お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)2011.9.10更新2011/09/10

旧高島郡の日露戦争戦没者名簿

 『高島郡誌』によれば、日露戦争の戦病死者は、ちょうど100名です。その名簿を、日露戦争直後の2町15村の区分で分けて、掲載します。

海津村  3名

○中村 治平  海津村大字海津
   歩兵上等兵
   明治38年3月1日 奉天附近

●小谷 彌吉  海津村大字西濱
   歩兵上等兵
   明治38年3月1日 北臺子
   *西浜共同墓地に砲弾型墓碑

●土肥 定吉  海津村大字西濱
   歩兵一等卒
   明治37年9月3日 遙陽附近
   *西浜共同墓地に砲弾型墓碑


剣熊村   3名

○岩本 岩三郎  剣熊村大字小荒路
   歩兵上等兵
   明治38年3月4日 来神堡

○上田 興市  剣熊村大字浦
   歩兵一等卒
   明治37年12月22日 旅順

○安本 孫吉  剣熊村大字野口
   歩兵一等卒
   明治37年8月23日 盤龍山

西庄村   8名

○久保井 友吉  西庄村大字寺久保
   歩兵曹長
   明治37年8月24日 盤龍山

○田中 仙吉  西庄村大字開田
   歩兵伍長
   明治37年9月3日 シュアンシュダイ

○青谷 富蔵  西庄村大字牧野
   歩兵上等兵
   明治38年3月2日 角面堡

○青谷 重太郎  西庄村大字牧野
  明治37年8月21日 旅順

○木下 龍之介 西庄村大字下開田
  明治37年8月24日 盤龍山

○橋本 甚右衛門 西庄村大字下開田
  明治38年9月1日 大房身(病死)

○黒川 幸次郎  西庄村大字寺久保
  明治37年8月1日 滾子泡

○藤田 吉之助  西庄村大字蛭口
  明治37年7月23日 五臺山(病死)

百瀬村

○伊吹 米蔵  百瀬村大字中庄
  明治38年3月7日 小貴興堡

○鳥居 宗七  百瀬村大字知内
  明治37年8月22日 旅順要塞

○黒川 辰三郎  百瀬村大字新保
  明治37年10月8日 長嶺子(病死)

川上村

○新井 勝吉  川上村大字深清水
  明治37年8月22日 旅順

○木下 石松  川上村大字酒波
  明治38年11月6日 大坂予備病院(病死)

○山室 源治郎  川上村大字日置前
  明治37年8月20日 旅順要塞

○松本 由太郎  川上村大字福岡
  明治37年7月24日 金州(病死)

○古谷 徳次郎  川上村大字日置前
  明治37年8月22日 東鶏冠山

●原田 徳松  川上村大字深清水
  明治38年3月8日 小貴興堡
   *深清水の墓地に砲弾型墓碑

○州崎 善吉  川上村大字濱分
  明治37年7月23日 大石橋

●雲野 辰之助  川上村大字深清水
  明治38年1月27日 沙河(病死)
  *深清水の墓地に砲弾型の墓碑

今津町

○古我 彦四郎  今津町大供
  明治38年3月2日 北臺子

○山田 長蔵  今津町大字藺生
  明治37年8月24日 盤龍山

●小川 友吉  今津町大字弘川
  明治37年8月22日 旅順
  *弘川霊苑に砲弾型墓碑

○圓山 禅学  今津町大字今津
  明治38年3月7日 小貴興堡

●柴田 権次郎  今津町大字今津
  明治38年3月1日 北臺子
  *大字今津共同墓地に砲弾型墓碑

○桂田 久蔵  今津町大字梅原
  明治37年3月26日 金州南山

●中村 十治郎  今津町大字今津
  明治37年5月26日 金州南山
  *大字今津共同墓地に砲弾型墓碑

●中川 萬助  今津町大字今津
  明治37年8月21日 旅順
  *大字今津共同墓地に砲弾型墓碑

●前川 重五郎  今津町大字弘川
  明治37年11月14日 廣島予備病院(病死)
  *弘川霊苑に砲弾型墓碑

三谷村

○浅井 順誠  三谷村大字追分
  明治38年3月7日 小貴興堡

○中山 四良平  三谷村大字椋川
  明治37年11月5日 遼陽病院(病死)

