
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
大津陸軍墓地調査 : ブロック分けのつぎになにをしたらいいのだろうか? ― 2007/09/23
はじめたことは最後までやろうと思うのですが、なによりもまず、墓地全体のおおよその姿を頭に描く必要があります。
●略図を作り、外見から、10のブロックに分けましたが。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/21/1810909
しかし、どのブロックに、どういう方が眠っているのかさえ、まだわかりません。墓地そのものの埋葬方針がわからないのです。埋葬資料(埋葬名簿)さえあれば、こんなことからはじめる必要はないのです。
●墓地のどこにも、まともな案内がありません。
入り口には、「旧大津陸軍墓地」と木の看板に白ペンキで書かれてあり、その下の行には、「ロシア兵、中国兵の墓あり」と記されています。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/06/1775750
「ロシア兵」「中国兵」と書かれてあっても、それがどこにあるのかさえ、案内されていません。
ロシア兵の墓は偶然見つけました。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/06/1775806
中国兵の墓は、今のところ、2柱。それだけかどうかさえ、わかりません。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/06/1775857
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/06/1775859
これら異国の人たちが、どうして、ここに葬られているかの解説もありません。
●陸軍墓地そのものの存在がしられていないのでは?
そもそも、案内をつくらなければならないほどこの墓地に来る人もいないし、存在さえ知らされていないのだと思います。
お役所をぐるぐる回って、墓地の記録を探していますが、まだまだ先が見えません。
さしあたり、自分でやるしかないののです。
●ブロック分けの次にだいたいの見当をつける
そのブロックにどういう人が眠っているかの見当をつけてみます。そして、調べる順番を決めたいと思います。
文献による案内には、西南戦争の戦死者も葬られていると書かれています。しかし、供養塔には、日清、日露、第一次、第二次世界大戦の名前はあっても、西南戦争の文字はありません。シベリア出兵の文字もありません。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/04/1769223
しかし、日清、日露などと具体的に書いてあるわけですから、それがどのブロックに(まさかバラバラ?)葬られているのかを記すことはできると思うのです。でも、その案内がありません。
それぞれのブロック(と私がなずけただけですが)の前に(墓地の美観をそがないように)案内板をつけるか、墓地の入り口に無料のパンフでも置けばいいのだと思いました。
●旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会
私が参考にしている上記の会のホームページ
http://www.jttk.zaq.ne.jp/bacas400/sanaboti/
●略図を作り、外見から、10のブロックに分けましたが。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/21/1810909
しかし、どのブロックに、どういう方が眠っているのかさえ、まだわかりません。墓地そのものの埋葬方針がわからないのです。埋葬資料(埋葬名簿)さえあれば、こんなことからはじめる必要はないのです。
●墓地のどこにも、まともな案内がありません。
入り口には、「旧大津陸軍墓地」と木の看板に白ペンキで書かれてあり、その下の行には、「ロシア兵、中国兵の墓あり」と記されています。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/06/1775750
「ロシア兵」「中国兵」と書かれてあっても、それがどこにあるのかさえ、案内されていません。
ロシア兵の墓は偶然見つけました。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/06/1775806
中国兵の墓は、今のところ、2柱。それだけかどうかさえ、わかりません。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/06/1775857
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/06/1775859
これら異国の人たちが、どうして、ここに葬られているかの解説もありません。
●陸軍墓地そのものの存在がしられていないのでは?
