軍墓地のKブロックの139柱の墓碑名と階級名を、大津市保管の移葬時の名簿と照らし合わせながら、チェックしてきました。墓碑は正面、右側面、左側面、背面の4面ありますが、当面は正面のみのチェックです。
大津市保管の書類は、①オリジナルの墓地の形態と②そこの墓碑の位置、③氏名、④階級、⑤死亡年月を記録しています。たとえば、兵卒の墓碑の場合は、東側と西側にわけて、墓碑に番号をふっています。一覧表は二枚(東と西)、そして、地図上に墓碑の記号を並べて、その下に番号をつけて、どの墓碑がどの位置にあったのかが、わかるようになっている書類が二枚(東と西)あります。
氏名や階級の誤記は、実際の墓碑と照らし合わせれば、わかります。思った以上に間違いがありましたし、「二等卒」と記載されてても、実際は「陸軍歩兵二等卒」であったり、「歩兵二等卒」であったりします。その違いが重要なことは、K072の例でわかると思いますが、大津の名簿では配慮されていませんでした。
しかし、兵卒の墓碑のもとあったはずの位置の情報は、名簿を信頼する以外に、確認する方法がないのです。オリジナルの兵卒の墓地は破壊されて存在しませんから。当時の墓地全体がわかる写真が残っていればいいのですが。
疑いだせばきりがないのですが、破壊をまぬがれて、現在も原型をとどめているはずの墓地でも、名簿や位置の記録と実際はちがうのです。たとえば、ブロックFです(それは、またの機会にします)。
死亡年月についても、似たところがあります。実際の墓碑は、正面の名前すら読み取るのが不可能となっている墓碑もあります。死亡年月日が刻まれているはずの場所は、さらに見にくい状態です。ですから、むしろ、それに依拠するしかない唯一の記録となっている場合もあります。
ただ、死亡年月についても、碑文の解読間違いや名簿に清書するときの書き間違い(大津市保管の名簿は手書きです)の可能性は捨てきれません。
たとえば、K072(大津市の記録では西67)。
この墓碑の兵卒は、文書記録では、明治29年に死亡したことになっています。これは間違いだと思います。
第一に、埋葬位置と一致しません。左右や周囲は、明治19年に死亡した兵卒の墓碑が並んでいるのに、これだけが、明治29年と10年間のずれがあります。
第二に、階級名の表記の仕方と合いません。明治10年代末の階級名は「歩兵○○卒」などの表記方法。明治20年代末は(Kブロックで見る限り)「陸軍歩兵○○卒」というように「陸軍」がつけられています。では、K072はどうか。「歩兵○○卒」と刻まれていて、「陸軍」はついていません。
第三に台石の段数。明治22年まではほとんど例外なく、二段。K072は二段。明治29年の他の墓碑はすべて一段です。
位置も、階級表記も、台石も明治19年ということを示しているわけです。これは、誤記だと思います。実際の墓碑で確認すれば済むことですが、残念ながら、読み取れないのです。
大津市保管の書類は、①オリジナルの墓地の形態と②そこの墓碑の位置、③氏名、④階級、⑤死亡年月を記録しています。たとえば、兵卒の墓碑の場合は、東側と西側にわけて、墓碑に番号をふっています。一覧表は二枚(東と西)、そして、地図上に墓碑の記号を並べて、その下に番号をつけて、どの墓碑がどの位置にあったのかが、わかるようになっている書類が二枚(東と西)あります。
氏名や階級の誤記は、実際の墓碑と照らし合わせれば、わかります。思った以上に間違いがありましたし、「二等卒」と記載されてても、実際は「陸軍歩兵二等卒」であったり、「歩兵二等卒」であったりします。その違いが重要なことは、K072の例でわかると思いますが、大津の名簿では配慮されていませんでした。
しかし、兵卒の墓碑のもとあったはずの位置の情報は、名簿を信頼する以外に、確認する方法がないのです。オリジナルの兵卒の墓地は破壊されて存在しませんから。当時の墓地全体がわかる写真が残っていればいいのですが。
疑いだせばきりがないのですが、破壊をまぬがれて、現在も原型をとどめているはずの墓地でも、名簿や位置の記録と実際はちがうのです。たとえば、ブロックFです(それは、またの機会にします)。
死亡年月についても、似たところがあります。実際の墓碑は、正面の名前すら読み取るのが不可能となっている墓碑もあります。死亡年月日が刻まれているはずの場所は、さらに見にくい状態です。ですから、むしろ、それに依拠するしかない唯一の記録となっている場合もあります。