○松田 豊治  三谷村椋川
  明治37年8月23日 青泥窪病院(病死)

新儀村

●小林 鹿治郎 新儀村大字新庄
  明治38年3月7日 清国小貴堡 (21歳)
   *砲弾型墓碑

○多胡 源蔵  新儀村大字新庄
  明治39年2月23日 大津衛戍病院 (23歳)

○三重生 辰蔵 北畑
  明治37年8月5日 清国大平庄兵站病院 (24歳)

○兼子 捨松  新儀村大字藁園
  明治37年8月22日 清国東鶏冠山付近 (27歳)

○桂田 才治郎  新儀村大字藁園
  明治38年3月1日 清国盛京有腰屯陣地 (25歳)

○清水 末吉  新儀村大字太田
  明治38年3月23日 対馬西ノ水道付近 (20歳)

○清水 音治郎  新儀村大字太田
  明治37年8月22日 清国東鶏冠山付近 (31歳)

○森 安三郎  新儀村大字太田
  明治38年3月5日 清国盛京省唐家屯北方高地 (21歳)

饗庭村

○内藤 秀吉  木津
  明治38年3月14日 清国盛京省樹林子 戦地病院 (25歳)
   *『高島郡誌』では、饗庭村大字饗庭

○桒原 元次郎  今市
  明治37年8月21日 清国旅順鶏冠山北砲台 (22歳)
   *『高島郡誌』では、饗庭村大字熊ノ本

○遠藤 辰次郎  堀川
  明治37年10月12日 清国老峮峪北高地 (24歳)
   *『高島郡誌』では饗庭村大字旭。

○川島 乕太郎  霜降
  明治38年3月7日 清国盛京省小貴堡 (22歳)
   *『高島郡誌』では”虎太郎”。饗庭村大字旭

●中村 新九郎  饗庭村大字深溝
  明治38年2月15日 清国遼陽兵站病院 (31歳)
   *砲弾型墓碑がある


廣瀬村

○入江 初次郎  廣瀬村大字上古賀
  明治37年8月24日 旅順

○横井 喜久太郎  廣瀬村大字中野
  明治37年8月29日 大坂予備病院(病死)

●黒丸 藤吉  廣瀬村大字南古賀
  明治37年7月31日 野戦病院(病死)
  *南古賀墓地に角錐型墓碑

○北村 勘七  廣瀬村大字下古賀
  明治38年3月2日 北臺子

○西澤 石松  廣瀬村大字南古賀
  明治39年 関東陸軍病院(病死)

○北村 梅吉  廣瀬村大字長尾
  明治37年8月21日 旅順

○平井 嘉十郎  廣瀬村大字上古賀
  明治38年8月20日 茨林子療養院(病死)

安曇村

●横江 菊次郎  安曇村大字西萬木
  明治37年8月21日 東鶏冠山
   *西万木墓地。砲弾型

●薬師川 彌市  安曇村大字田中
  明治37年8月24日 旅順
   *田中墓地。砲弾型墓碑

●藤澤 傳治郎  安曇村大字田中
  明治37年8月21日 旅順要塞
   *田中墓地。砲弾型墓碑

○日置 鹿蔵  安曇村大字西萬木
  明治37年8月21日 旅順要塞

●前川 幸太郎  安曇村大字田中
  明治37年10月6日 東干家野戦病院(病死)
   *田中墓地。砲弾型墓碑

●福井 彌七  安曇村大字三尾里
  明治38年4月1日 廣島予備病院(病死)
  *常盤木・十八川墓地

●河井 角右衛門  安曇村大字常盤木
  明治38年3月12日 大坂予備病院(病死)
  *常盤木・十八川墓地

○多胡 徳治郎  安曇村大字常盤木
  明治37年10月3日 遼陽兵站病院(病死)

