お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
明治5年の兵卒の墓碑の碑文~「清水男外吉之墓」の背面~に原型がある ― 2010/11/02
農民が圧倒的多数の平民から徴兵して、明治陸軍を築く構想を建てたのは、大村益次郎でした。そういう意味では建軍の父なのでしょう。現実にそれを実行したのは、山県有朋でした。
徴兵は明治6年以降。それまでは、各藩の藩兵をあつめて、ありあわせの軍で間に合わせるしかありませんでした。それらは、主に士族であり、「壮兵」と呼ばれました。
それらの拠点として、鎮台が生まれ、そのもとで、彦根に営所がつくられました。そこに駐屯したのは、十八番大隊。農民騒擾の鎮圧に出動していました。その兵卒の墓碑が上の写真です。
りっぱな墓碑であり、碑文はいまなおしっかり読めます。
十八番大隊の墓碑は5基ありました。当初は彦根にありましたが、維持できなくなり、明治40年代に旧大津陸軍墓地に移設されました。
その旧大津陸軍墓地ですが、ここを営所とした歩兵第九聯隊のための墓地でした。練兵過程で亡くなる兵卒はでてきます。そのための埋葬地を必要としたからです。それは、全国の営所で共通の動きであり、その最初で最大のものが旧真田山陸軍墓地です。 この墓地に残る最初の頃の墓碑には、明治8年という日付が刻まれています(上の写真をクリックして拡大すれば読み取れます)。それは、この地に営所が建設された同じ年のことです。訓練をはじめるやいなや、たちまち病死をする若者が生まれたのです。衛生状態とか、訓練の激しさが関係していると思われます。
さて、そうして大津営所で亡くなった兵卒のための墓地が、明治11年までは中断のFブロック、それ以降は下段(東と西)です。
明治5年の十八番大隊の墓碑と歩兵第九聯隊の墓碑を比較するのは、興味深いことです。ただ、日清戦争以後の墓碑のように碑文がなければ、比較することができません。碑文がある日清戦争以前の墓碑との違いを見てみたいと思います。
徴兵は明治6年以降。それまでは、各藩の藩兵をあつめて、ありあわせの軍で間に合わせるしかありませんでした。それらは、主に士族であり、「壮兵」と呼ばれました。
それらの拠点として、鎮台が生まれ、そのもとで、彦根に営所がつくられました。そこに駐屯したのは、十八番大隊。農民騒擾の鎮圧に出動していました。その兵卒の墓碑が上の写真です。
りっぱな墓碑であり、碑文はいまなおしっかり読めます。
男外吉石川縣貫属卒加賀石川郡金沢大工町清水彦三男嘉永庚戌二月廿五日生明治壬申三月應徴為歩兵十八番大隊兵卒同年四月廿七日病没於大阪鎮台第一分営彦根屯所時年二十三「貫属」という言葉は、戸籍のある土地という意味です。本籍、家族関係(○○の男)、生年月日、入営日と入営先、死亡年月日、死亡場所、死亡年齢の順番で記述されています。旧大津陸軍墓地の墓碑を見ても、以後、これと同じ記述形式となっていきます。
十八番大隊の墓碑は5基ありました。当初は彦根にありましたが、維持できなくなり、明治40年代に旧大津陸軍墓地に移設されました。
その旧大津陸軍墓地ですが、ここを営所とした歩兵第九聯隊のための墓地でした。練兵過程で亡くなる兵卒はでてきます。そのための埋葬地を必要としたからです。それは、全国の営所で共通の動きであり、その最初で最大のものが旧真田山陸軍墓地です。 この墓地に残る最初の頃の墓碑には、明治8年という日付が刻まれています(上の写真をクリックして拡大すれば読み取れます)。それは、この地に営所が建設された同じ年のことです。訓練をはじめるやいなや、たちまち病死をする若者が生まれたのです。衛生状態とか、訓練の激しさが関係していると思われます。
さて、そうして大津営所で亡くなった兵卒のための墓地が、明治11年までは中断のFブロック、それ以降は下段(東と西)です。
明治5年の十八番大隊の墓碑と歩兵第九聯隊の墓碑を比較するのは、興味深いことです。ただ、日清戦争以後の墓碑のように碑文がなければ、比較することができません。碑文がある日清戦争以前の墓碑との違いを見てみたいと思います。
三つの大国に挟まれた小国で ― 2010/11/02
アメリカとの間には、普天間基地問題があり、中国との間には尖閣諸島、そしてロシアとは「北方領土」問題。
「極東」の小国には、外交の力が試されています。
しかし、現実には『日本外交には戦略もなければ、信念もない』と指摘されている有様です。実際、戦前は「統帥権」により身動きがとれず、戦後はワシントンに従って行動する---これでは、外交の理念も戦略も育たないのは当たり前です。
しかし、現実にそこに住んでいる一人としては、笑いごとではすまされません。国連での動きをみると、外交力とは軍事力や経済力とは違うものであることがわかります。弱腰外交への批判がストレートに軍事力強化に結びつく流れは、過去のものにしなければならないと思います。
「極東」の小国には、外交の力が試されています。
