お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争 その9 ~兵卒の亡くなった月と人数について~2011/08/27

4月には桜が美しい旧大津陸軍墓地(手前がEブロック)
 旧大津陸軍墓地で、私が勝手に「Eブロック」と名付けている区画には、簡素な墓碑が207柱建っています。そのうち、一基だけが「士官候補生」のもので、日清戦争とはかかわりのない(・・・と今は思えるのですが、置かれている位置を考えればなにかあるのかも知れません)墓碑です。
 残り206柱は、日清戦争にかかわって亡くなった兵卒の墓碑です。
 206柱のうち、柱だけが明治29(1896)年に台湾で亡くなった兵卒の墓碑。残り204柱が、明治28年4月から12月にかけて亡くなった兵卒(上等兵、一等卒、二等卒および輜重輸卒)の墓碑でした。
 下関講和条約締結後でしたから、戦闘によって亡くなった兵卒ではありません。ですから、墓碑に刻まれた地名と「金州兵站監部編成表」(明治28年7月度)と第4師団第二野戦病院「戦役経歴書」を照らし合わせながら、亡くなった具体的な場所を割り出す作業をしました。『大津市志』の記述から、病院での死亡を確認しながら。
 204名のうち数名は、死亡場所の記述がありません。死亡年月日はどれも刻まれています。
 繰り返し精査しようと思いますが
○ 4月
 安曇村の日置卯市、高島村の奥村久米蔵をはじめとする64名
○ 5月
 大溝町の中村林蔵、饗庭村の内田検次郎など23名
○ 6月
 饗庭村の冨田楳吉ら11名
○ 7月
 25名
○ 8月
 24名
○ 9月
 西庄村の井花長太郎、安曇村の福井乙吉ら34名
○10月
 15名
○11月
  5名
○12月
 新儀村の大塚長次郎ら4名
 以上、合計204名になっています。

 金州半島に上陸した4月が、もっとも多くなっています。4月と5月の合計が87名ですから、4割以上が集中しています。

 上に高島郡の戦没者の名前だけを入れました。『高島郡誌』を見れば、日清戦争で亡くなった若者の名前がすべてわかります。若干の漏れがあるようですが。伊香郡など他の郡もわかりました。しかし、私のフィールドが大津市高島市であることから、この場所には載せませんでした。Eブロックのリストには入れていますので、見ていただけたらと思います。
 では大津市は?
 明治44年版の『大津市志』には、当時の大津市の戦没者の名簿がありますが、その後、合併をくり返したために、いまの大津市全体を網羅するものはありません。民間墓地をこつこつ回り、日清戦争期の戦没者の墓碑を探しながら、旧大津陸軍墓地の墓碑と照らし合わせて、いるところです。
 最近、大津市で一人の若者の墓碑を確認しました。旧大津陸軍墓地に墓碑がある大伴圓蔵のものでした。

夏空の記憶2011/08/27

8月26日の空
2011年の夏が過ぎようとしています。
お盆休みは初盆行事で使いましたから、
遊んだ記憶がない、そういう夏になりそうです。

人間の時の感覚は不思議なものです。
それは、モノに結びついている気がします。
アルトゥール・ルビンシュタインの弾くショパン。
作品7の1が鳴り出すと、
はじめて聴いた20歳の頃に同化しています。

絵でもそうかも知れません。
ルネ・マグリットの不思議な絵画は、
ブダペストSQが演奏する
ベートーヴェンのラズモフスキー一番と
心のなかで結びついています。
ほろ苦い記憶とともに。