●熊谷 新次郎  安曇村大字田中
  明治37年9月3日 ドウズアシュアンシウズイ
   *田中墓地。砲弾型墓碑

●中西 傳次郎  安曇村大字西萬木
  明治38年3月23日 対馬付近船内
   *西万木墓地。砲弾型。「傳」でなく「鍵」

青柳村

○吹畑 鐵蔵  青柳村大字小川
  明治38年9月21日 戦地舎営病院(病死)

○木原 幾太郎  青柳村大字青柳
  明治38年3月7日 小貴興堡

○岡田 亀吉  青柳村大字青柳
  明治37年8月22日 東鶏冠山北砲台

○小島 松之助  青柳村大字下小川
  明治37年8月24日 盤龍山西砲台

本庄村

●梅村 七松  本庄村大字四津川
  明治37年10月31日 青泥窪兵站病院(病死)
  *砲弾型墓碑

●山本 鶴吉  本庄村大字四津川
  明治37年8月21日 旅順
  *砲弾型墓碑

●拝藤 勇蔵  本庄村大字四津川
  明治38年3月7日 小貴興堡
  *砲弾型墓碑

●梅村 伊三郎  本庄村大字四津川
  明治37年6月15日 得利寺
  *砲弾型墓碑

●澤井 六之丞  本庄村大字横江濱
  明治38年10月7日 古城堡(病死)
  *砲弾型墓碑

●橋本 伊三郎  本庄村大字南船木
  明治38年3月7日 小貴興堡
  *四角柱の墓碑

●竹原 岩次郎  本庄村大字南船木
  明治37年8月21日 旅順
  *四角柱の墓碑

●早藤 彌三郎  本庄村大字四津川
  明治38年1月24日 遼陽兵站病院(病死)
  *砲弾型墓碑

高島村

●大塚 徳松  高島村大字鹿ヶ瀬
  明治37年10月15日 大坂予備病院
   *黒谷墓地に四角錐の墓碑

●八田 金蔵  高島村大字高島
  明治37年8月22日 旅順
   *伊黒墓地に四角錐の墓碑

●西川 元治郎  高島村大字高島
  明治38年3月7日 小貴興堡
   *伊黒墓地に四角錐の墓碑

●西 歳徳  高島村大字鹿ヶ瀬
  明治37年8月22日 東鶏冠山北砲台
  *鹿ガ瀬に巨大な碑

大溝町

●山田 與三郎  大溝町大字勝野
  明治38年3月2日 角面堡
  *中野墓地に四角錐の墓碑

●竹下 伊三郎  大溝町大字勝野
  明治38年3月4日 来神堡
  *中野墓地に四角錐の墓碑

○仁賀 富蔵  大溝町大字勝野
  明治38年4月15日 遼陽兵站病院(病死)

●萬木 音吉  大溝町大字勝野
  明治38年3月8日 小貴興堡
  *中野墓地に四角錐形の墓碑

○和治 庄蔵  大溝町大字勝野
  明治37年7月30日 小倉予備病院(病死)

○仁賀 半兵衛  大溝町大字勝野
  明治38年9月11日 佐世保港三笠艦遭難

水尾村


●鈴木 勘三郎  水尾村大字宮野
  明治37年8月1日 滾子泡
   *宮野墓地に四角錐の墓碑

○伊藤 岩吉  水尾村大字武曽横山
  明治37年11月8日 廣島予備病院(病死)

