お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
阿蘇の馬 ― 2011/08/23
日本の水田は美しい ― 2011/07/31
「くじゅう高原フラワーズヴァレー」にて ― 2011/07/30
ワンコも家族も慣れる時間があってよかった ― 2010/08/29
8月の中頃にはじめて面会し、20日過ぎに引き取りました。
ワンコの話です。
そこから約10日間を、
竹田市の義母の家でワンコは過ごしました。
息子たち2人が家事の手伝い方々、
そこにいました。
夏休みが幸いしたのです。
カミさんと私は、後から追いかけて、8月末日に
ワンコをフェリーで大津市まで連れて戻る計画。
約10日間の間、息子たちは
かわいがりながらも、苦労した様子。
ウンチの世話。夜啼き・・・。
そして、いろいろわかったこともあり、
慣らし期間として、よかったと思いました。
人間と比べるとこんなに小さいのに、
信じられないほどの鳴き声!
ゥワオン~、キャゥオン~。
私はのんびり構えていたのですが、
カミさんは、しっかりお勉強して指示をだします。
う~ん、ネコと違って、ワンコは窮屈ですね。
上下関係を教えないと大変だそうですから、
仕方がないのかも知れません。
お腹の上にのせて遊びたいのに
人間を下にみるからダメ。
甘噛みもクセになるからダメ。
・・・なるほど。
ワンコの話です。
そこから約10日間を、
竹田市の義母の家でワンコは過ごしました。
息子たち2人が家事の手伝い方々、
そこにいました。
夏休みが幸いしたのです。
カミさんと私は、後から追いかけて、8月末日に
ワンコをフェリーで大津市まで連れて戻る計画。
約10日間の間、息子たちは
かわいがりながらも、苦労した様子。
ウンチの世話。夜啼き・・・。
そして、いろいろわかったこともあり、
慣らし期間として、よかったと思いました。
人間と比べるとこんなに小さいのに、
信じられないほどの鳴き声!
ゥワオン~、キャゥオン~。
私はのんびり構えていたのですが、
カミさんは、しっかりお勉強して指示をだします。
う~ん、ネコと違って、ワンコは窮屈ですね。
上下関係を教えないと大変だそうですから、
仕方がないのかも知れません。
お腹の上にのせて遊びたいのに
人間を下にみるからダメ。
甘噛みもクセになるからダメ。
・・・なるほど。
東京を救ったかも知れないカエルくん ― 2010/06/26
義父の容態が悪化したため、仕事を投げ出して
駆けつけることにしました。
K君を伴って、新幹線、日向線を乗り継ぎ、
京都から数時間かけて大分に到着しました。
病院で付き添っているカミさんと話を交わしました。
決して改善されることのない病状でしたが、
その日はまだ無事でした。
カミさんは病院で、私はビジネスホテルに泊まります。
夜、大分駅付近で、カミさんと二人で食事をしました。
商店街をぶらぶらしたとき目についたのが
このカエルくん。
私は、村上春樹の短編小説「かえるくん、東京を救う」を
思い浮かべました。
短編集『神の子どもたちはみな踊る』のなかの一編です。
そこに出てくる巨大なかえるくんは、
誰にも認められることのないヒーロー。
そして、認められることを求めないヒーロー。
東京を救ったあと、みみずくんに破れて
無惨な姿になって消えていきます。
たたかいも死も、主人公しか知らないことでした。
そのかえるくんは、もしかしたら、
こんな姿なのかも知れないなぁなどと思いました。
私は、このメタボのかえるくんに触れながら、
義父の命を救くうことをたくしました。
近くにいるんだから、よろしくって。
駆けつけることにしました。
K君を伴って、新幹線、日向線を乗り継ぎ、
京都から数時間かけて大分に到着しました。
病院で付き添っているカミさんと話を交わしました。
決して改善されることのない病状でしたが、
その日はまだ無事でした。
カミさんは病院で、私はビジネスホテルに泊まります。
夜、大分駅付近で、カミさんと二人で食事をしました。
商店街をぶらぶらしたとき目についたのが
このカエルくん。
私は、村上春樹の短編小説「かえるくん、東京を救う」を
思い浮かべました。
短編集『神の子どもたちはみな踊る』のなかの一編です。
そこに出てくる巨大なかえるくんは、
誰にも認められることのないヒーロー。
そして、認められることを求めないヒーロー。
東京を救ったあと、みみずくんに破れて
無惨な姿になって消えていきます。
たたかいも死も、主人公しか知らないことでした。
そのかえるくんは、もしかしたら、
こんな姿なのかも知れないなぁなどと思いました。
私は、このメタボのかえるくんに触れながら、
義父の命を救くうことをたくしました。
近くにいるんだから、よろしくって。
氷柱 ― 2010/01/01
いいところだと思いました、清川村@大分県 ― 2008/09/03
清川村はまだ存在しているんだと
「道の駅」のパネルを見て思いました。
クリックして、読んでみてください。
時間が許せば、すぐに樹、橋を
見にいきたかったのですけれど。
村に誇りを感じる内容ですね。
いいなぁ・・・。
でも実際には、大分県には清川村はなくなりました。
あの「平成の大合併」により、
三重町・緒方町・朝地町・大野町・千歳村・犬飼町と
合併して豊後大野市清川町に。
「一村一品」運動は、平松知事が発案者でしたね。
モモのジュースをこの「道の駅」ではいただきました。
わが郷里・滋賀県でもこの合併で、
50あった市町村が
13市5郡13町となりました。
合併の残した傷跡は、私が最近
よくかかわっている高島市でも顕著です。
いつかそのことを書いてみたい・・・。
「道の駅」のパネルを見て思いました。
クリックして、読んでみてください。
