
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
Over the rainbow ― 2011/08/17
義父の初盆に、つぎつぎと訪れる人たちと、義母は丁寧に対応しています。暮らしの向きや身内の消息をたずね、過去の逸話などにも話が及びます。それは、地方紙やミニコミ誌に掲載されない細やかな村落の情報の共有作業でした。
私は、臨席しながら、ときに相槌をうち、ときにじっと耳を傾けました。中年とまではいかないけれど、そこに近づいている男性が一人で、弔問に来られました。最初、義母は、だれかわからない様子でしたが、「母親の使いできました」ということをきいて、合点がいったようで、その方をめぐって話が弾みました。母親は、役所の近くの書店主で、学校とも役所ともおつきあいのあった方でした。
男性の母親は、脳腫瘍で入院し、早期発見が幸いして命を取り留めたこと、がわかりました。いまは、入院中でしたが、初盆の時期になり、名簿を見ながら、二人の名前を指差しました。一人は、教育長、もうひとりは助役だった義父。それで、いまだ独り者だという息子の方がこられたわけです。
合併前は、町から受注できましたが、合併後は、吸収合併した側の大手が独占的に受注してしまい、同じ町からの注文は途絶えたこと、バイパスができたために、街中の道路から車が消えて、商店街は大きな打撃を受けたことなどがわかりました。のっぺりとした表情からは、疲れとあきらめが感じられました。
実母の看護を独り身のまま誠実につづけ、その願いのまま、初盆におとずれたというこの男性の話に心を打たれた義母は、他の弔問客とはちがい、お返しの品だけでなく、急いで台所に向かい、スイカの大きな一切れを手渡していました。
門口まで見送った向こうに、虹が見えました。ただ、うつむき加減で歩いていくこの男性の目には映っているとは思えませんでした。
私は、臨席しながら、ときに相槌をうち、ときにじっと耳を傾けました。中年とまではいかないけれど、そこに近づいている男性が一人で、弔問に来られました。最初、義母は、だれかわからない様子でしたが、「母親の使いできました」ということをきいて、合点がいったようで、その方をめぐって話が弾みました。母親は、役所の近くの書店主で、学校とも役所ともおつきあいのあった方でした。
男性の母親は、脳腫瘍で入院し、早期発見が幸いして命を取り留めたこと、がわかりました。いまは、入院中でしたが、初盆の時期になり、名簿を見ながら、二人の名前を指差しました。一人は、教育長、もうひとりは助役だった義父。それで、いまだ独り者だという息子の方がこられたわけです。
合併前は、町から受注できましたが、合併後は、吸収合併した側の大手が独占的に受注してしまい、同じ町からの注文は途絶えたこと、バイパスができたために、街中の道路から車が消えて、商店街は大きな打撃を受けたことなどがわかりました。のっぺりとした表情からは、疲れとあきらめが感じられました。
実母の看護を独り身のまま誠実につづけ、その願いのまま、初盆におとずれたというこの男性の話に心を打たれた義母は、他の弔問客とはちがい、お返しの品だけでなく、急いで台所に向かい、スイカの大きな一切れを手渡していました。
門口まで見送った向こうに、虹が見えました。ただ、うつむき加減で歩いていくこの男性の目には映っているとは思えませんでした。
大津市で見ることができる日露戦争の墓碑 ~その4 木戸共同墓地にて~ ― 2011/08/17
大津市で見ることができる戦死者・戦病死者の墓碑は、日露戦争(1904~05年)に限られているわけではありません。それ以後も以前も存在します。日清戦争(1894~95年)の墓碑もあります。西南戦争(1877年)の碑もあります。さらに遡って、明治6年の徴兵令以前に編成された「壮兵」とよばれる人たちの墓碑も見ることができます。ちなみに、「壮兵」とは、徴兵による農民主体の軍隊をつくるまでの過渡期に編成された士族出身者の兵のことです。彦根市に屯営がおかれていてそこで病死した十八番大隊の兵卒の墓碑が5柱(下の写真)あります。