ただ、死亡年月についても、碑文の解読間違いや名簿に清書するときの書き間違い(大津市保管の名簿は手書きです)の可能性は捨てきれません。
たとえば、K072(大津市の記録では西67)。
この墓碑の兵卒は、文書記録では、明治29年に死亡したことになっています。これは間違いだと思います。
第一に、埋葬位置と一致しません。左右や周囲は、明治19年に死亡した兵卒の墓碑が並んでいるのに、これだけが、明治29年と10年間のずれがあります。
第二に、階級名の表記の仕方と合いません。明治10年代末の階級名は「歩兵○○卒」などの表記方法。明治20年代末は(Kブロックで見る限り)「陸軍歩兵○○卒」というように「陸軍」がつけられています。では、K072はどうか。「歩兵○○卒」と刻まれていて、「陸軍」はついていません。
第三に台石の段数。明治22年まではほとんど例外なく、二段。K072は二段。明治29年の他の墓碑はすべて一段です。
位置も、階級表記も、台石も明治19年ということを示しているわけです。これは、誤記だと思います。実際の墓碑で確認すれば済むことですが、残念ながら、読み取れないのです。
兵卒の墓碑と階級名 Ⅸ ~K131からK139まで~ ― 2010/10/23
旧大津陸軍墓地のKブロックの墓碑銘の記録をしていますが、139柱のうち、最後の一列を構成している9柱を見ていきます。
上の写真では、手前の横に並ぶ列になります。その一番右がK131。
ただし、K131からK135は、第九聯隊の衛戍地である大津で亡くなった若者の墓碑ではなく、明治5年に彦根の十八番大隊に所属して亡くなった若者の墓碑です。墓碑の台石も大きいし、墓碑も背は低いですが、かまぼこ型で重厚です。
それらの5柱は、すでに碑文を読み取り、ブログで公開しています。カテゴリー「第十八番大隊」で検索してご覧下さい。
ちなみに、兵卒の墓地は、1970年代まで保存されていた旧来の姿によれば、通路を挟んで、坂道を下にむけて東西に細長く連なっていました。Kブロックはほとんどが西の墓地から移葬されましたが、5柱の十八番大隊の兵卒の墓碑は、東にあり、そこから移葬されました。ですから、東の番号が振ってあります。死亡年月も、旧大津陸軍墓地が竣功する明治10年よりも、5年も前になっています。
ここでは、K136から139の4柱について正面の碑文を見て行きます。
上の写真では、手前の横に並ぶ列になります。その一番右がK131。
ただし、K131からK135は、第九聯隊の衛戍地である大津で亡くなった若者の墓碑ではなく、明治5年に彦根の十八番大隊に所属して亡くなった若者の墓碑です。墓碑の台石も大きいし、墓碑も背は低いですが、かまぼこ型で重厚です。
それらの5柱は、すでに碑文を読み取り、ブログで公開しています。カテゴリー「第十八番大隊」で検索してご覧下さい。
ちなみに、兵卒の墓地は、1970年代まで保存されていた旧来の姿によれば、通路を挟んで、坂道を下にむけて東西に細長く連なっていました。Kブロックはほとんどが西の墓地から移葬されましたが、5柱の十八番大隊の兵卒の墓碑は、東にあり、そこから移葬されました。ですから、東の番号が振ってあります。死亡年月も、旧大津陸軍墓地が竣功する明治10年よりも、5年も前になっています。
ここでは、K136から139の4柱について正面の碑文を見て行きます。
最後列 K131~K139
K131 (階級名なし) 清水 男外吉 東9
K132 (階級名なし) 長谷 吉太郎 東10
K133 (階級名なし) 新畑 周二 東11
K134 (階級名なし) 辻 安次 東12
K135 (階級名なし) 岡田 ○良 東13
K136 二等喇叭卒 鵜飼 万治郎 西128
K137 上等卒 伊藤 惣七 西129
K138 生兵 生田 亀吉 西130
K139 二等卒 栢垣 徳松 西131
K131 明治 5年 4月 東9
K132 明治 5年 6月 東10
K133 明治 5年 7月 東11
K134 明治 5年 7月 東12
K135 明治 5年 8月 東13
K136 明治11年 8月 西128
K137 明治11年 6月 西129
K138 明治11年 8月 西130