人は、普通に意識する時間軸とは、
まったく異なる時間の流れを
体内にもっている気がします。
昨日の記憶よりも、十年前の記憶が すぐ隣に位置するように。

住宅街の狭い空間に
鮮やかな青空と真っ白の雲が見えます。
平凡な景色ですから、周りでじっと
見上げている人は私以外にいません。

ずっと、ずっと前に、こうしていた気がします。
そのときも、今も、思いました。
「このまま時が止まったらいいのに」

「陸軍歩兵二等卒 大伴圓蔵墓」@大津市2011/08/27

「陸軍歩兵二等卒大伴圓蔵墓」(中央)
 天童荒太の小説『悼む人』には、死者を「悼む」ために全国を放浪する人物が登場します。それを知った別の登場人物は、異様に思い、興味を惹かれます。「そんなことをして、一体何になるのか?」と。
 墓地を渡り歩き、戦死者の墓碑を探す私の姿も、似たところがあります。ただ、仕事の傍らに行うサイドワークですし、休日もままならないことから、関係者の方に取材する余裕がないのが残念です。ちなみに、daisukesさんの申し出にとても感謝しています。9月中にはぜひ連絡させていただきたいと思っています。
 高島市では、やつしろさんのおかげで、多数の墓碑、記念碑を見ることができました。墓地や墓碑についての知識も得ることができました。日清戦争の墓碑も、戦病死者のすべてについて探し出せる手前まできています。西南戦争の墓碑も3柱見つけることができました。
 (現)大津市では、そうはいっていません。
 日露戦争の墓碑はいくつか見つけましたが、日清戦争では、たった一柱に過ぎません。西南戦争の個人墓碑はまだ見つけることができません。存在するのかさえわかりません。
 仕事からの帰途に、記憶をたどって、たどりついた墓地で、日清戦争の墓碑を見つけました。
 それが「陸軍歩兵二等卒 大伴圓蔵 墓」です。右側面に「明治廿八年七月廿六日於清國盛京省海城歿」と刻まれています。
 さっそく旧大津陸軍墓地の名簿と照らし合わせました。ID番号48がそれでした。名前も、死亡場所も、死亡年月日も一致します。
 下の写真が、旧大津陸軍墓地にある大伴圓蔵の墓碑です。
 
陸軍歩兵二等卒大伴圓蔵墓@旧大津陸軍墓地

「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争 その10 ~「戦役経歴書 第九聯隊」~2011/08/27

 陸軍歩兵第九聯隊には、三つの大隊がありました。第一、第二および第三です。聯隊司令部は第三大隊と一緒に行動していたようです。
 日清戦争の「戦役経歴書 第九聯隊」の記述は、わずか二ページにすぎません。それでも、疑問を解くカギにはなります。私の疑問というのは、5月以降、死亡場所がバラバラに広がっていく(柳樹屯、豼子窩、折木城、大孤山、金州、営口、海城などなど)のは、なぜかということでした。
 わかったことは、下関条約の締結と批准をうけて、戦闘序列を解き、あらたな任務が第九聯隊に与えられることと関係するということです。第九聯隊は、遼東半島の守備に任務を与えられて、三つの大隊ごとに、ときには中隊レベルまで分けて、異なる場所に配置されるからです。
 それを「戦歴書」の記述から見てみます。
 これによると、衛戍地の大津を出発し、廣島に向かうのは、3月28日。これは同時だったと思われます。次に、船で遼東半島に向かうのですが、第一と第二大隊は4月11日に宇品港から乗船、第三大隊と聯隊司令部は13日になりました。つぎに大連湾に到着するのは、第一と第二が14日、第三が16日でした。柳樹屯への上陸は、第三大隊が先で22日、第一と第二が23日。
 聯隊は上陸後、「宿営予定地沙家屯附近ニ在ル西華屯附近ノ舎営地ニ到ル」ことになります。第三が24日、第一と第二が25日に到着しています。
 聯隊は、このように日はずれるものの、5月12日までは、一体となって行動していました。4月に死亡した将兵は、「大連湾検疫所」、「旅順口兵站病院」、「柳樹屯兵站病院」、「劉家屯避病室」、「沙家屯舎営病院」で死を迎えたと思われます。

