お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
旧志賀町の日露戦争戦病死者は15名 ― 2011/08/09
2006年に大津市に吸収合併された旧志賀町は、現在、4つの学区があります。南から、小野、和邇、木戸、そして小松。「戦時事績」が編纂されたのは、日露戦争(1904~05年)の直後の明治40(1906)年あたりです。その当時の和迩村、木戸村、小松村が現在の学区の区分とづ重なるのか、私には、いまのところわかりません。
三つの「戦時事績」からわかったことは、旧志賀町の日露戦争戦病死者は、和迩村4名、木戸村5名、そして小松村7名、合計15名だということでした。
三つの「戦時事績」からわかったことは、旧志賀町の日露戦争戦病死者は、和迩村4名、木戸村5名、そして小松村7名、合計15名だということでした。
旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(作業途中)表が全く埋まらないわけではありません。いくつかの墓碑はこれまでも紹介しました。写真は、和迩の墓地の一角です。黒ずんでいるのが、日露戦争の戦病死者の墓碑です。「陸軍歩兵上等兵 橋詰興太郎」と刻まれています。
□和迩村 4名
○陸軍歩兵伍長 西村 松之助
○階級・氏名不詳
○階級・氏名不詳
○階級・氏名不詳
□木戸村 5名
○戦死者 階級氏名不詳
○戦死者 階級氏名不詳
○戦死者 階級氏名不詳
○戦死者 階級氏名不詳
○戦病死者 階級氏名不詳
□小松村 7名
○階級氏名不詳
○階級氏名不詳
○階級氏名不詳
○階級氏名不詳
○階級氏名不詳
○階級氏名不詳
○階級氏名不詳
コメント
_ やつしろ ― 2011年08月10日 04時40分40秒
_ BIN★→やつしろさん ― 2011年08月10日 18時36分26秒
小野は戦後ってことでしょうか。
鵜川は、どちらからも離れていますね。
鵜川は、どちらからも離れていますね。
_ やつしろ ― 2011年08月10日 23時28分32秒
小野小学校は、確か昭和55年開校です。
京阪電鉄がローズタウンとして、大々的に売り出しました。
一時は、児童数が随分多かったけれど、現在はその頃の保護者が高齢者になり、
子供たちはこの土地を離れ、ロージンタウンになっています。
京阪電鉄がローズタウンとして、大々的に売り出しました。
一時は、児童数が随分多かったけれど、現在はその頃の保護者が高齢者になり、
子供たちはこの土地を離れ、ロージンタウンになっています。
_ BIN★→やつしろさん ― 2011年08月10日 23時49分42秒
自虐的な名前ですね。
比叡平も二十年数年まえに(もっとかな)開発された団地でした。そこも、高齢者タウンになり、歯抜け状態となっていました。先日、住んでおられる方にきくと、保育園と小学校の児童が増えているそうです。二世がもどってきたとか。そういうこともあるんですね。生活が苦しくなって、家を別に確保するゆとりがなくなり、同居することになったのでしょうか。きいてみないとわかりませんが。
比叡平も二十年数年まえに(もっとかな)開発された団地でした。そこも、高齢者タウンになり、歯抜け状態となっていました。先日、住んでおられる方にきくと、保育園と小学校の児童が増えているそうです。二世がもどってきたとか。そういうこともあるんですね。生活が苦しくなって、家を別に確保するゆとりがなくなり、同居することになったのでしょうか。きいてみないとわかりませんが。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
和邇村・・・和邇小学校・・・・団地開発で、小野小学校が創立。
木戸村・・・木戸小学校。
小松村・・・小松小学校・・・鵜川分校は、鵜川が高島町と合併したので解消。