そもそも、案内をつくらなければならないほどこの墓地に来る人もいないし、存在さえ知らされていないのだと思います。
お役所をぐるぐる回って、墓地の記録を探していますが、まだまだ先が見えません。
さしあたり、自分でやるしかないののです。
●ブロック分けの次にだいたいの見当をつける
そのブロックにどういう人が眠っているかの見当をつけてみます。そして、調べる順番を決めたいと思います。
文献による案内には、西南戦争の戦死者も葬られていると書かれています。しかし、供養塔には、日清、日露、第一次、第二次世界大戦の名前はあっても、西南戦争の文字はありません。シベリア出兵の文字もありません。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/04/1769223
しかし、日清、日露などと具体的に書いてあるわけですから、それがどのブロックに(まさかバラバラ?)葬られているのかを記すことはできると思うのです。でも、その案内がありません。
それぞれのブロック(と私がなずけただけですが)の前に(墓地の美観をそがないように)案内板をつけるか、墓地の入り口に無料のパンフでも置けばいいのだと思いました。
●旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会
私が参考にしている上記の会のホームページ
http://www.jttk.zaq.ne.jp/bacas400/sanaboti/
大津陸軍墓地調査 : それぞれのブロックの特徴 ― 2007/09/23
さしあたり、下の(↓)略図で考えるしかありません。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/21/1810909
今、私が調べた範囲では
●Aブロック
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/21/1810948
将校のお墓。年代的には、バラバラ。お墓の形もバラバラ。
まったく文字が読めない(消えている)お墓もありますが、
おおよそ読むことはできます。
とくに、日露戦争の重要な戦場(旅順・奉天)での戦死者のお墓が私の目を引きました。
このブロックは、ブロックとしての構成を調べる必要はないようです。
●Bブロック
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/21/1810949
日清戦争直後の戦没者のお墓。
日清戦争の戦没者は、あとで述べますが、この墓地に200名近く葬られています。なぜ、ここに15柱だけ葬られている理由がわかりません。
同じ兵卒ではなく、下士?それはあまり注意していませんでした。
「陸軍歩兵特務曹長」という階級が書かれた墓は目立っていましたが。
●Cブロック
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/21/1810950
お墓の形は、バラバラ。全体としてのまとまりを感じません。
病没者のお墓でしょうか?
●Dブロック
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/21/1810951
少数のブロック。
●Eブロック
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/21/1810952
死亡年とその場所を刻んだ面はすべて撮影しました。
まったく読めないのは、2柱くらいのもの。残りはすべてわかります。
墓石も均一の大きさと様式。石の目が細かいので読みやすい。
日清戦争直後に死亡した兵士のお墓です。
●Fブロック
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/21/1810953
数が20そこそこ。階級なしの個人名。経歴などが書かれています。
ただ文字を読み取るのに苦労します。
目の粗い石でできています。
西南戦争での傷で亡くなった人の墓があるように思えます。
●Gブロック
これは、ぽつんと離れて1柱だけあるロシア人墓碑。
●Kブロック
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/21/1811235
数が多い。
ここも詳しく見ることができていないブロック。
文字が読みとりにくいのは、F、Lと同じ。
死亡年に「大正」の文字が見えたのは(今のところ)このブロックだけ。
●Lブロック
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/21/1811235
数が多い。
あまり詳しく見れていないブロック。
そもそも、文字が読み取れません。ただ、階級名でなく個人名が書いてあったり、数行に渡って戦死者の履歴が書いてあるのを見ると、日清戦争よりも旧いものではないかと思います。
●Mブロック
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/21/1811236
ひとつひとつのお墓がばらばらで、統一した印象はありません。
数も少ない。
女性などの墓があり、どうも陸軍墓地の一部とは思えません。
●結論→KとLから記録するのがいいのでは
私は、当初、数が少ないことと、いかにも古そうなのでFブロックに注目していました。しかし、文字が読み取りにくいですが、KとLが重要になると思いました。写真にとるだけですみそうなEブロックとちがい、ひとつひとつに読み取る努力と手間がかかりそうですが。
問題は、KとLが移設されてことです。
その配置から意味を読み取ることは不可能ですね。
こういうこともあるので、古い配置と新しい配置の対象表が残っていればいいのですが。KとLは、移設のときに、墓石のコケなどを取って、をきれいにしたのかも知れません。やけに石が新しく見えます。
(上の写真は、正面手前がEブロック、そのむこうがFブロック。
左端に見えるのが、Mブロック)
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/21/1810909
今、私が調べた範囲では
●Aブロック
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/21/1810948
将校のお墓。年代的には、バラバラ。お墓の形もバラバラ。
まったく文字が読めない(消えている)お墓もありますが、
おおよそ読むことはできます。
とくに、日露戦争の重要な戦場(旅順・奉天)での戦死者のお墓が私の目を引きました。
このブロックは、ブロックとしての構成を調べる必要はないようです。
●Bブロック
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/21/1810949
日清戦争直後の戦没者のお墓。
日清戦争の戦没者は、あとで述べますが、この墓地に200名近く葬られています。なぜ、ここに15柱だけ葬られている理由がわかりません。
同じ兵卒ではなく、下士?それはあまり注意していませんでした。
「陸軍歩兵特務曹長」という階級が書かれた墓は目立っていましたが。
●Cブロック
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/21/1810950
お墓の形は、バラバラ。全体としてのまとまりを感じません。
病没者のお墓でしょうか?