○林 善蔵  水尾村大字鴨
  明治38年3月31日 遼陽兵站病院(病死)
   *鴨の共同墓地に四角錐墓碑

○横田 元蔵  水尾村大字武曽横山
  明治37年5月26日 金州南山

○中村 嘉治郎  水尾村大字鴨
  明治37年11月21日 青泥窪兵站病院

○横田 寅吉  水尾村大字武曽横山
  明治37年10月19日  廣島予備病院(病死)

『高島郡地図』(郡誌から)の一部(朽木村付近)
朽木村

○岡本 常吉  朽木村大字麻生
  明治37年8月24日 盤龍山

○三浦 新左衛門  朽木村大字麻生
  明治37年5月26日 金州南山

○久保 留吉  朽木村大字平良
  明治38年10月1日 南嶺病院(病死)

○中辻 大三郎  朽木村大字小川
  明治38年3月2日 北臺子

○久保 吉蔵  朽木村大字大野
  明治38年3月2日 北臺子

○松谷 松右衛門  朽木村大字地子原
  明治38年8月22日 野戦病院(病死)

○米村 岩吉  朽木村大字雲洞谷
  明治38年3月2日 北臺子

『高島郡誌』に記載のない戦没者

百瀬村

●栗本 藤三郎  大沼
  *大沼霊園にある

本庄村

●橋本 卯之助  北舟木
  *砲弾型墓碑。

安曇町

●福井 捨治  
  *砲弾型墓碑 常磐木・十八川墓地

●井上 庫吉
  *通常型墓碑。西万木墓地

コメント

_ やつしろ ― 2010年11月16日 16時49分05秒

回り道の帰り道・・・・
西万木墓地に行きました。
砲弾型二基に挟まれて、角型一基が並んでいました。

恐らく、名簿のお三方です。

_ BIN★→やつしろさん ― 2010年11月16日 21時24分34秒

またまた確認していただいたんですね。
私は探す当てさえなくて、困惑ばかりしていました。
この二年ばかりはなんだったんでしょうね(笑)。

_ やつしろ ― 2010年11月17日 21時42分39秒

家内からこんなに言われました。
「この頃、お墓や忠魂碑にのめり込んでいるけど、その人(井上さんのこと)は、目的を持って、コツコツ探してこられたんだと思う。
探し、見つけることに喜びを感じて・・・。
それだのに、あんたが出しゃばって、探したのを見せびらかす・・・。
アカンのと違う?そりゃ、あんたは年もいっているし、土地勘もあるし、第一プロやんか、見付けて当たり前。
いい加減邪魔せんとき・・・」
正にその通り・・・今日も仕事に出かけたハザマに、2基見付けましたが・・・
今後は、何か御質問があれば・・・ということに致します。

_ BIN★→やつしろさん ― 2010年11月17日 22時38分55秒

え~、そんなことはないですよ。
どんなに助かっていることかわかりません。
それに、探すことだけを楽しんでいるわけではありません。
わざわざ出向かなくても、つぎつぎ発見していただくことで、
つぎの探究への展望が湧いてきます。
私は思っているのです。
やつしろさんの助力があれば、仕事をしながらでも、戦争の遺跡(墓碑、忠魂碑など)を後世に伝えるマップができるはずだと。
しかし、やつしろさんの専門誌知識と地を這うな調査などの助力がなければ、私は忠魂碑ひとつを見つけるのにさえ、数カ月かかり、そのような構想はあきらめるしかないのです。

戦争の傷跡を残す墓碑や忠魂碑をきちんと位置づけ、
つぎの世代につたえる・・・それが私の目的です。
沖縄や広島に行かなくても、戦争を考えるゲートは、
目のまえにあることを伝えたいと思っているのです。

奥さんは、きっと、やつしろさんのお体を気にしているのです。
申し訳ありませんが、このコメントを奥さんのも読んでいただきたいのです。
冬は寒いし、熱中すると事故につながるかもしれません。
それでも、とても助かっているし、今後ともご助力をいただけるようお願いします。