しかし、現実には『日本外交には戦略もなければ、信念もない』と指摘されている有様です。実際、戦前は「統帥権」により身動きがとれず、戦後はワシントンに従って行動する---これでは、外交の理念も戦略も育たないのは当たり前です。
しかし、現実にそこに住んでいる一人としては、笑いごとではすまされません。国連での動きをみると、外交力とは軍事力や経済力とは違うものであることがわかります。弱腰外交への批判がストレートに軍事力強化に結びつく流れは、過去のものにしなければならないと思います。
保谷徹『幕末日本と対外戦争の危機 下関戦争の舞台裏』(吉川弘文館) ― 2010/11/02
2010年の初めに出版された保谷徹氏の『幕末日本と対外戦争の危機』は、サブタイトルどおり、下関戦争を相手国のイギリスなどの資料を駆使して描いたものです。
私が興味をひかれたのは、相手の側から見る視点の大切さです。歴史は、過去を扱います。”いまだから、わかる”ということもあります。しかし、こういう視点を今に生かすことはできるはずです。
いずれにしても、オールコックの砲艦外交が限定戦争に終わり、全面戦争にいたらなかったことは幸いだったのです。
その後の話なのですが、中国とはちがい日本は植民地化はまぬがれました。しかし、弱者の立場から学ぶことなく、侵略者へと成り上がる過程が始まります。突然で申し訳ないのですが、ロシアという国の歴史を見ても、同様の過程があったと思います。13世紀の「タタールのくびき」から脱却するために、中央集権国家が15世紀jに成立し、くびきを脱する。しかし、成立しつつあった大国のシステムのなかには入ることのできない辺境の国。海への出口を求めて、外交を駆使するが、隣に強力なポーランド国家。北には、騎士団とスエーデン。南部にはトルコ。18世紀に西欧化をしながら、一世紀かかって強国にのし上がる。その一方で、再販農奴制の上にそびえたつツァーリズムが確立。抑圧国家となる。
対外的圧力から解放された国家が、他の国への進出を自制するのは、よほど難しいことなのでしょう。
私が興味をひかれたのは、相手の側から見る視点の大切さです。歴史は、過去を扱います。”いまだから、わかる”ということもあります。しかし、こういう視点を今に生かすことはできるはずです。
いずれにしても、オールコックの砲艦外交が限定戦争に終わり、全面戦争にいたらなかったことは幸いだったのです。
その後の話なのですが、中国とはちがい日本は植民地化はまぬがれました。しかし、弱者の立場から学ぶことなく、侵略者へと成り上がる過程が始まります。突然で申し訳ないのですが、ロシアという国の歴史を見ても、同様の過程があったと思います。13世紀の「タタールのくびき」から脱却するために、中央集権国家が15世紀jに成立し、くびきを脱する。しかし、成立しつつあった大国のシステムのなかには入ることのできない辺境の国。海への出口を求めて、外交を駆使するが、隣に強力なポーランド国家。北には、騎士団とスエーデン。南部にはトルコ。18世紀に西欧化をしながら、一世紀かかって強国にのし上がる。その一方で、再販農奴制の上にそびえたつツァーリズムが確立。抑圧国家となる。
対外的圧力から解放された国家が、他の国への進出を自制するのは、よほど難しいことなのでしょう。
サッカーボールを追いかけるチー(3月) ― 2010/11/02
サムソン・フランソワのショパン作品集(BOX10枚組) ― 2010/11/02
CDを車に積んで走ります。とっかえひっかえしていると、ちがったケースに入れてしまい、後で探すのに大騒動。BOXはその点ましです。数字がちがっても、同じ箱の中ですから。
サムソン・フランソワのショパンを昨日まで積んでいました。友人のKさんに乗せてもらったときにかかっていたのがショパン。演奏は、フジコ・ヘミング。論理的なつながりはありませんが、それでショパンでフランソワを載せて走っていました。
音源は確かに古いです。音が丸くなっていますから。最初に聞いたピアノ協奏曲第一番で、わたし的にはブレークしました。ピアノ・ソロは普通にはじまるんだろうと無防備に聴いたのが間違いの元。遅い!!怪しい!油断禁物で・・・気に入ったのです。
Youtubeで演奏する姿が見たくなりました。見つけたのが、バラードの4番。
サムソン・フランソワのショパンを昨日まで積んでいました。友人のKさんに乗せてもらったときにかかっていたのがショパン。演奏は、フジコ・ヘミング。論理的なつながりはありませんが、それでショパンでフランソワを載せて走っていました。
音源は確かに古いです。音が丸くなっていますから。最初に聞いたピアノ協奏曲第一番で、わたし的にはブレークしました。ピアノ・ソロは普通にはじまるんだろうと無防備に聴いたのが間違いの元。遅い!!怪しい!油断禁物で・・・気に入ったのです。
Youtubeで演奏する姿が見たくなりました。見つけたのが、バラードの4番。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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