お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
折られてはいなかった「石山忠魂碑」 ― 2010/11/21
「散る櫻」~金属板に刻まれた「祭魂者」@百瀬村忠魂碑~ ― 2010/11/21
忠魂碑をめぐる”旅”をしてきました。忠魂碑そのものへの関心とともも、それに付属する様々な歴史的事情も見えてきました。
今回注目したのは、戦後付け加えられた変化のひとつ、戦没者の名前を刻んだ版(金属版も石版もある)でした。
上の写真は、百瀬村の忠魂碑ですが、その正面の土台の一部を削り、「祭魂者芳名」という金属板が埋め込まれていました。戦争ごとの戦没者の名前が連ねられています。数えると、「西南之役」が1名、「日清戦争」が3名、「日露戦争」が4名、「上海事変」が2名、「日支事変」が11名、「太平洋戦争」が107名でした。
金属板の最後はつぎのように締めくくられていました。
この金属板は、はめ込まれてからすでに50年以上が経っています。残るさくらと自らを呼んだ方々も、数少なくなっておられることでしょう。
金属板の最初の3つの戦争では、つぎの名前が刻まれていました。
今回注目したのは、戦後付け加えられた変化のひとつ、戦没者の名前を刻んだ版(金属版も石版もある)でした。
上の写真は、百瀬村の忠魂碑ですが、その正面の土台の一部を削り、「祭魂者芳名」という金属板が埋め込まれていました。戦争ごとの戦没者の名前が連ねられています。数えると、「西南之役」が1名、「日清戦争」が3名、「日露戦争」が4名、「上海事変」が2名、「日支事変」が11名、「太平洋戦争」が107名でした。
金属板の最後はつぎのように締めくくられていました。
散るさくら残るさくらも散る櫻
昭和二十七年十月
百瀬村復員者一同
この金属板は、はめ込まれてからすでに50年以上が経っています。残るさくらと自らを呼んだ方々も、数少なくなっておられることでしょう。
金属板の最初の3つの戦争では、つぎの名前が刻まれていました。
西南之役『高島郡誌』によれば、百瀬村の西南之役の戦病死者は15名。中川寅吉の名前はその中にあります。日清戦争での戦病死者はなく、日露戦争では3名(上記の鳥居宗七、伊吹米蔵、黒川辰三郎)の名前が記録されています。名簿にないのは、栗本藤三郎です。
中川 寅吉
日清戦争
伊吹 甚次郎
福井 彌吉
栗本 与茂助
日露戦争
鳥居 宗七
伊吹 米蔵
黒川 辰三郎
栗本 藤三郎
「殉国英霊芳名誌」@海津村忠魂碑 ― 2010/11/21
忠魂碑にはもともと付随していなくて、戦後付け加えられた戦没者の名簿記録があります。新旭町では、忠魂碑そのものはなくなり「慰霊之碑」となり、名簿記録は「平和の礎」という名前でつくられいます。百瀬村では、忠魂碑の一部を削り「祭魂者芳名」という名称で戦没者を刻む金属板が取り付けられていました。
海津村の忠魂碑では、「殉国英霊芳名誌」という石碑が造られていました。これは「田中由造」の砲弾型墓碑にかかわって、も紹介したことがありました。
建造は「平成2年8月」。1989年です。遺族会と軍人恩給連盟。碑の名称が、このようなものになった理由が納得できます。
百瀬村は1952年であり、サンフランシスコ講和の直後。海津村は靖国参拝が公然と行われるようになった時代のものです。それぞれの時代を映す鏡のような碑の名称です。 それはともかく、「殉国英霊芳名誌」には、亡くなった戦争の名所がありあません。
ともかく、西南戦争の戦病死者・南部由松、日露戦争の中村治平、小谷彌吉、土肥定吉の名前がしっかりあるということだけです。
海津村の忠魂碑では、「殉国英霊芳名誌」という石碑が造られていました。これは「田中由造」の砲弾型墓碑にかかわって、も紹介したことがありました。
建造は「平成2年8月」。1989年です。遺族会と軍人恩給連盟。碑の名称が、このようなものになった理由が納得できます。
百瀬村は1952年であり、サンフランシスコ講和の直後。海津村は靖国参拝が公然と行われるようになった時代のものです。それぞれの時代を映す鏡のような碑の名称です。 それはともかく、「殉国英霊芳名誌」には、亡くなった戦争の名所がありあません。