_ やつしろ ― 2010年11月20日 17時30分01秒

 旧安曇町常盤木・十八川墓地で、三基の砲弾型墓石を見つけました(家内同行)

陸軍歩兵一等卒 河合角右衛門  名簿にあり。
陸軍歩兵一等卒 勲八等功六級 福井彌七  名簿では「三尾里」出身
            碑文に「三尾里」の字あり。完読不能。
陸軍砲兵助卒 後書?勳八等 福井捨治  名簿に該当者なし。

 この墓地には、巨大な八角形の墓石(初めて)や珍しい墓があり、見学必須。

_ BIN★→やつしろさん・奥様 ― 2010年11月20日 18時30分13秒

 奥様には、大変申し訳なく思っています。ご主人のことは、ご心配だと思います。先日、三谷村に出かけたときに、旧な斜面にある慰霊碑に案内していただきました。私は足下がおぼつかなかったのに、ご主人は、平気のご様子。その年齢とはちがう体力を感じました。それでも、寒い季節に、お付き合いありがとうございます。
 さて、やつしろさんのコメントですが、福井捨治さんの墓碑に注目しました。名簿にない方の墓碑があることもそうですし、忠魂碑や慰霊碑に刻まれている名前の方が多いので、『高島郡誌』にもれがある気がします。
 探索いただいているので、「名簿」の整備を急ぎました。見つけていただいたことを反映できるようにして、後日に備えたいと思います。

_ やつしろ ― 2010年11月21日 09時24分29秒

赤字での「書き込み」が間違い・・・・20日にコメントした3基のお墓、いずれも「常盤木・十八川墓地」で発見したものです。

その中の、「福井捨治」さん・・・私も注目しています(昨夜、コメントをしたのですが行ってないみたい・・・)
 家内が言うのに「捨」と違うのでは・・・・墓の字は「テヘン」に「儉」の「ツクリ」、だから「すてじ」ではなく「けんじ」ではないかと。
 それに、「砲兵助卒」という位。
 それに、後から彫ったような「勲8等」
  第一、「名簿に無い」ということ。

_ BIN★→やつしろさん ― 2010年11月21日 09時56分05秒

ミスが多いのは笑えないですね。
訂正し、赤字から緑に変えました。

_ やつしろ ― 2010年11月24日 18時16分58秒

西万木墓地で確認したこと(11月24日)
横江菊次郎さん・・・砲弾型
中西傅次郎さん・・・砲弾型・・・ただ、傅次郎ではなく、「鍵次郎」となっていました。
「井上庫三」さん・・・角型・・・名簿にはなし。「海軍一等機関兵」
           海軍は初めてです。
 井上さんを挟んで、砲弾型二基です。

_ やつしろ ― 2010年11月24日 18時23分33秒

となると・・・名簿の「日置鹿蔵」さんは、何処へ行ったのでしょうか?
ちなみに、昔から西万木には「日置」の姓はありません。
あるのは集中して、三尾里です。
田んぼの真ん中にある三尾里墓地・・・一度見て来ます。

_ BIN★→やつしろさん ― 2010年11月26日 01時35分08秒

墓碑の発見のたびに、更新させていただきます。
ブログでは最新の記事に来るようにしました。

郡誌には、誤記もありえることです。
名前とか。
出身の間違いがあれば、それは初めての例です。

_ やつしろ ― 2010年11月26日 07時25分24秒

三尾里の墓地・・・ずいぶん様変わりをしていて驚きました。
すっかり石碑が立ち並んで・・・昔は、繰り返し使う墓地で、戦没者以外石碑は許されなかったのですがねえ・・・
やはり「日置鹿蔵」さんは、西万木出身ではなく、三尾里出身・・・ちゃんと砲弾型のがありました。
それに、郡誌に無い「横井川四郎」さんの砲弾型墓碑もありました。
そのうえ日清戦役の戦没者「日置卯市」さんの長大な墓碑もありました。