K139 明治11年 9月 西131
兵卒の墓碑と階級名 Ⅷ ~K117からK130まで~ ― 2010/10/23
Kブロックも残り2列。23柱です。
旧大津陸軍墓地が竣工したのは、明治10(1877)年10月のことです。Kブロックの前から7列目=後ろから2列目の14柱に刻まれた死亡年月は、明治11年9月から同12年9月まで。つまり、竣工直後の2年間に病死した若者の墓碑が並んでいます。碑文を読むと下の写真のように「平民」の文字が読みとれます。
これらは、草創期の明治陸軍のあり方について、考える手がかりとなっています。
階級名は、以下のように刻まれています。
その他、一(二)等卒と一(二)等兵卒という名称が混在します。呼称が、まだ確定していなかったということを意味しているのでしょうか。それとも、どちらでも違いがないということでしょうか。
旧大津陸軍墓地が竣工したのは、明治10(1877)年10月のことです。Kブロックの前から7列目=後ろから2列目の14柱に刻まれた死亡年月は、明治11年9月から同12年9月まで。つまり、竣工直後の2年間に病死した若者の墓碑が並んでいます。碑文を読むと下の写真のように「平民」の文字が読みとれます。
これらは、草創期の明治陸軍のあり方について、考える手がかりとなっています。
階級名は、以下のように刻まれています。
前から8列目 K117~K130「歩兵」と刻まれたもの一柱あり、目を惹きます。
K117 二等卒 山内 新太郎 西126
K118 二等兵卒 中尾 茂八 西125
K119 生兵 竹詰 音之助 西124
K120 一等卒 辻 伊助 西123
K121 一等兵卒 後藤 音五郎 西122
K122 二等兵卒 宍藤 助二 *実藤?西121
K123 二兵卒 福田 音次郎 西120
K124 一等兵卒 山口 庄次郎 西119
K125 一等卒 望月 直吉 西118
K126 一等兵卒 中村 小太郎 西117
K127 二等兵卒 加藤 源七 西116
K128 歩兵 四方 弁吉 西115
K129 二等兵卒 羽田 藤二郎 西114
K130 二等兵卒 北井 西113
その他、一(二)等卒と一(二)等兵卒という名称が混在します。呼称が、まだ確定していなかったということを意味しているのでしょうか。それとも、どちらでも違いがないということでしょうか。
K117 明治11年10月 西126
K118 明治11年 9月 西125
K119 明治11年 9月 西124
K120 明治11年 9月 西123
K121 明治11年 9月 西122
K122 明治12年 8月 西121
K123 明治12年 8月 西120
K124 明治12年 8月 西119
K125 明治12年 8月 西118
K126 明治12年 7月 西117
K127 明治12年 1月 西116
K128 明治12年 4月 西115
K129 明治12年 9月 西114
K130 明治12年 9月 西113
兵卒の墓碑と階級名 Ⅶ ~K103からK116まで~ ― 2010/10/22
つづいて、前から7列目 K103~K116を、大津市保管の記録を訂正しながら、掲載します。
K103 歩兵二等卒 武智 隆太 西99
K104 歩兵一等卒 萬濃 勇吉 西100
K105 生兵 脇田 福蔵 西101
K106 歩兵二等卒 生川 光三郎 西102
K107 二等兵卒 入山 五郎右衛門 西103
K108 二等兵卒 瀧岡久二郎?? 西104
K109 生兵 越知 清太郎 西105
K110 陸軍歩兵二等卒 南嶋 浅太郎 西106
K111 喇叭二等卒 奥藤 吉五郎 西107
K112 喇叭?二等卒 黒田 太蔵 西108
K113 二等兵卒 田中 藤次郎 西109
K114 一等兵卒 奥村 次郎吉 西110
K115 陸軍一等兵卒 今西 丑松 西111
K116 二等兵卒 松井 音松 西112
K103 明治14年 2月 西99
K104 明治14年 4月 西100
K105 明治12年10月 西101
K106 明治10年12月 西102
K107 明治13年 1月 西103
K108 明治13年10月 西104
K109 明治13年 1月 西105
K110 明治13年 8月 西106 *建て直し?
