お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
私がブログで書きたいと思っていること ― 2007/09/10
8月の中頃から、戦争の遺跡に興味を惹かれています。
お墓や石碑の写真を熱心に撮っているので、「石仏があそこにあるよ」と紹介してくれる人が隣にいますが、そういう関心ではないのです。
戦争というものを、お盆のTV特集番組を見ながらより強く意識したという事情もあります。8月はそういう機会に恵まれていますから。
そうそう、敦賀の第なんとか連隊のドキュメント(H君にいわせると再放送)も見ました。戦を挑むことなく、退却の盾にされた悲惨な部隊です。
そういうTVからの刺激も確かにありますが、それは毎年のことです。
今回は、なによりも、生の遺跡を見て、その迫力に圧倒されたからです。
歴史は文字だけでなく、実物を残さなければならないと強く思いました。それは、過去と現在をつなぐ絆の役割をもっているからです。「生き証人」という言葉そのままに。
小関越えの墓地を出発点にして、陸軍墓地を見ました。後者を見た衝撃が大きかったのです。
それで、つぎの場所を調べて、見てきました。
①西南戦争の戦没者碑
②日清戦争の戦没者碑
③第9連隊の碑
④若鷲の碑(飛行部隊)
実は、どの場所も(現地人ですから)行ったことのあるところばかりです。
これはいったいどういうことかと自分で思いました。
この大津市に生まれ、育って(大学時代は大阪)いるのに、この空白はなんなんでしょうか?結局、大津人としてのアイデンティティーにかかわることですね。その土地に生まれて、その土地のなにを大切にすべきかを知らないまま生きているわけですから。
大津市は、急激な都市化で、流入人口は相当なものです。その人たちは、ここに育ったわけではなく、元のまちの「原風景」を知りません。
その原風景というのは、なにも景観だけではないと思います。
たとえば、繰り返してはならない歴史、「軍都」としての歴史を含むものだと思っています。
なにげなくはじめたブログですが、私の思いは徐々にはっきりしてきました。
つまり、琵琶湖の水質悪化もそうですが、景観については、琵琶湖の周りに高層マンションをたてること、つまり琵琶湖を「壁」で囲むことは許せないと思います。水鳥などの野鳥の写真を撮りながら、よけいそう思いました。
イオンモール進出に反対する人たちとともに運動しています。一方で世の流れとあきらめかけていましたが、無秩序な大型店の進出でまちの「顔」である中心街や歴史的な街並みを壊すのは、絶対やめるべきだと確信をもちました。焼畑商業といわれる出店と撤退をくりかえす動きは最低です。
歴史については、「軍都」としての過去を忘れず、常にそれを胸にいだくことが、自分のまちで憲法9条を生かすことだと思っています。
まちには、「原風景」がありますが、残しておくべきそれと、引継ぎくりかえしてはならないものがあります。それらに向かい合いながら、新しいまちをつくるべきなのです。
いろんなジャンルが混乱していますが、ブログを書き綴っている根には、こういう思いがあるのです。もちろん、楽しみながら書いているのですが。
お墓や石碑の写真を熱心に撮っているので、「石仏があそこにあるよ」と紹介してくれる人が隣にいますが、そういう関心ではないのです。
戦争というものを、お盆のTV特集番組を見ながらより強く意識したという事情もあります。8月はそういう機会に恵まれていますから。
そうそう、敦賀の第なんとか連隊のドキュメント(H君にいわせると再放送)も見ました。戦を挑むことなく、退却の盾にされた悲惨な部隊です。
そういうTVからの刺激も確かにありますが、それは毎年のことです。
今回は、なによりも、生の遺跡を見て、その迫力に圧倒されたからです。
歴史は文字だけでなく、実物を残さなければならないと強く思いました。それは、過去と現在をつなぐ絆の役割をもっているからです。「生き証人」という言葉そのままに。
小関越えの墓地を出発点にして、陸軍墓地を見ました。後者を見た衝撃が大きかったのです。