_ BIN★→やつしろさん ― 2010年11月26日 09時50分15秒

三尾里、西万木など、見てみたい墓地ばかりですね。
『郡誌』の限界も見えました。

_ やつしろ ― 2010年12月02日 02時18分31秒

仕事の帰り、旧マキノ町海津の「清水(しょうず)の桜」の傍の墓地へ行って来ました。
予想通り日露戦役の砲弾型の墓石がありました。
郡誌では、旧海津村には三名の戦没者が記載されており、その内の二名は海津村西浜墓地に、砲弾型の墓石があります。
清水の桜墓地にあったのは郡誌記載の「中村治平」さんのもの、それと記載のない「徳田政吉」さんのものでした。
隣にはもっと古い感じのもの「南部?」というのもありました。これは、日清戦役型の墓石でした。
確認して頂けるといいのでは・・・・。

_ BIN★→やつしろさん ― 2010年12月02日 09時01分00秒

ご苦労様です。
12月になってしまいました。
お元気そうでなによりです。

さて、「清水の櫻」・・・です。
水上勉の『櫻守』にも出てきましたから、
見てみたかったのですけれど、いまだたどり着けません。

南部さんの件を調べました。

○南部由松さんなら、西南戦争の戦死者だと思います。
 これが正解ならば、高島市で初めて見つける
 西南戦争の戦死者の墓碑。
 大津市にも、それはありません。

○もうひとりの可能性は南部由造さん。
 海津村の忠魂碑にとりつけられたネームプレートに
 南部由松さんとともに載っています。

一字ちがいですが、このふたりのうちどちらかだと思います。

_ やつしろ ― 2010年12月02日 11時32分52秒

南部さんの件・・・・恐らく、日清戦役後の方でしょうね。
西南役の戦没者の墓碑は、何処を探しても見つかりません。
朽木の殿様の子孫「朽木雄六」さんが、西南役で亡くなり、少尉ということなので、お墓があるかと探しましたが、「朽木某」さんの極めて立派なお墓がありましたが、日支戦争の時でした。

「南部」さんのお家は、代々「由」の字を使われていますので、御一統の方でしょう。
今も、電話帳ではお二人、あります。

_ BIN★→やつしろさん ― 2010年12月03日 00時04分17秒

今日は歯の治療をしました。
麻酔のおかげで昼食が食べられないことになり、
その時間を利用して、県庁の資料室に行きました。
そして、明治の資料の公開を請求しました。
村別に出征者名や、戦争にかかわる行事内容など
すべてが書かれている『戦時事績』です。
(たしかこういう名前でした)

高島郡や大津市に西南戦争の個人墓碑がない
ことについて、気になったので、
ネットで検索してみました。
個人墓碑はきっと現地にあるだろうと。
山川招魂社にある墓碑を調べて、
その記事を書きました。
見ていただければ幸いです。
墓碑と『高島郡誌』との対照もしました。

_ やつしろ ― 2010年12月03日 02時55分14秒

検索しましたが、確かに、「朽木雄六」「南部由松」の墓はありませんね。
となると、清水の櫻墓地の「南部某」の墓は、日清戦争の「南部由造」さんのでしょう。親子か兄弟・・・(現在、電話帳にあるのは「由一」さん、「由春」さんです。

_ BIN★→やつしろさん ― 2010年12月04日 01時25分53秒

朽木雄六さんは、士族。どこかで墓碑があるはずですが。
たとえば、九州の官軍墓地。
名簿が見つからないので、なんともいえません。

_ やつしろ ― 2010年12月08日 23時36分03秒

既報の通り、水尾村は全員完了です。

_ BIN★→やつしろさん ― 2010年12月09日 01時54分06秒

ご苦労様でした。
更新が遅れています。

_ やつしろ ― 2010年12月09日 15時43分05秒

お参りが夜になったので、旧高島村まで行こう、と、用意をしていたら雨!
 有名な「高島時雨」です。
例年、11月頃から見られるのですが、今年はそれが無く、「小春日和」が続いていました。
「行かなくて、良かったなあ!」と、思っていたら、今、雷が一声・・・・
「雪起こしの雷」に、ならなければいいが・・・

