お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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合祀者名簿の碑@広瀬神社2010/11/10

合祀者名簿の碑@広瀬神社
広瀬神社の境内にある「合祀者名簿」の碑。
戦後の神社は広瀬武夫だけではなく、
この地の戦没者を合祀する神社にかわっています。

亡くなるのは一人ひとりの命~広瀬神社の合祀者の写真から~2010/11/10

亡くなるのは一人ひとりの命~広瀬神社の合祀者の写真から~
ふつう碑には、一人ひとりの戦没者の顔がありません。
私はそれを残念に思っていました。

2009年12月に訪れた広瀬神社
そこでは、1955年に合祀された人たちの
顔を見ることができました・・・そして名前も。

戦争とは一人ひとりの命が奪われることだ
ということを、胸に感じることができましたす。

私は、神社に飾られた顔を見ながら、
しばらくそこを動けませんでした。
中央に広瀬武夫の写真があります。

ほぼ四角柱の下士官の墓碑@旧大津陸軍墓地Cブロック2010/11/10

四角柱の下士官の墓碑@旧大津陸軍墓地Cブロック
 兵卒の墓地(下段西側と東側)の調査は、まだ終わっていませんが、下士官の墓地の一つで18柱ある中段東のCブロックに寄り道しようと思います。200を越える兵卒の墓碑の調査は、とりあえずお休み。階級と氏名(正面部分)は、読み取りましたから、一休みします。
 上の写真が「中段の東側のCブロック」  曹長や軍曹など下士官の墓地ですね。
 見ての通り、手前から奥に、三列に並んでいます。一番手前には3柱と石。写真ではわかりにくいですけれど、3つとも四角柱ですね。頂上の尖った部分の山が低くて、ほとんど平らです。この3つの墓碑から見てみましょう。
まずは手前の墓碑(杉本正雄之墓)から。

下の写真は、逆方向(西野國蔵之墓)から見たもの。

「故陸軍歩兵曹長杉本正雄之墓」(大正8年10月25日没)2010/11/10

「故陸軍歩兵曹長杉本正雄之墓」
二段の台石の上に、四角錐の墓碑。
正面は、「故陸軍歩兵曹長杉本正雄之墓」
と刻まれています。
あとは、上のように左側面に
死亡年月日が刻まれているだけで
背面にも右側面にも、碑文はありません。
あまりにあっさりしすぎて、
想像力が働らかず、人物像を描くことはできません。

明治10年代の墓碑は、もっと記事が刻まれていました。
たとえば、下の写真(橋本可通之墓)のようにです。
いつごろから、あっさりしてしまったのでしょうか。

「故陸軍軍曹勲七等木田弥三郎之墓」(大正12年8月20日没)2010/11/10

「故陸軍軍曹勲七等木田弥三郎之墓」(大正12年8月20日没)
先ほどの全体の写真でいくと、手前から2柱目。
正面の碑文のなかに、「勲七等」が刻まれています。
左側面には、死亡年月日。
大正12年は、西暦1923年にあたります。

この墓碑もあっさりしています。
さしあたり、言うべき事が見つかりません。

「陸軍歩兵軍曹西野國蔵之墓」(大正12年11月24日病死)2010/11/10

「陸軍歩兵軍曹西野國蔵之墓」(大正12年11月24日病死)
墓碑の石の質が違います。白っぽい石です。
字も読み取りやすく、摩滅が少ないです。
この墓碑も、左側面に死亡年月日。
そこに「病死」と明確に刻まれています。

黒船と江戸幕府の外交2010/11/10

 岩波新書の『シリーズ日本近現代史』(全10巻)は、これまで抱いてきた江戸末期から現代にいたる過程のイメージそのものを変える内容でした。
 最終巻『日本の近現代史をどう見るか』は、いわば総括にあたります。
 このシリーズを第一巻から読んで、快い衝撃を受けたのは、江戸末期の外交が愚行ばかりではなく、むしろ、砲艦外交をおこなった米国などに的確に対処しながら、国益をまもったという発見でした。  たしかに、明治政府の側からすれば、江戸幕府の行動をあしざまにいう偏向はありえるし、それは米国側からしてもそうです。それを、資料をていねいに見ながら、偏見をただしていく研究は、すぐれたものだと思いました。
 とき、あたかも黒船来航・・・いえTPPでしたね。
 マスコミを見ていると、なにがなんでも、開港だ、時流に乗り遅れるなという論調が多くなっています。しかし、求められるのは、冷静に国の将来を見据えた議論ができるような材料を提供することです。あとは、庶民を信頼し、その判断にゆだねるということなのです。

いまのチー(♂ネコ)を撮る2010/11/10

昨晩のチー
チーは、11ヶ月になろうとしています。
人間ではいくつなんでしょうか。
オートフォーカス用のライトがカメラにあります。
その光がまぶしくて、顔を伏せたり、
目を細めるのでかわいくありません。

なんとかまんまるの目を撮りたいのですが、
うまくいきません。
ファインダーを見ずに撮ったら、
耳が切れてしまうし・・・。

3月のチー♂ネコ2010/11/10

3月のチー♂ネコ
小さいときは、チーはカメラをまったく気にしませんでした。毛並みが汚れ、目もまともに開かないみずぼらしい子ネコでしたけど、私たちとよく遊んでくれました。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)