お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
「陸軍歩兵曹長 本田新○墓」(明治34年7月27日没) ― 2010/11/11
「陸軍歩兵軍曹村田・・・」(明治33年7月16日没) ― 2010/11/11
「陸軍歩兵軍曹 土屋・・・之墓」(明治33年1月7日没) ― 2010/11/11
「陸軍歩兵卒軍曹 土屋和吉 之墓」(明治30年6月11日没) ― 2010/11/11
「陸軍歩兵軍曹西野國蔵之墓」(大正12年11月24日病死) ― 2010/11/10
「故陸軍軍曹勲七等木田弥三郎之墓」(大正12年8月20日没) ― 2010/11/10
「故陸軍歩兵曹長杉本正雄之墓」(大正8年10月25日没) ― 2010/11/10
ほぼ四角柱の下士官の墓碑@旧大津陸軍墓地Cブロック ― 2010/11/10
兵卒の墓地(下段西側と東側)の調査は、まだ終わっていませんが、下士官の墓地の一つで18柱ある中段東のCブロックに寄り道しようと思います。200を越える兵卒の墓碑の調査は、とりあえずお休み。階級と氏名(正面部分)は、読み取りましたから、一休みします。
上の写真が「中段の東側のCブロック」 曹長や軍曹など下士官の墓地ですね。
見ての通り、手前から奥に、三列に並んでいます。一番手前には3柱と石。写真ではわかりにくいですけれど、3つとも四角柱ですね。頂上の尖った部分の山が低くて、ほとんど平らです。この3つの墓碑から見てみましょう。
まずは手前の墓碑(杉本正雄之墓)から。
下の写真は、逆方向(西野國蔵之墓)から見たもの。
上の写真が「中段の東側のCブロック」 曹長や軍曹など下士官の墓地ですね。
見ての通り、手前から奥に、三列に並んでいます。一番手前には3柱と石。写真ではわかりにくいですけれど、3つとも四角柱ですね。頂上の尖った部分の山が低くて、ほとんど平らです。この3つの墓碑から見てみましょう。
まずは手前の墓碑(杉本正雄之墓)から。
下の写真は、逆方向(西野國蔵之墓)から見たもの。
「教導団」と読める ― 2007/11/12
陸軍二等軍医正 勲四等 従六位 村治重厚之墓@旧大津陸軍墓地 ― 2007/11/12
旧大津陸軍墓地の上段。Aブロック。そこは将校の墓地。
ほぼ中央に、村治重厚軍医の墓碑があります。
おなじ陸軍墓地の下段(以前は中段)の下士官の墓地。そこには、この軍医の名前が刻まれている陸軍歩兵伍長大関義之の墓があるのです。
・・・そういうことは、よくあることなのでしょうか?
この墓碑の裏面には、没年が記されています。
「大正五年十二月二日享年七十有二」
1915(大正5)年に72歳ですから、生まれは1843年・・・。明治11(1978)年では34か35歳。そのときにすでに、「二等軍医正」ですから、膳所藩の御典医の家系の方かも知れませんね。
帝国陸軍階級表を見れば、「陸軍二等軍医正」は、陸軍歩兵中佐に相当する階級です。
ほぼ中央に、村治重厚軍医の墓碑があります。
おなじ陸軍墓地の下段(以前は中段)の下士官の墓地。そこには、この軍医の名前が刻まれている陸軍歩兵伍長大関義之の墓があるのです。
・・・そういうことは、よくあることなのでしょうか?
この墓碑の裏面には、没年が記されています。
「大正五年十二月二日享年七十有二」
1915(大正5)年に72歳ですから、生まれは1843年・・・。明治11(1978)年では34か35歳。そのときにすでに、「二等軍医正」ですから、膳所藩の御典医の家系の方かも知れませんね。
帝国陸軍階級表を見れば、「陸軍二等軍医正」は、陸軍歩兵中佐に相当する階級です。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
最近のコメント