お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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《Я спросил у ясеня》2012/01/26

 国民的なお正月映画《Ирония судьбы или С лёгким паром》(1975)。そこに出てくる曲・・・らしいです。歌をユーチューブで見つけて、歌詞を探しました。ここから映画の内容はなかなか見えてきませんでした。仕方なく、映画で検索して、だいたいのことはわかりました。同じフレーズ(Я спросил у ○○○  Где моя любимая)が執拗にくり返されます。そのメンタリティがロシア的?

Я спросил у ясеня
Где моя любимая
Ясень не ответил мне
Качая головой
Я спросил у тополя
Где моя любимая
Тополь забросал меня
Осеннею листвой
Я спросил у осени
Где моя любимая
Осень мне ответила
Проливным дождем
У дождя я спрашивал
Где моя любимая
Долго дождик слезы лил
За моим окном
Я спросил у месяца
Где моя любимая
Месяц скрылся в облаке
Не ответил мне
Я спросил у облака
Где моя любимая
Облако растаяло
В небесной синеве
Друг ты мой единственный
Где моя любимая
Ты скажи где скрылася
Знаешь где она
Друг ответил преданный
Друг ответил искренний
Была тебе любимая
Была тебе любимая
Была тебе любимая
А стала мне жена
Я спросил у ясеня
Я спросил у тополя
Я спросил у осени...



Я спросил у ангела,
Я спросил у демона,
Я спросил у ясеня...

ブログで語学~『カラマーゾフの兄弟☆試訳』~2010/11/11

  勝手に紹介するのは悪いかなと思いましたが、ブログ『カラマーゾフの兄弟☆試訳』、すばらしいです。ドストエフスキーの遺作をていねいに翻訳して、解説されています。あらためてロシア語・ロシア文学の魅力を感じました。
 今晩夕食後、息子のH君に、語学のことを聞かれていたので、字幕のある映画でも見たらどうかといっておいたのです。しかし、こういうブログの使い方っていいですね。粘り強さもいるけれど。

カラマーゾフの兄弟☆試訳
 ブログの管理人は、mirさん。

 ときどきコメントをいただいているmirさんでしょうね。申し訳ないけれど、どんなブログをつくっておられるのか、知らずにきました。失礼しました。

ネットで閲覧できる村上春樹『ノルウェーの森』ロシア語版2010/11/11

 電子図書が著者に無断で、廉価販売されているそうです。たとえば、村上春樹さんの『1Q84』中国語版。それで、思い出したのです。ロシア語版も、ネットで無料で読むことができます。→Lib.Ru: Харуки Мураками
 下は『ノルウェーの森』の最後の部分。主人公がみどりに電話をかける個所です。『海辺のカフカ』ロシア語版は、洋書店で購入したのですけれど・・・。
Я позвонил Мидори. Сказал, что хочу с ней поговорить, все равно как, что мне многое нужно ей сказать, что мне много есть чего ей сказать, чего не казать нельзя, что я ничего во всем мире не желаю, кроме нее. Я сказал, что хочу встретиться с ней и поговорить, что хочу заново начать с ней все с начала.
Мидори долго молчала на своем конце линии. Одна тишина тянулась, точно все моросящие дождики в мире орошали лужайки на всем земном шаре.
Все это время я стоял, уперевшись лбом в стекло окна и закрыв глаза.
Наконец Мидори заговорила.
- Ты где сейчас? - спросил ее тихий голос.
Где я сейчас?
С телефонной трубкой в руке я огляделся вокруг таксофона. Да где же это я?
Но я не мог понять, где я находился. Не имел ни малейшего представления. Что это за место? Все, что отражалось в моих глазах, были бесчисленные фигуры людей, идущих в никаком направлении. Посреди находящегося в нигде пространства я продолжал и продолжал звать Мидори.

ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲№82010/11/01

これは第八番の第一楽章。
私がCDで聞いていたのは、第7番。
根が健康なバッハよりは
ショスタコーヴィッチの危うさの方を
身近に感じました。
今の私が不健康になっている
という意味ではありません。

広瀬中佐が所持したロシア地図@広瀬記念館2010/10/04

広瀬中佐が所持したロシア地図@広瀬記念館
広瀬記念館で目を奪われたのが、この地図。

軍事的に地図が大事だとか、
そういうことではなくて、
ただ興味深かったのです。

これがほしい・・・と思いました。

広瀬中佐の遺品のサモワール@広瀬記念館2010/10/04

広瀬中佐の遺品のサモワール@広瀬記念館
広瀬神社の境内に、広瀬記念館があります。
一階はカッター(船)が置かれています。
二階に上がると、神社とは思えぬ雰囲気がありました。