 ここまでは、すでに書いたとおりです。

 分岐点は、5月12日です。
 同日、聯隊のうち第一大隊を残して、第二大隊第三大隊は「豼子窩ヨリ熊笹ニ通スル街道南崗子豼子窩間ニ集合スル為メ」に、舎営地を出発し、13日に「王家屯附近ノ舎営地」に到着。
 さらに、「海城方面守備」のために、27日に「王家屯附近ノ舎営地」を出発し、6月6日に海城に到着します。
 第二大隊は、このまま11月23日まで海城に残り、守備の任務につきました。
 第三大隊は「柝木城守備ト交代スル」ために、8月24日に海城を出発し、柝木城に到着。11月27日まで「柝木城附近及ヒ其以南王家堡子間守備及ヒ兵站事務ヲ兼務」するのです。
 5月12日に、第二・第三大隊と分かれた第一大隊は、どうなったのか。
 第一大隊は、「豼子窩ニ残留シ金州半島兵站監ノ指揮ヲ受」けました。さらに、5月29日に「大連湾大孤山間ノ守備ヲ命セラレ大隊ノ首部ハ翌30日ニ出発、柳樹屯ニ」到着しました。また、9月16日には、第一大隊第一中隊が「岫厳守備ノ命ヲ受ケ」柳樹屯出発。「海路ヨリ大孤山ヲ経岫巌ニ至ル」
 次に撤退の命令が下ります。
 第二大隊と聯隊司令部は11月23日に海城を出発し、12月7日に大連湾に到着します。
 第三大隊は、11月28日に柝木城を出発し、12月11日に柳樹屯に到着。
 第一大隊第一中隊は11月25日岫厳出発、12月11日に柳樹屯に到着。
 そして、柳樹屯から、12月10日から25日の間に、柳樹屯から乗船し、廣島の宇品港へ12月13日から28日の間に上陸。大津市の衛戍地に12月15日から30日の間に戻ることができました。

 ややこしいのですが、これをもとにして、死亡した将兵のたどった道を再現してみようと思います。

モーは大きいけど、気は優しい2011/08/27

モーは十分布団になるかも
今は病んでいるモーネコくん。家族のだれからも好かれる性格です。これは、2004年の写真です。

「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争 その11 ~柝木城~2011/08/27

伊香郡古保利・東柳野出身の中川力蔵の墓碑@旧大津陸軍墓地
 中川力蔵は、滋賀県伊香郡古保利の東柳野出身であることがわかっています。いま、「力蔵の消息を知りたい」という遺族の方がいらっしゃったら、いえることは、つぎのことです。
 陸軍歩兵第九聯隊に所属した一等卒・中川力蔵は、明治28(1895)年3月28日に大津の衛戍地を出征し、廣島に向かう。4月13日に宇品港から乗船。16日に大連湾に到着。22日に柳樹屯上陸。24日に沙家屯附近の舎営到着。5月12日にそこを出発し、13日に王家屯附近の舎営に到着。27日にふたたびそこを出発し、6月6日に海城到着。8月24日にそこを出発して柝木(たくぼく)城に到着しました。中川力蔵が所属した第三大隊は、そこを最終地点として、撤退を開始する11月27日まで守備にあたりました。
 しかし、中川力蔵は、柝木城に到着してから一週間後の9月1日に死亡しています。下の写真は、旧大津陸軍墓地の中川力蔵の墓碑に刻まれた死亡年月日と場所です。
中川力蔵の墓碑から
 力蔵とともに柝木城まで到達しながら、そこで亡くなった兵卒は、9名でした。
 9月 1日 柝木城 一等卒 中川 力蔵(伊香郡)(63)
 9月 8日 柝木城 一等卒 丸山 文吉(3)
 9月 8日 柝木城 一等卒 田辺 長造(179)
 9月16日 柝木城 一等卒 新畑 音吉(10)
 9月18日 柝木城 上等兵 横田 勝次郎(29)
10月11日 柝木城 一等卒 今井 久吉(187)
10月11日 柝木城 一等卒 山口 萬吉(207)
10月30日 柝木城 一等卒 西田 柳吉(88)
 輜重輸卒の本田政治郎(133)は、同じ折木城で亡くなっていますが、日付は6月20日です。どういう行動をしていたのかは、わかりません。さらに、柝木城にどういう医療機関があったのかも、わかりません。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)