それで、つぎの場所を調べて、見てきました。
①西南戦争の戦没者碑
②日清戦争の戦没者碑
③第9連隊の碑
④若鷲の碑(飛行部隊)
実は、どの場所も(現地人ですから)行ったことのあるところばかりです。
これはいったいどういうことかと自分で思いました。
この大津市に生まれ、育って(大学時代は大阪)いるのに、この空白はなんなんでしょうか?結局、大津人としてのアイデンティティーにかかわることですね。その土地に生まれて、その土地のなにを大切にすべきかを知らないまま生きているわけですから。
大津市は、急激な都市化で、流入人口は相当なものです。その人たちは、ここに育ったわけではなく、元のまちの「原風景」を知りません。
その原風景というのは、なにも景観だけではないと思います。
たとえば、繰り返してはならない歴史、「軍都」としての歴史を含むものだと思っています。
なにげなくはじめたブログですが、私の思いは徐々にはっきりしてきました。
つまり、琵琶湖の水質悪化もそうですが、景観については、琵琶湖の周りに高層マンションをたてること、つまり琵琶湖を「壁」で囲むことは許せないと思います。水鳥などの野鳥の写真を撮りながら、よけいそう思いました。
イオンモール進出に反対する人たちとともに運動しています。一方で世の流れとあきらめかけていましたが、無秩序な大型店の進出でまちの「顔」である中心街や歴史的な街並みを壊すのは、絶対やめるべきだと確信をもちました。焼畑商業といわれる出店と撤退をくりかえす動きは最低です。
歴史については、「軍都」としての過去を忘れず、常にそれを胸にいだくことが、自分のまちで憲法9条を生かすことだと思っています。
まちには、「原風景」がありますが、残しておくべきそれと、引継ぎくりかえしてはならないものがあります。それらに向かい合いながら、新しいまちをつくるべきなのです。
いろんなジャンルが混乱していますが、ブログを書き綴っている根には、こういう思いがあるのです。もちろん、楽しみながら書いているのですが。
市の文化財保護課をたずねました ― 2007/09/10
①「大津市陸軍墓地について、おききしたいのです。あの墓地について詳しくご存知の方はいますか?文献はありますか?管理は大津市ですか、それとも別の団体ですか?」
②「西南戦争の戦没者の碑はどこにありますか?」
このような質問をするために、歴史博物館にある大津市の文化財保護課をたずねました。
陸軍墓地についての質問には、どれも答えを見つけることができませんでした。
陸軍墓地は、観光案内などに載っています。でも、管理主体がどこなのかわからないし、文献も研究者もわからないということでした。
いいそえておくべきことですが、課の人たちは親切な対応でしたけれど、中身は・・・。
バイパス工事によって、どのような改装をしたのかということについての答えも見つけることができませんでした。
「お墓の悉皆調査はされていますか?」という質問も答えはありません。
「たぶん、されていないと思います」とのことでした。
②は、三井寺の観音堂の上とのこと。
私もその場所にあった記憶を持っています。8月8日の原爆の日の法要にいったときに、一度、展望台となっているところに行ったのですが、見当たらなかったので、記憶ちがいかと思ったからです。
②「西南戦争の戦没者の碑はどこにありますか?」
このような質問をするために、歴史博物館にある大津市の文化財保護課をたずねました。
陸軍墓地についての質問には、どれも答えを見つけることができませんでした。
陸軍墓地は、観光案内などに載っています。でも、管理主体がどこなのかわからないし、文献も研究者もわからないということでした。
いいそえておくべきことですが、課の人たちは親切な対応でしたけれど、中身は・・・。
バイパス工事によって、どのような改装をしたのかということについての答えも見つけることができませんでした。
「お墓の悉皆調査はされていますか?」という質問も答えはありません。
「たぶん、されていないと思います」とのことでした。
②は、三井寺の観音堂の上とのこと。
