お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
旧日本陸軍の階級表をチェックする ― 2007/09/28
「語り継ぐ:帝国陸軍階級表(兵科・昭和6年11月10日改正時)」というサイトがあります。↓
http://www003.upp.so-net.ne.jp/kataritsugu/army.htm
とりえあえず、これを参考にして、整理をしてみます。
注意すべきは、昭和6(1931)年に、改正がされたこと。したがって、この前後では、名称がちがうことですね。
昭和6(1931)年11月10日では以下のようです。
○将校
将官 = 大将 中将 少将
佐官 = 大佐 中佐 少佐
尉官 = 大尉 中尉 少尉
○准士官
特務曹長(昭和12年から准尉)
○下士官
曹長 軍曹 伍長
○兵
上等兵 一等兵 二等兵
改正によってなにが変わったのか?
改正前 改正後
一等卒 一等兵
二等卒 二等兵
輜重輸卒 輜重兵特務兵
下士 下士官
この区分が、日露戦争の記念碑にそのまま反映して、4つの階級にそれぞれ1本記念碑があるわけですね。
http://www003.upp.so-net.ne.jp/kataritsugu/army.htm
とりえあえず、これを参考にして、整理をしてみます。
注意すべきは、昭和6(1931)年に、改正がされたこと。したがって、この前後では、名称がちがうことですね。
昭和6(1931)年11月10日では以下のようです。
○将校
将官 = 大将 中将 少将
佐官 = 大佐 中佐 少佐
尉官 = 大尉 中尉 少尉
○准士官
特務曹長(昭和12年から准尉)
○下士官
曹長 軍曹 伍長
○兵
上等兵 一等兵 二等兵
改正によってなにが変わったのか?
改正前 改正後
一等卒 一等兵
二等卒 二等兵
輜重輸卒 輜重兵特務兵
下士 下士官
この区分が、日露戦争の記念碑にそのまま反映して、4つの階級にそれぞれ1本記念碑があるわけですね。
旧大津陸軍墓地の基本的な配置が理解できました ― 2007/09/28
軍隊という厳格な階級組織を実感としてもたないために、ずいぶん遠回りをしたと思いました。頭で知っていても役に立ちませんでした。
旧大津陸軍墓地の配列を見ただけで、見晴らしのよい上の段は将校クラス。下の段のいくつかの少数(20から30程度)の墓地は、准士官か下士官。まとまっている(100~200)墓は、兵のもの。
このように、すぐに直感できたはずです。
戦死された年月日を見ることが先で(どの戦争でなくなったか)、墓碑に刻まれた階級には関心がなかったのです。
つまり、1976(昭和51)年の移転前の配置そのままだと思われるA~Gまでは、
A 将校 少尉から少将まで20柱
B 准士官と下士官 特務曹長、軍曹
C 下士官 軍曹、伍長
D 下士官 軍曹、伍長
E 兵 上等兵、一等兵卒、二等兵卒、
輜重輸卒
(例外的に、士官候補生)
(F は不明)
G 捕虜 1柱
ということですね。
旧大津陸軍墓地の配列を見ただけで、見晴らしのよい上の段は将校クラス。下の段のいくつかの少数(20から30程度)の墓地は、准士官か下士官。まとまっている(100~200)墓は、兵のもの。
このように、すぐに直感できたはずです。
戦死された年月日を見ることが先で(どの戦争でなくなったか)、墓碑に刻まれた階級には関心がなかったのです。
つまり、1976(昭和51)年の移転前の配置そのままだと思われるA~Gまでは、
A 将校 少尉から少将まで20柱
B 准士官と下士官 特務曹長、軍曹
C 下士官 軍曹、伍長
D 下士官 軍曹、伍長
E 兵 上等兵、一等兵卒、二等兵卒、
輜重輸卒
(例外的に、士官候補生)
(F は不明)
G 捕虜 1柱
ということですね。
旧大津陸軍墓地 : Bブロックに眠る人たち ― 2007/09/28
Bブロックは、墓石の正面(写真では右下)から見ると、
つぎのような配置になっています。
列
01 02 03 04 05
第4行(04) ■ ■ ■ ■ ■
第3行(03) ■ ■ ■ ■
第2行(02) ■ ■ ■ ■
第1行(01) ■ ■
行 列
B0101 陸軍歩兵二等軍曹
B0102 陸軍歩兵一等軍曹
B0201 陸軍歩兵二等軍曹
B0202 陸軍歩兵一等軍曹
B0203 陸軍歩兵一等軍曹
B0204 陸軍歩兵特務曹長
B0301 陸軍歩兵一等軍曹
B0302 陸軍歩兵一等軍曹
B0303 陸軍歩兵一等軍曹
B0304 陸軍歩兵一等軍曹
B0401 陸軍歩兵曹長
B0402 陸軍歩兵二等軍曹
B0403 陸軍歩兵一等軍曹
B0404 陸軍歩兵一等軍曹
B0405 故陸軍歩兵特務曹長
つまり、特務曹長 2柱
曹長 1柱
一等軍曹 9柱
二等軍曹 3柱
合計 15柱
上の写真がBブロック。
二つの背の高い墓石が見えますが、階級が上の二柱です。
つまり、特務曹長のお墓。
階級の上下は、見た目でもはっきりわかるようになっています。
つぎのような配置になっています。
列
01 02 03 04 05
第4行(04) ■ ■ ■ ■ ■
第3行(03) ■ ■ ■ ■
第2行(02) ■ ■ ■ ■
第1行(01) ■ ■
行 列
B0101 陸軍歩兵二等軍曹
B0102 陸軍歩兵一等軍曹
B0201 陸軍歩兵二等軍曹
B0202 陸軍歩兵一等軍曹
B0203 陸軍歩兵一等軍曹
B0204 陸軍歩兵特務曹長
B0301 陸軍歩兵一等軍曹
B0302 陸軍歩兵一等軍曹
B0303 陸軍歩兵一等軍曹
B0304 陸軍歩兵一等軍曹
B0401 陸軍歩兵曹長
B0402 陸軍歩兵二等軍曹
B0403 陸軍歩兵一等軍曹
B0404 陸軍歩兵一等軍曹
B0405 故陸軍歩兵特務曹長
つまり、特務曹長 2柱
曹長 1柱
一等軍曹 9柱
二等軍曹 3柱
合計 15柱
上の写真がBブロック。
二つの背の高い墓石が見えますが、階級が上の二柱です。
つまり、特務曹長のお墓。
階級の上下は、見た目でもはっきりわかるようになっています。
陸軍歩兵二等軍曹の墓石 ― 2007/09/28
陸軍歩兵一等軍曹の墓石 ― 2007/09/28
陸軍歩兵特務曹長の墓石 ― 2007/09/28
陸軍歩兵曹長の墓石 ― 2007/09/28
Bブロックで唯一解読困難な墓碑:かろうじて特務曹長と読めます ― 2007/09/28
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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