広瀬武夫はロシア研究家でもあり、
様々な軍事的な目的をもって
ロシアで暮らしていました。

ですから、その遺品には、
写真のサモワールのほかに、
ロシア本国で作られた地図など、
ロシアの雰囲気が漂っています。

国粋主義的な雰囲気というより、
国際的な視野をもった明治人の
懐の広さを感じるのです。

オリハはオリガ ~『物語 ウクライナの歴史』を読む~2009/10/25

 黒川祐次さんの『物語 ウクライナの歴史』(中公新書)を楽しみながら、読んでいます。
 ロシア国家も、ウクライナ国家も、9世紀から13世紀まで続いたキエフ国家(キエフ・ルーシ)を自らの祖としています。ですから、二つの国家史は、ともにキエフ・ルーシからはじまることになります。
 資料も同じ『原初年代記』(『過ぎし年月の物語』)です。都市としてのキエフの誕生は6世紀後半。ビザンツ帝国との交易のなかで成長していくことがわかります。
 国家としてのまとまりは、ヴァイキングの時代とともに訪れます。スカンディナヴィアのスウェーデン人は、当時、スラヴ人からヴァリャーグ人と呼ばれていたといいます。バルト海沿岸にノヴゴロドという都市がありますが、そこの東スラヴ人が貢納を納めていたヴァリャーグ人をいったん追放します。ところが内紛が発生し、それを収拾するために再び「ルーシ」(その地方ではヴァリャーグ人をこう呼んだ)を招いて、統治することを求めました。それに応じたのが首長のリューリック。862年にノヴゴロドの公(支配者)となり、リューリック朝を開きます。
 リューリックの家臣がビザンツ帝国の首都・コンスタンチノープルへ向かう途中、キエフなどの南部の都市を落とし、領地としていきます。勢力が増大するなかで、コンスタンチノープルの攻略を企て、その結果、有利な通商条約を結ぶなどの記事もでてきます。
 ビザンツ帝国との関係で新たな発展があるのは、キリスト教の受容です。6世紀後半から10世紀後半まで、キエフ国家の指導者はキリスト教を取り入れたわけではありません。
 指導者の改宗は、幼い公の後見人となって事実上、キエフ・ルーシを支配したオリハから始まります。ロシア語ではオリガ。「Г」という文字は、ロシア語では、英語ではGにあたります。ウクライナ語では「H」。この違いを理解すれば、名前の違いは気になりません。
 オリハの改宗物語は、色恋ざたが混じって、思わず微笑んでしまいます。その顛末はこうです。オリハがコンスタンチノープルを訪問したとき、オリハの美貌と才気に魅せられたビザンツ皇帝が求婚。寡婦オリハは、これを見事にかわします。私は異教徒。皇帝自らが洗礼しないかぎり、洗礼をうけません。皇帝が洗礼をほどこし、改めて娶ろうとすると、キリスト教では、洗礼親が”娘”と結婚できるはずがありませんと断るのです。957年のことです。
 ロシアの事実上の支配者オリハへのビザンツ皇帝の求婚がほんとうだとすれば、色恋沙汰以上の思惑があったのではと想像するのは、野暮なことかも知れません。

『プーシキン詩集』金子幸彦訳(岩波文庫)2009/09/16

『プーシキン詩集』金子幸彦訳(岩波文庫)
仕事の区切りをつけて、帰宅しようとしたとき、
ケータイが鳴りました。

「予防接種の予約をしたので、
 H君を病院に連れて行ってください。
 私は、これから会議。午後8時ね、よろしく」

病院で待つ時間に読めるものをと、
薄い文庫を手に取りました。それが、『プーシキン詩集』
原語の全集も持っていたのに、翻訳で読むのは、
淋しい気もしますが、仕方がありません。

パラパラ飛ばし読み。
「君よ、聞き給いしや」などという、
文語体の訳詩は好きではありません。
ときどき現代語に翻訳しながら、
読みました。

まだ覚えている詩もありました。

最後の「解説」を読んでいるとき、
不思議に心が熱くなりました。
露文に憧れた気持ちを思い出したからです。
エリツィンやプーチンの顔のおかげで、
忘れていた思いです。