K111 明治11年10月 西107
K112 明治13年 8月 西108
K113 明治12年 8月 西109
K114 明治12年 8月 西110
K115 明治12年 8月 西111
K116 明治12年 9月 西112
兵卒の墓碑と階級名 Ⅵ ~K086からK102まで~ ― 2010/10/22
Kブロックの前から6列目 K086~K102。これらは、基本的に元の埋葬場所の順番をそのまま残して配置されています。ただし、例外あり。西側の93の墓碑は、別の箇所に移葬されています。理由は、台石が1段であるためでしょう。
同じ二等卒の兵士でも、墓碑の記載の仕方が「歩兵二等卒」と「二等卒」が同じ年代に存在します。どちらでも、よかったのでしょう。
同じ二等卒の兵士でも、墓碑の記載の仕方が「歩兵二等卒」と「二等卒」が同じ年代に存在します。どちらでも、よかったのでしょう。
K086 二等卒 村田斉?五郎 西98
K087 歩兵二等卒 望月 新吉 西97
K088 二等卒 中川 元吉 西96
K089 歩兵二等卒 瀬尾 ○一郎? 西95
K090 歩兵二等卒 森 文六 西94
K091 歩兵上等卒 末 鉄次郎 西92
K092 歩兵二等卒 濱地 熊次郎 西91
K093 歩兵二等卒 渡邉 久吉 西90
K094 歩兵二等卒 藤枝 ○次郎 西89
K095 歩兵二等卒 中濱 長松 西88
K096 歩兵二等卒 仲井 乙吉 西87
K097 歩兵二等卒 松永○○ 西86
K098 歩兵二等卒 山野 伊達? 西85
K099 歩兵二等卒 守谷 丈吉 西84
K100 歩兵二等卒 田畑 芳松 西83
K101 歩兵二等卒 大中 芳松 西82
K102 歩兵一等卒 鈴木 力之助 西81
K086 明治14年 1月 西98
K087 明治12年12月 西97
K088 明治13年11月 西96
K089 明治13年11月 西95
K090 明治13年11月 西94
K091 明治15年 9月 西92 *中折れ
K092 明治15年 9月 西91
K093 明治14年11月 西90
K094 明治15年 8月 西89
K095 明治15年 8月 西88
K096 明治19年11月 西87
K097 明治15年 5月 西86
K098 明治17年10月 西85
K099 明治16年 4月 西84
K100 明治16年 7月 西83
K101 明治16年 2月 西82
K102 明治16年 2月 西81
兵卒の墓碑と階級名 Ⅴ ~K069からK085まで~ ― 2010/10/22
大津市に残る名簿と実際の墓地および墓碑とを見比べるのは、単調な作業です。しかし、Kブロックもあと半分になりました。
しかし、K072だけ年代が違います。
これが「明治29年6月」ではなく、明治19(1886)年6月なら問題はないと思います。見間違いなのか、誤記なのか、それとも事実なのか。碑文から読み取るのは、困難な状態です。
年代ごとに違う墓碑の特徴などから、解明することができるかも知れません。
残るは、第六、第七、第八、第九の4列。54柱ですね。
Kブロック前から5列目 K069~K085
K069 歩兵○○卒? 森田 喜次郎 西側64
K070 歩兵上等兵 西村 岩吉 西側65
K071 歩兵二等銃卒 坂口 捨吉 西側66
K072 歩兵○○○卒 三上 松之助 西側67
K073 歩兵○○銃卒 新谷 宣吉 西側68
K074 歩兵二等銃卒 増田 ○之助 西側69
K075 生兵 山下 長松 西側70
K076 歩兵二等卒 西田 戈治郎 西側71
K077 歩兵二等卒 山本 兼松 西側72
K078 歩兵二等卒 安井 伊之助 西側73
K079 歩兵二等卒 瀧原 定吉 西側74
K080 喇叭一等卒 田原 仁次郎 西側75
K081 歩兵二等卒 山元 石之助 西側76
K082 歩兵二等卒 四方 榮吉 西側77
K083 歩兵二等卒 早馬 徳次郎 西側78
K084 歩兵二等卒 久保田 留二郎 西側79
K085 歩兵二等卒 亀井新二郎 西側80