日清戦争の戦死者・戦病死者の個人墓碑は、旧大津陸軍墓地で見ることができます。しかし、日露戦争の戦死者・戦病死者の個人墓碑は、どれも、民間の共同墓地に置かれています。死亡者数が膨大であったからです。ですから、旧陸軍墓地には、将校を除くと日露戦争の戦病死者の墓碑は、集合碑しかありません。
日清戦争の戦死者・戦病死者の墓碑は、旧大津陸軍墓地にありますが、それぞれの出身地の共同墓地にもまた建立されました。(たとえば、日清戦争で亡くなった中村林蔵の墓碑は、旧大津陸軍墓地と、旧高島町中野墓地にあります)複数あるのです。
しかも、「戦死」という初めて経験する死者ですから、集落で特別の扱いを受けました。日露戦争の場合は、戦死者が膨大であり、先に日清戦争の墓碑がある場合は、特別は特別でも、日清戦争ほどではなかったように見受けられます。
前置きが長くなりました。
大津市の北部から、南部へ、私が見つけた日露戦争の墓碑の紹介をしたいと思います。現在の大津市は、志賀町を合併しましたから、最北端は、葛川学区と志賀町の両方となります。
旧志賀町の木戸共同墓地には、日清戦争の墓碑がありません。その代わり、集落が出した最初の戦死者として、墓地の入り口にりっぱな墓碑が置かれています。高島市の仁賀宗太郎の墓碑(日清戦争)に匹敵します。
この墓地には、これ一基。 日露戦争の「戦時事績」によれば、木戸村の戦死者は4名、戦病死者は1名となっています。山村宗太郎は、旅順要塞への攻撃で戦死しました。残り、3名の戦死者、1名の戦病死者の墓碑の行方が気になりました。私がこの墓地にあるのを、見落としたのかも知れませんが。
日清戦争の戦死者・戦病死者の墓碑は、旧大津陸軍墓地にありますが、それぞれの出身地の共同墓地にもまた建立されました。(たとえば、日清戦争で亡くなった中村林蔵の墓碑は、旧大津陸軍墓地と、旧高島町中野墓地にあります)複数あるのです。
しかも、「戦死」という初めて経験する死者ですから、集落で特別の扱いを受けました。日露戦争の場合は、戦死者が膨大であり、先に日清戦争の墓碑がある場合は、特別は特別でも、日清戦争ほどではなかったように見受けられます。
前置きが長くなりました。
大津市の北部から、南部へ、私が見つけた日露戦争の墓碑の紹介をしたいと思います。現在の大津市は、志賀町を合併しましたから、最北端は、葛川学区と志賀町の両方となります。
旧志賀町の木戸共同墓地には、日清戦争の墓碑がありません。その代わり、集落が出した最初の戦死者として、墓地の入り口にりっぱな墓碑が置かれています。高島市の仁賀宗太郎の墓碑(日清戦争)に匹敵します。
この墓地には、これ一基。 日露戦争の「戦時事績」によれば、木戸村の戦死者は4名、戦病死者は1名となっています。山村宗太郎は、旅順要塞への攻撃で戦死しました。残り、3名の戦死者、1名の戦病死者の墓碑の行方が気になりました。私がこの墓地にあるのを、見落としたのかも知れませんが。
遠藤誉 『ネット大国中国 --言論をめぐる攻防』(岩波新書) ― 2011/08/17
遠藤誉『ネット大国中国』ともう一冊の本を、新幹線の車中で交互に読み始めました。はじめて知ることが多くありましたが、ネット事情については、日本とも重なるところがあり、いろんな刺激を受けました。
中国におけるネット世論の形成、リアルの世界での運動との関係など、考えはじめると、この一冊では物足りなくなりました。
ご推薦の本があれば、よろしくお願いします。
中国におけるネット世論の形成、リアルの世界での運動との関係など、考えはじめると、この一冊では物足りなくなりました。
ご推薦の本があれば、よろしくお願いします。

西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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