●Dブロック
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/21/1810951
少数のブロック。
●Eブロック
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/21/1810952
死亡年とその場所を刻んだ面はすべて撮影しました。
まったく読めないのは、2柱くらいのもの。残りはすべてわかります。
墓石も均一の大きさと様式。石の目が細かいので読みやすい。
日清戦争直後に死亡した兵士のお墓です。
●Fブロック
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/21/1810953
数が20そこそこ。階級なしの個人名。経歴などが書かれています。
ただ文字を読み取るのに苦労します。
目の粗い石でできています。
西南戦争での傷で亡くなった人の墓があるように思えます。
●Gブロック
これは、ぽつんと離れて1柱だけあるロシア人墓碑。
●Kブロック
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/21/1811235
数が多い。
ここも詳しく見ることができていないブロック。
文字が読みとりにくいのは、F、Lと同じ。
死亡年に「大正」の文字が見えたのは(今のところ)このブロックだけ。
●Lブロック
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/21/1811235
数が多い。
あまり詳しく見れていないブロック。
そもそも、文字が読み取れません。ただ、階級名でなく個人名が書いてあったり、数行に渡って戦死者の履歴が書いてあるのを見ると、日清戦争よりも旧いものではないかと思います。
●Mブロック
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/21/1811236
ひとつひとつのお墓がばらばらで、統一した印象はありません。
数も少ない。
女性などの墓があり、どうも陸軍墓地の一部とは思えません。
●結論→KとLから記録するのがいいのでは
私は、当初、数が少ないことと、いかにも古そうなのでFブロックに注目していました。しかし、文字が読み取りにくいですが、KとLが重要になると思いました。写真にとるだけですみそうなEブロックとちがい、ひとつひとつに読み取る努力と手間がかかりそうですが。
問題は、KとLが移設されてことです。
その配置から意味を読み取ることは不可能ですね。
こういうこともあるので、古い配置と新しい配置の対象表が残っていればいいのですが。KとLは、移設のときに、墓石のコケなどを取って、をきれいにしたのかも知れません。やけに石が新しく見えます。
(上の写真は、正面手前がEブロック、そのむこうがFブロック。
左端に見えるのが、Mブロック)
赤とんぼの季節になりましたね。 ― 2007/09/23
空の色に染まっていきそうなトンボ ― 2007/09/23
「今津駐屯地創立55周年記念行事」に集まる車 ― 2007/09/23

午前10時に記念行事が開演。
会場へはバスでしか行くことができません。
「大供」に臨時駐車場がつくられ、
そこに基地との間をピストン運転するバスがきます。
バイパスが渋滞して遅れそうでしたが、
H氏の自宅によったうえで、
なんとか開演10分前ぐらいに到着しました。
すでに、駐車場は8割の入り。
3000名近くが集まる予定だそうです。
会場へはバスでしか行くことができません。
「大供」に臨時駐車場がつくられ、
そこに基地との間をピストン運転するバスがきます。
バイパスが渋滞して遅れそうでしたが、
H氏の自宅によったうえで、
なんとか開演10分前ぐらいに到着しました。
すでに、駐車場は8割の入り。
3000名近くが集まる予定だそうです。
記念行事開催する今津駐屯地との間をピストン運転するバスにて ― 2007/09/23

私は、10年ぶりぐらいに参加しました。
いったいどんな人たちが3000名も来るのかと思いました。
小さな子どもたちをつれた家族連れが、普通に参加していました。
隊員さんの家族みたいですね。
若い女性もけっこう多い。
何人かに一人は、自衛隊に似た迷彩服をきた人がいます。
手には、大きな望遠レンズを装備した高級なデジタル一眼レフ。
体型を見ると、どうも自衛隊の人には見えません。
いったいどんな人たちが3000名も来るのかと思いました。
小さな子どもたちをつれた家族連れが、普通に参加していました。
隊員さんの家族みたいですね。
若い女性もけっこう多い。
何人かに一人は、自衛隊に似た迷彩服をきた人がいます。
手には、大きな望遠レンズを装備した高級なデジタル一眼レフ。
体型を見ると、どうも自衛隊の人には見えません。
式典開催まえに整列する第3と第10戦車大隊の隊員たち ― 2007/09/23
今津駐屯地の記念式典のひな壇 ― 2007/09/23
ひな壇にむかって整列する自衛隊員 ― 2007/09/23
今津駐屯地創立55周年式典の横のテント ― 2007/09/23

西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
最近のコメント