K069 明治19年 6月 西64Kブロックの第五列目は、明治10年代後半の病死者の墓碑が並んでいます。当初の並び方もこのようになっていますね。
K070 明治19年 6月 西65
K071 明治19年 6月 西66
K072 明治29年 6月 西67
K073 明治19年 7月 西68
K074 明治19年 7月 西69
K075 明治18年11月 西70
K076 明治16年11月 西71
K077 明治17年11月 西72
K078 明治17年 6月 西73
K079 明治17年 7月 西74
K080 明治17年 8月 西75
K081 明治17年 9月 西76
K082 明治16年 4月 西77
K083 明治15年11月 西78
K084 明治15年 8月 西79
K085 明治15年12月 西80
しかし、K072だけ年代が違います。
これが「明治29年6月」ではなく、明治19(1886)年6月なら問題はないと思います。見間違いなのか、誤記なのか、それとも事実なのか。碑文から読み取るのは、困難な状態です。
年代ごとに違う墓碑の特徴などから、解明することができるかも知れません。
残るは、第六、第七、第八、第九の4列。54柱ですね。
兵卒の墓碑と階級名 Ⅳ ~K052からK068まで~ ― 2010/10/21
旧大津陸軍墓地のKブロックは、139の墓碑があります。前から後ろへ9列に並んでいます。これまでに、前から3列、51柱分の墓碑の階級名を記録してきました。
これから4列目、K052~K068までの墓碑名を見て行きます。
大津市に残る名簿では、記載が抜けている箇所、もしくは訂正が必要な箇所には、下線を引きました。
墓碑に刻まれた死亡年月と埋葬位置の関係は以下のとおりです。
これから4列目、K052~K068までの墓碑名を見て行きます。
大津市に残る名簿では、記載が抜けている箇所、もしくは訂正が必要な箇所には、下線を引きました。
K052 歩兵二等銃卒 田本 太蔵 西側63「銃卒」という言葉ですが、幕末にでてくるのは知っています。しかし、s下の墓碑(K058)のように、明治の軍制のなかでも、存在したのですね。
K053 故歩兵一等卒 宮崎 駒吉 西側62
K054 歩兵○等卒? 松本 光治郎 西側61
K055 ○○○○○ 福田 金治郎 西側60
K056 歩兵二等卒? 前田 留次郎 西側58
K057 生兵 大八木 菊之助 西側57
K058 歩兵一等銃卒 高田 里次郎 西側56
K059 生兵 石田 重吉 西側55
K060 歩兵一等銃卒 久野 豊杢 西側54
K061 歩兵二等卒 田村 政治郎 西側53
K062 歩兵二等卒 岡田 友吉 西側52
K063 歩兵一等卒 望田 源之助 西側51
K064 歩兵一等卒 山川 仙太郎 西側50
K065 歩兵二等卒 小林 ○之助 西側49
K066 歩兵二等卒 竹嶋 鶴松 西側48
K067 二等卒 泉並 ○(廉)?蔵 西側47
K068 歩兵二等卒 寺島 外吉 西側46
墓碑に刻まれた死亡年月と埋葬位置の関係は以下のとおりです。
K052 明治19年 6月 西63
K053 明治19年 5月 西62
K054 明治21年12月 西61
K055 明治21年 6月 西60
K056 明治20年11月 西58
K057 明治20年 8月 西57
K058 明治20年 7月 西56
K059 明治20年 6月 西55
K060 明治20年 3月 西54
K061 明治25年??月 西53
K062 明治25年 5月 西52
K063 明治25年12月 西51
K064 明治24年 7月 西50
K065 明治24年 6月 西49
K066 明治24年 4月 西48
K067 明治23年11月 西47
K068 明治23年 8月 西46
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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