時間が許せば、すぐに樹、橋を
見にいきたかったのですけれど。
村に誇りを感じる内容ですね。
いいなぁ・・・。
でも実際には、大分県には清川村はなくなりました。
あの「平成の大合併」により、
三重町・緒方町・朝地町・大野町・千歳村・犬飼町と
合併して豊後大野市清川町に。
「一村一品」運動は、平松知事が発案者でしたね。
モモのジュースをこの「道の駅」ではいただきました。
わが郷里・滋賀県でもこの合併で、
50あった市町村が
13市5郡13町となりました。
合併の残した傷跡は、私が最近
よくかかわっている高島市でも顕著です。
いつかそのことを書いてみたい・・・。
「七本柿木台場薩軍墓地」の見学記 その3 墓碑と記念碑 ― 2008/08/29
「七本柿木台場薩軍墓地」の見学記 その2 ― 2008/08/29
道路わきの案内板を見つけて、左折して、薩軍墓地の駐車場に入ります。
10数台が収容できる駐車場は、アスファルト舗装。そこに面して、石の階段があり、そこが墓地の入り口となっていました。
「七本柿木台場薩軍墓地」に到着しての第一印象は、農地のなかにさりげなく置かれている素朴な墓地ということでした。もちろん、墓地にけばけばしさは似合いません。わかりやすくいえば、観光地としてわざとらしい扱いがないということでしょうか。それでも、駐車場などが整備されて、史跡としての扱いになっています。
先の日記には、おそらく墓地創設のころのものと思われる「薩軍墓地」という石碑の写真を載せました。こちらのほうが、きれいな木の案内よりも私にとっては貴重なものです。私は、できるだけ当初の姿に触れたいと思っていましたから。
「西南役薩軍戦没者墓碑」と金文字が彫られた記念碑があります。
これは死者を悼んで建立されたのでしょうけれど、薩軍墓地の当初の形態に触れたい私には、複雑な気分なのです。史跡としての薩軍墓地、死者を追悼する施設としての薩軍墓地ともに、大切にすべきだとは思います。
10数台が収容できる駐車場は、アスファルト舗装。そこに面して、石の階段があり、そこが墓地の入り口となっていました。
「七本柿木台場薩軍墓地」に到着しての第一印象は、農地のなかにさりげなく置かれている素朴な墓地ということでした。もちろん、墓地にけばけばしさは似合いません。わかりやすくいえば、観光地としてわざとらしい扱いがないということでしょうか。それでも、駐車場などが整備されて、史跡としての扱いになっています。
先の日記には、おそらく墓地創設のころのものと思われる「薩軍墓地」という石碑の写真を載せました。こちらのほうが、きれいな木の案内よりも私にとっては貴重なものです。私は、できるだけ当初の姿に触れたいと思っていましたから。
「西南役薩軍戦没者墓碑」と金文字が彫られた記念碑があります。
これは死者を悼んで建立されたのでしょうけれど、薩軍墓地の当初の形態に触れたい私には、複雑な気分なのです。史跡としての薩軍墓地、死者を追悼する施設としての薩軍墓地ともに、大切にすべきだとは思います。
「七本柿木台場薩軍墓地」の見学記 その1 ― 2008/08/29
官軍と薩軍にわかれて、両軍あわせて7万8千の兵力がたたかい、1万6千の死者を出した1877年の西南戦争。大河ドラマの素材とならなければ、関心をもつ人が多くはないでしょう。
下の写真は、旧真田山陸軍墓地(大阪玉造)にある西南戦争で亡くなった方の墓碑です。
ごらんのように西南戦争ではなく、「鹿児島県賊徒征討之役」と刻まれています。昨年、はじめて見て衝撃を受けました。この烈しい非難をこめた名称は、明治政府の側の危機感の現れにほかなりません。
それだけに、官軍墓地だけではなく、薩軍墓地が存在することに別の驚きをもちます。
死ねば同じなのですから、ともに葬るという考え方もありえます。しかし、死後も官軍と薩軍の墓地を明確に分けたところに、戦争のもたらした内戦の傷跡が見えるのです。
お盆明けのブログにも書きましたが、実際に行ったのは、8月15日です。大分竹田市に到着したときに、いきなり行くことを思い立ったので、事前の調査なしでした。ともかく、いくつかある官軍墓地・薩軍墓地のなかで、一つでも見ることができたらいいというのが私の希望でした。
田原坂を見ることを第一にして、その付近の官軍墓地・薩軍墓地を探しました。そこで、到着したのが、「七本柿木台場薩軍墓地」でした。
「七本官軍墓地」とは目と鼻の先でした。
下の写真は、旧真田山陸軍墓地(大阪玉造)にある西南戦争で亡くなった方の墓碑です。
ごらんのように西南戦争ではなく、「鹿児島県賊徒征討之役」と刻まれています。昨年、はじめて見て衝撃を受けました。この烈しい非難をこめた名称は、明治政府の側の危機感の現れにほかなりません。
それだけに、官軍墓地だけではなく、薩軍墓地が存在することに別の驚きをもちます。
死ねば同じなのですから、ともに葬るという考え方もありえます。しかし、死後も官軍と薩軍の墓地を明確に分けたところに、戦争のもたらした内戦の傷跡が見えるのです。
お盆明けのブログにも書きましたが、実際に行ったのは、8月15日です。大分竹田市に到着したときに、いきなり行くことを思い立ったので、事前の調査なしでした。ともかく、いくつかある官軍墓地・薩軍墓地のなかで、一つでも見ることができたらいいというのが私の希望でした。
田原坂を見ることを第一にして、その付近の官軍墓地・薩軍墓地を探しました。そこで、到着したのが、「七本柿木台場薩軍墓地」でした。
「七本官軍墓地」とは目と鼻の先でした。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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