私もその場所にあった記憶を持っています。8月8日の原爆の日の法要にいったときに、一度、展望台となっているところに行ったのですが、見当たらなかったので、記憶ちがいかと思ったからです。
歴史博物館の敷地に二つの記念碑があります ― 2007/09/10
大津市が「軍都」と呼ばれるのは、なによりも、陸軍歩兵第九連隊があったからです。そして、大津海軍航空機隊。
それらがあったことを後世に残す記念碑が歴史博物館の敷地内にあることを(今頃)知りました。
何度か、訪れながら、気がつかなかったのです。
場所がわからなくて、東海自然歩道から歴史博物館の裏手を歩きました。でも、駐車場から周りを見渡せば、ちゃんと案内があったのです。
それらがあったことを後世に残す記念碑が歴史博物館の敷地内にあることを(今頃)知りました。
何度か、訪れながら、気がつかなかったのです。
場所がわからなくて、東海自然歩道から歴史博物館の裏手を歩きました。でも、駐車場から周りを見渡せば、ちゃんと案内があったのです。
第九連隊と大津陸軍少年飛行兵学校の碑はこの丘に建っています ― 2007/09/10
大津陸軍少年飛行兵学校「若鷲の碑」の全景です ― 2007/09/10
「若鷲の碑」が刻む大津陸軍少年飛行兵学校の歴史 ― 2007/09/10
碑文の文字は、写真でもそのまま読めると思います。
(拡大表示してくだされば)
以下、テキストにもしておきます。
《大津陸軍少年飛行兵学校は、太平洋戦争が苛烈の度を加え、その戦域が益々拡大された昭和十七年十0月、航空戦力増強の要請に応じ、東京陸軍航空学校大津教育隊として此の地に開設され、翌十八年四月、大津陸軍少年飛行兵学校に独立した。
当時十五六歳の少年たちは、祖国存亡のとき、陸軍航空の期待と栄光の重責を担い、「至誠・純真・元気・周到」の校風のもと、炎熱の朝、酷寒の夕、琵琶湖畔に、長等山麓に、幹部要員として徹底した一ヵ年の基礎訓練に励んだ。その数、第十五期生から第二十期生に至るまで八千有余人。ついで、操縦・通信・整備の各上級学校に学び、若鷲となって大空に巣立ち、北辺の空に南溟の果てに、本土防衛のさきがけとなって愛機と生死を共にした。
昭和二十年八月、戦いは終り、これらの出身者、また未だ学業半ばの者は、ともに全国に離散し、本校もまたその歴史を閉じた。往時茫々、戦後30年。教えし者、教えられし者相つどい、かつて青春のすべてを抛げうった思い出深きこの地に、永遠の平和を願って、茲に「若鷲の碑」を建立する。
昭和五十年十月十二日
大津陸軍少年飛行兵学校 関係者一同》
(拡大表示してくだされば)
以下、テキストにもしておきます。
《大津陸軍少年飛行兵学校は、太平洋戦争が苛烈の度を加え、その戦域が益々拡大された昭和十七年十0月、航空戦力増強の要請に応じ、東京陸軍航空学校大津教育隊として此の地に開設され、翌十八年四月、大津陸軍少年飛行兵学校に独立した。
当時十五六歳の少年たちは、祖国存亡のとき、陸軍航空の期待と栄光の重責を担い、「至誠・純真・元気・周到」の校風のもと、炎熱の朝、酷寒の夕、琵琶湖畔に、長等山麓に、幹部要員として徹底した一ヵ年の基礎訓練に励んだ。その数、第十五期生から第二十期生に至るまで八千有余人。ついで、操縦・通信・整備の各上級学校に学び、若鷲となって大空に巣立ち、北辺の空に南溟の果てに、本土防衛のさきがけとなって愛機と生死を共にした。
昭和二十年八月、戦いは終り、これらの出身者、また未だ学業半ばの者は、ともに全国に離散し、本校もまたその歴史を閉じた。往時茫々、戦後30年。教えし者、教えられし者相つどい、かつて青春のすべてを抛げうった思い出深きこの地に、永遠の平和を願って、茲に「若鷲の碑」を建立する。
昭和五十年十月十二日
大津陸軍少年飛行兵学校 関係者一同》
プロペラがあしらわれた「若鷲の碑」 ― 2007/09/10
大津陸軍少年飛行兵学校の校歌 「若鷲の碑」より ― 2007/09/10
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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