《ソ連スチャーン地區ニ於イテ戦歿》した陸軍上等兵の墓碑2009/09/08

《ソ連スチャーン地區ニ於イテ戦歿》
 旧日本軍が侵攻し、戦場とした地域は、広大なものです。ハワイを含む太平洋上の島々、ベトナム、ビルマ、インドネシア、シンガポール、インド、中国、そしてソ連。
 その先々で、彼我の戦死者を築いてきたのです。
 この墓碑には、今では存在しない地名が刻まれています。
 ソ連は1991年に崩壊しましたし、「スチャーン(Сучан)」は、「パルチザンスク(Партизанск)」と名前を変えています。ちなみに、沿海州とよばれた地域にある小さな都市です。
 死亡年月日は、昭和21(1946)年1月10日」とあります。日本が、無条件降伏(1945年8月15日)したあとのことです。戦闘を継続されていたのか、それとも、俘虜となって抑留中のことだったのか、詳しいことは墓碑からは、わかりません。
 お気の毒なことです。
 しかし、過去のこととすますわけにはゆかなくなっています。
 ネットで「海外派兵」を検索すると、日本共産党中央委員会のサイトで、つぎのような記事(9/4付)が出てきました。途中からですが、引用します。
・・・防衛省が小池氏に提出した資料によると、テロ特措法と新テロ特措法に基づくインド洋への派兵(2001年11月~09年8月現在)では、民間技術者が25回、のべ77人、イラク特措法に基づく派兵(03年12月~08年12月)では、14回、のべ39人が海外に派遣されています。
 防衛省は「民間技術者が海外で作業を行ったと推測されるが、確認作業に相当の時間がかかるものなどは人数に含めていない」としており、今後増える可能性もあります。
 派遣の目的は、インド洋派兵では、米軍などへの補給活動を行っている海上自衛隊艦船の器材の修理・点検となっています。
 イラク派兵では、「車両搭載対策器材本体の据え付け・調整」「検査装置の定期巡回整備」など。「車両搭載対策器材」「検査装置」とは、イラク南部サマワに派兵された陸上自衛隊のテロ対策機器とされています。クウェートを拠点に武装米兵らを空輸した航空自衛隊C130輸送機のエンジン点検のためにも派遣されています。
 防衛省の説明では、派遣場所は海自艦船の寄港地やクウェートとされています。
 政府は、民間技術者の派遣について防衛省と企業との契約に基づいて行っているとしています。契約企業は業務命令によって事実上強制的に技術者を派遣することになります。
 民間技術者に犠牲が出た場合の補償についても政府は、企業側が行うという無責任な態度をとっています。

 この記事は、「民間人をも大変な危険にさらす、憲法違反の自衛隊海外派兵は直ちにやめるべきです」と結ばれています。
 まったくそのとおりだと思いました。
 国会では、民主、国民新党、社民の間で、連立協議が大詰めを迎えています。不一致点は、、安全保障と外交問題にあると報道されています。いまの日本の海外派兵の主な推進者は、アメリカ政府ですから、それに対して、どういう姿勢を示すかというのは、政権の性格を鮮明にする重大な問題です。
 私は前向きの変化を期待したいと思います。

1891.5.11テロ事件 :吉村昭『ニコライ遭難』2009/07/31

吉村昭『ニコライ遭難』(新潮文庫)
まとめ買いをした本のなかに、
吉村昭『ニコライ遭難』(新潮文庫)があった。
今晩、これを拾い読み。

私が生まれ育った地は、旧大津町。
現在の大津市の中核である。
そして、この小さな地域で、
1891年5月11年に、
訪日中のロシア皇太子へのテロが起こる。
いわゆる大津事件である。
犯人は、津田三蔵。
ニコライを警備する側の巡査であるだけに、
国家間の紛争と戦争に直結しかねない
重大事件であった。

吉村昭『ニコライ遭難』(1993)は、
この事件を小説として描いている。
そこで登場する地名は、すべてなじみ
のものである。

そういう気軽さで読み続けていると、
旧大津陸軍墓地のなかでも、
目だって大きな墓碑をもつ
ある人物の名前が意外にも登場した。
村治重厚・・・陸軍二等軍医正である。

その部分(新潮文庫で126ぺーじ)。
津田巡査を組み伏せた木村警部は、部下と手分けして、大津町の医師村治重厚と塚本安巳のもとに走り、治療をたのんだ。村治と塚本は、診療具を手にして永井宅前に駆けつけた。しかし、ロシア医官ランバフは、応急手当をすませたので、治療にはおよばないと拒否した。

他にも、この事件についての本を
読んだのだが、この名前に気がつかなかった。
載っていなかったのだろうか、
それとも、見落としたのだろううか。



墓碑によれば、村治重厚は、
大正5(1916)年12月21日に
72歳で亡くなっている。
大津事件のときは、40台半ばである。
軍医になった経過は不明だが、
この事件とその後の日露戦争が
大きな契機になったのだろうと思われる。
日露戦争では、個人的な不幸が訪れる。
重厚のニ男村治昭少尉が
戦死しているのだ(下の墓碑)。
明治37(1904)年8月31日のことである。



ロシアとの関係は、この人物の生涯に
忘れがたい影を落としているのだ。
その発端の事件が、
1891.5.11のテロではないだろうか。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)