お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
軍都・大津メモ: 第9連隊と西南戦争 ― 2007/09/08
日清戦争までは、6鎮台14連隊が日本陸軍の体制。
大阪鎮台は、第8(大阪)、第9(大津)および第10(姫路)の3連隊から鳴っていました。それぞれの連隊は、3大隊の構成。大隊はさらに中隊、小隊に分かれます。
大津第9連隊の常備は、約15000名といいます。
●西南戦争のはじまりと第9連隊の動員
地租改正による農民一揆、征韓論争を発端にする特権を奪われた士族の反乱は、明治政府にとって重大な危機を意味します。
地租は、当初の3分が1877(明治10)年1月4日に、2分5厘に軽減。「竹やりで(農民一揆で)突き出す2分5厘」といわれたそうですね。
1876(明治9)年10月の神風の乱からの士族反乱は、なお続きます。つづくどころか、1877(明治10)年の鹿児島士族の反乱は、その規模が最大で、明治政府の命運をかけた戦いとなります。
軍事的には、旧士族軍に、新制の軍が勝てるかどうか。
1877(明治10)年2月15日、西郷隆盛は軍を挙げます。
これに対して、陸軍卿山県有朋は、第一次動員として、東京鎮台第1連隊第3大隊と大阪鎮台第8連隊第二大隊を第一旅団に編成、近衛第1連隊第一・第二大隊を第二旅団に編成して、熊本へ送ります。
2月22日に、西郷軍は、熊本城を包囲。終結した兵力は1万3千。
同日、第一・第二旅団が博多に上陸。
熊本城をめぐり本格的な戦闘が開始されます。
明治政府は、2月23日に、東京、名古屋、大阪の3鎮台に、第2後備軍を召集。ついで各鎮台の第1後備軍を常備軍に編入し残った部隊の体制を強化します。
大津第9連隊は、第二次動員として、第一・第二大隊が召集されています。残りの第9連隊第3大隊は、第2中隊を除いて、中隊単位にわけられて配属されます。
●田原坂のたたかい
3月、決戦の部隊は、田原坂となります。
大津第9連隊の諸部隊が3月5日。たちまち、この決戦に投入されました。
●第9連隊の死傷者
西南戦争は、1877年2月から9月までの8ヶ月。9月24日の西郷の死をもって終結します。
政府軍の戦死者は、6,843人。第9連隊の戦死者は、連隊別には、第1連隊の470人に次ぐ441人でした。
鎮台別では、大阪鎮台が一番の戦死者を出しました(中島峰夫『軍都・大津』6㌻から)
●墓碑
大津市には、西南戦争の戦死者の碑があります。
昔は、三井寺観音堂にあったそうですが、いまはどこでしょうか?
陸軍墓地で、西南戦争の戦死者のお墓を私はまだ特定できません・・・。
●軍服
上の写真は8月に行った熊本城で展示されていた当時の政府軍の軍服です。
大阪鎮台は、第8(大阪)、第9(大津)および第10(姫路)の3連隊から鳴っていました。それぞれの連隊は、3大隊の構成。大隊はさらに中隊、小隊に分かれます。
大津第9連隊の常備は、約15000名といいます。
●西南戦争のはじまりと第9連隊の動員
地租改正による農民一揆、征韓論争を発端にする特権を奪われた士族の反乱は、明治政府にとって重大な危機を意味します。
地租は、当初の3分が1877(明治10)年1月4日に、2分5厘に軽減。「竹やりで(農民一揆で)突き出す2分5厘」といわれたそうですね。
1876(明治9)年10月の神風の乱からの士族反乱は、なお続きます。つづくどころか、1877(明治10)年の鹿児島士族の反乱は、その規模が最大で、明治政府の命運をかけた戦いとなります。
軍事的には、旧士族軍に、新制の軍が勝てるかどうか。
1877(明治10)年2月15日、西郷隆盛は軍を挙げます。
これに対して、陸軍卿山県有朋は、第一次動員として、東京鎮台第1連隊第3大隊と大阪鎮台第8連隊第二大隊を第一旅団に編成、近衛第1連隊第一・第二大隊を第二旅団に編成して、熊本へ送ります。
2月22日に、西郷軍は、熊本城を包囲。終結した兵力は1万3千。
同日、第一・第二旅団が博多に上陸。
熊本城をめぐり本格的な戦闘が開始されます。
明治政府は、2月23日に、東京、名古屋、大阪の3鎮台に、第2後備軍を召集。ついで各鎮台の第1後備軍を常備軍に編入し残った部隊の体制を強化します。
大津第9連隊は、第二次動員として、第一・第二大隊が召集されています。残りの第9連隊第3大隊は、第2中隊を除いて、中隊単位にわけられて配属されます。
●田原坂のたたかい
3月、決戦の部隊は、田原坂となります。
大津第9連隊の諸部隊が3月5日。たちまち、この決戦に投入されました。
●第9連隊の死傷者
西南戦争は、1877年2月から9月までの8ヶ月。9月24日の西郷の死をもって終結します。
政府軍の戦死者は、6,843人。第9連隊の戦死者は、連隊別には、第1連隊の470人に次ぐ441人でした。
鎮台別では、大阪鎮台が一番の戦死者を出しました(中島峰夫『軍都・大津』6㌻から)
●墓碑
大津市には、西南戦争の戦死者の碑があります。
昔は、三井寺観音堂にあったそうですが、いまはどこでしょうか?
陸軍墓地で、西南戦争の戦死者のお墓を私はまだ特定できません・・・。
●軍服
上の写真は8月に行った熊本城で展示されていた当時の政府軍の軍服です。
コメント
_ (未記入) ― 2012年11月03日 17時28分05秒
昨日三井寺を訪問して、西南戦争記念塔があることを確認しました
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)