お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
「遺族廃兵ノ保護優待」@剣熊村「戦時事績」 ― 2011/08/11
まもなく敗戦記念日~カタカナの地名の刻まれた墓碑に~ ― 2011/08/11
私は近代日本の起こしたどの戦争も体験していません。戦争に向き合った最初は、ベトナム戦争でした。離れた土地ではあるけれど、殺戮がおこなわれているそのときに、無関心ではいられませんでした。ケネディ米大統領の宣伝が少年雑誌にもやられて、アメリカ=正義というのは、浸透していました。その素顔を知る機会ともなりました。
ベトナムからの米軍のみじめな撤退の映像は、戦争に反対することは無力ではないという強い気持ちをもちました。
原爆の投下、大空襲など、被害者としての戦争の姿を描く映像作品は見ることができます。しかし、アジアの人たちとともに生きて行くには、加害者としての戦争を直視する必要があります。
戦死者の墓碑には、カタカナの地名が多数刻まれています。その文字が入り口となって、戦争の真実に迫りたいという思いがつのるのです。
ベトナムからの米軍のみじめな撤退の映像は、戦争に反対することは無力ではないという強い気持ちをもちました。
原爆の投下、大空襲など、被害者としての戦争の姿を描く映像作品は見ることができます。しかし、アジアの人たちとともに生きて行くには、加害者としての戦争を直視する必要があります。
戦死者の墓碑には、カタカナの地名が多数刻まれています。その文字が入り口となって、戦争の真実に迫りたいという思いがつのるのです。
「このままでは滅びます」 ― 2011/08/11
先日、若い男性がふたり、私の事務所に来られてました。話をしていて、強い印象が残った言葉がありました。
それはつぎのようなものでした。
それはつぎのようなものでした。
「反対派がまったくいない政界やマスコミの報道に、恐怖を感じます。いま反対派が100%必要です。このままでは日本は確実に滅びます」東日本大震災や原発事故と政治の在り方を見れば、私には決して誇大な言葉とは思えませんでした。
碑と記憶の再生 ― 2011/08/11
石碑がつくられる気持ちはわかります。「決してわすれないで」という思いからです。しかし、石碑はモノにすぎません。繰り返し、記憶を再生するプロセスがなければ、自然の風雪と時の流れは、それが何であったのかさえわからない、ただのモノに変えてゆきます。
原爆の悲惨さは、原爆ドームに象徴される遺物と原水禁大会など、記憶を再生し、今に生かすプロセスがあって、はじめて人間の記憶のなかにDNAとして継承されていくのです。
私が追い求めている戦死者の墓碑などは、遺族がいなくなれば、たちどころに、石くれにかわります。あとになって、再生しようとしても、できない場合がほとんどでしょう。私はそのことを残念に思っています。家族の記憶ではなく、社会の記憶として、繰り返し再生し、継承すべきだと、私は信じています。もちろん、戦争という過ちを繰り返さないためにです。
8月は、そういう意味で、私にとっては、思いを新たにする特別な月まなのです。まもなくお盆ですね。
原爆の悲惨さは、原爆ドームに象徴される遺物と原水禁大会など、記憶を再生し、今に生かすプロセスがあって、はじめて人間の記憶のなかにDNAとして継承されていくのです。
私が追い求めている戦死者の墓碑などは、遺族がいなくなれば、たちどころに、石くれにかわります。あとになって、再生しようとしても、できない場合がほとんどでしょう。私はそのことを残念に思っています。家族の記憶ではなく、社会の記憶として、繰り返し再生し、継承すべきだと、私は信じています。もちろん、戦争という過ちを繰り返さないためにです。
8月は、そういう意味で、私にとっては、思いを新たにする特別な月まなのです。まもなくお盆ですね。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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