ともかく、西南戦争の戦病死者・南部由松、日露戦争の中村治平、小谷彌吉、土肥定吉の名前がしっかりあるということだけです。
「祭祀者芳名」@西庄村忠魂碑 ― 2010/11/21
西庄村の忠魂碑は、小学校の校庭にある。
ただし、戦前のものと同じではない。
「忠魂碑」という名称そのままに、昭和28(1953)8月16日に再建された。書は、衆院議長の堤康次郎。
忠魂碑の土台の正面に、金属板で「祭祀者芳名」がおかれている。平成2(1889)年の海津村「殉国英霊芳名誌」と違い、戦争の順番に名前が刻まれている。これは、百瀬村の「祭魂者芳名」と同様である。
名簿は、日清戦争から始まる。日露戦争の戦没者と合わせて転記する
これはどういうことだろうか。
ただし、戦前のものと同じではない。
「忠魂碑」という名称そのままに、昭和28(1953)8月16日に再建された。書は、衆院議長の堤康次郎。
忠魂碑の土台の正面に、金属板で「祭祀者芳名」がおかれている。平成2(1889)年の海津村「殉国英霊芳名誌」と違い、戦争の順番に名前が刻まれている。これは、百瀬村の「祭魂者芳名」と同様である。
名簿は、日清戦争から始まる。日露戦争の戦没者と合わせて転記する
日清戦争『高島郡誌』とは、日清戦争では一致。日露戦争では、木下和吉の1名多くなっている。
井花 長太郎
日露戦争
久保井 友吉
黒川 幸次郎
藤田 吉之助
青谷 重太郎
青谷 富蔵
田中 仙吉
木下 龍之介
木下 和吉
橋本甚右衛門
これはどういうことだろうか。
剣熊村の忠魂碑には戦没者の名簿碑がない ― 2010/11/21
三谷村「慰霊碑」には背面に戦没者名簿(石版)が置かれている ― 2010/11/21
三谷村には「忠魂碑」は建てられなかった。そして、戦後になり、明治100年を記念して、1968年に、「慰霊碑」が建てられた。
しかし、それは、とても見つけにくい場所に置かれている。上の写真のど真ん中である。クリックして拡大していただければ確認していただけるだろう。
なぜ、こんな不便な場所に置いたのだろうか。
西庄村の忠魂碑は、地域の中心としての役割ももつ小学校の校庭に置かれていた。剣熊村では、村役場を見下ろす高台に置かれていた。安曇町の田中山忠魂碑も、町を見下ろしていた。
近いといえば、安曇町や剣熊村のタイプだが、いまとなっては、秘められた場所に置かれているとしか思えない。
その慰霊碑には、戦没者の名簿を刻んだ(と思われる)石版がおかれている。題字もなにもないので、おそらくそうであろう。しかし、それは正面ではなく、背面(写真では左手)に置かれてる。 戦争の区別もなく、ただ氏名だけが並べられている。石版を見る限り、三谷村出身の日露戦争の戦没者が1名欠けているようの思える。
『高島郡誌』では、3名該当者がいる。浅井順誠と中山四良平の名前は見えたが、松田 豊治は、石版にはないのではないだろうか。
しかし、それは、とても見つけにくい場所に置かれている。上の写真のど真ん中である。クリックして拡大していただければ確認していただけるだろう。
なぜ、こんな不便な場所に置いたのだろうか。
西庄村の忠魂碑は、地域の中心としての役割ももつ小学校の校庭に置かれていた。剣熊村では、村役場を見下ろす高台に置かれていた。安曇町の田中山忠魂碑も、町を見下ろしていた。
近いといえば、安曇町や剣熊村のタイプだが、いまとなっては、秘められた場所に置かれているとしか思えない。
その慰霊碑には、戦没者の名簿を刻んだ(と思われる)石版がおかれている。題字もなにもないので、おそらくそうであろう。しかし、それは正面ではなく、背面(写真では左手)に置かれてる。 戦争の区別もなく、ただ氏名だけが並べられている。石版を見る限り、三谷村出身の日露戦争の戦没者が1名欠けているようの思える。
『高島郡誌』では、3名該当者がいる。浅井順誠と中山四良平の名前は見えたが、松田 豊治は、石版にはないのではないだろうか。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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