 これからは、高島の外は、全然ダメになります・・・
 大津では考えられない気候の段差です。

 見てもらいたい見物が、イッパイあったのに・・・・。

_ BIN★→やつしろさん ― 2010年12月10日 00時08分22秒

雪起こしの雷!!
雪起こしの風なら、知っています。
高島は雷もそうなんですか?
湖西線も堅田以北は気候に左右されますね。
雪がなくても、強風なんかで。

_ やつしろ ― 2010年12月10日 03時48分12秒

「雪起こしの雷」を検索すると、メッチャ詳しく書かれていますよ。

  でも、今の状態では、「雪はなし」・・今日も夜のお参りだから、行けるかも・・・

_ やつしろ ― 2010年12月10日 15時43分36秒

昨夜の雷は、やはり雪起こしの雷で、西山(比良山系・・・武奈ヶ岳・蛇谷ヶ峰など)は初冠雪でした。
午後、旧高島村(高島〈伊黒、富阪〉・拝戸・鹿ヶ瀬・黒谷・畑の5大字)の墓地を探しに行きました。
この前、鹿ヶ瀬で2基見付けたので、あと二つです。
伊黒は大きな在所で、墓地も二つに分かれています。
この前、道端のは見ましたが、収穫なし。
今日は、野獣除けのゲートを潜り、山深く入りました。
新旧の墓石が散在する大きな墓地です。
日露戦役の歩兵上等兵「八田金蔵」さん、同じく「西川元治郎」さんの角型の墓碑を見付けました。
その他、憲兵上等兵勳七等「北村七右衛門」さんの墓がありました。
この人は、明治三十四年歩兵第九連隊入隊、憲兵として朝鮮、台湾で活躍した人らしいです。亡くなったのは分かりませんが、昭和七年の建立です。
それに、郡誌名簿にない人で、鹿ヶ瀬墓地の輜重兵一等兵勲八等「大塚久左衛門」さん・・・墓碑からは、日露戦役没者と分かりますが、建立は昭和19年です。
 取り敢えず、日露戦役高島村は完了です。(畑へは、井上さんが日清戦役「林甚蔵」さんの墓の確認をされていますので、行きませんでした。)

_ BIN★→やつしろさん ― 2010年12月10日 17時26分21秒

ご苦労様です。
天候が回復したことと、成果があったことを喜んでいます。
それにしても、「野獣除けのゲートを潜り、山深く・・・」
ということに驚きました。
なにかあったらと心配しますが、
そうでもしないと墓地に行けないのでしょうね。

そもそも、そのあたりに墓地があることすら、
私にはわかりませんから、
やつしろさんだからできる行動です。

おかげで、ものすごい勢いで墓碑の確認ができています。

戦死者の墓碑が、それまでとは違う形でつくられ、
そして、それが現在まで残されているということに感動を覚えます。
それは、普通ではない死であることの無念さと誇り、それらを
受けとめなければならなかった家族の複雑な思いを
忘れてくれるなというメッセージだと思っています。

集団碑を目の前にしたときと、
個人碑を目の前にしたときでは、ずいぶん
受ける衝撃がちがうのです。

回っていただいている成果を名簿に反映します。

_ やつしろ ― 2010年12月11日 17時23分32秒

名簿に「漏れ」の部分・・・
「海津村」中村治平さん・・砲弾型
「安曇町」日置鹿蔵さん・・常盤木墓地ではなく、三尾里墓地・・砲弾型
「水尾村」名簿の六体・・・全部角型
「青柳村」吹畑鐡蔵さん、小島松之助さん・・・下小川墓地・・角型

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BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)