お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
西南戦争で戦死した高島郡の15名の若者 ― 2009/09/15
『高島郡史』に掲載されている西南戦争の戦病死者は、15名でした。気がついたことは、すでに書きましたが、もうすこし丁寧に見ておきたいと思います。
ほとんどが戦死だと思います。有名な田原坂では7名が戦死。この7名を含めて、熊本県で死亡された方は、10名。鹿児島県が2名、宮崎県が1名、不明が2名。
所属部隊から見ると、ただ一人「名古屋鎮台」の方がいます。しかも階級は、唯一「少尉」。つまり、士官です。
明治10(1877)年の時点を考えると、この方(朽木雄六)は、士族出身者だと思われます。朽木村の市場ですから、村の中心地。苗字も「朽木」ですから、領主の朽木氏に繋がる人だった可能性がありますね。
その他の14名は、兵卒(一等卒・ニ等卒)。
平民出身だと思われます。
所属部隊は「不明」という人もいますが、当時の徴兵制度との関係から、大坂鎮台歩兵第九聯隊に所属したと思われます。ということは、明治6年から9年にかけて徴兵された若者ということです。
当時の高島郡には、村が17ありました。
その17の村に即して、西南戦争の戦死者を見てみます。
第九聯隊の戦死者を追悼する「紀念碑」(上の写真)が大津市三井寺に建てられました。高島郡から、60km離れたところでは、よほどの機会がなければ、出向くことはなかったと思われます。
その人たちの墓碑は、現在の高島市にあるのでしょうか。
ほとんどが戦死だと思います。有名な田原坂では7名が戦死。この7名を含めて、熊本県で死亡された方は、10名。鹿児島県が2名、宮崎県が1名、不明が2名。
所属部隊から見ると、ただ一人「名古屋鎮台」の方がいます。しかも階級は、唯一「少尉」。つまり、士官です。
明治10(1877)年の時点を考えると、この方(朽木雄六)は、士族出身者だと思われます。朽木村の市場ですから、村の中心地。苗字も「朽木」ですから、領主の朽木氏に繋がる人だった可能性がありますね。
その他の14名は、兵卒(一等卒・ニ等卒)。
平民出身だと思われます。
所属部隊は「不明」という人もいますが、当時の徴兵制度との関係から、大坂鎮台歩兵第九聯隊に所属したと思われます。ということは、明治6年から9年にかけて徴兵された若者ということです。
当時の高島郡には、村が17ありました。
その17の村に即して、西南戦争の戦死者を見てみます。
①剣熊村 2名 谷口筆松(山中)、谷口由造(野口)西南戦争で大阪鎮台歩兵第九聯隊(大津屯営)は441名の戦死者を出したとされていますが、そのうちの14名が高島郡(現高島市)出身者ということになります(あと1名は名古屋鎮台)。
②海津村 1名 南部由松(海津)
③西庄村
④百瀬村 1名 中川寅吉(知内)
⑤川上村 1名 大森六蔵(日置前)
⑥今津村 1名 古我梅治郎(大供)
⑦三谷村
⑧饗庭村 1名 尾島五次郎(熊之本)
⑨新儀村 1名 清水清五郎(藁園)
⑩本庄村
⑪青柳村 1名 中井藤吉(青柳)
⑫安曇村 2名 岸嘉七(西万木)、日置住吉(三尾里)
⑬広瀬村 1名 井上亀吉(上古賀)
⑭水尾村
⑮大溝村 1名 内田幸吉(永田)
⑯高島村
⑰朽木村 2名 仲村銀蔵(地子原)、朽木雄六(市場)
第九聯隊の戦死者を追悼する「紀念碑」(上の写真)が大津市三井寺に建てられました。高島郡から、60km離れたところでは、よほどの機会がなければ、出向くことはなかったと思われます。
その人たちの墓碑は、現在の高島市にあるのでしょうか。
コメント
_ やつしろ ― 2011年08月21日 17時37分36秒
_ BIN★→やつしろさん ― 2011年08月21日 19時39分07秒
驚きました。
どうして、そんなに詳しくわかったのでしょうか!?
滋賀県名士録の類も探したんですよ、
でも掲載されていませんでした。
死亡広告かなんかでしょうか。
それにしても、よくわかりましたね。
どうして、そんなに詳しくわかったのでしょうか!?
滋賀県名士録の類も探したんですよ、
でも掲載されていませんでした。
死亡広告かなんかでしょうか。
それにしても、よくわかりましたね。
_ やつしろ ― 2011年08月22日 14時28分46秒
BINさんとお出会いする前、「西南戦争で戦死した高島郡の15名の若者」のブログを興味を持って読んでいました。
私も職業柄・・(住職と教師)・・戦争と戦歿者とお墓・・その扱われ方・・世間の関心の変化・・遺族の高齢化と周りの無関心・・・などなどに思いを致していました。
最初は、BINさんに関わろうとは思ってもいなかったのですが、「砲弾型の日露戦役の墓碑は、安曇川町にはありません。」なんて間違いが書かれていたので、「田中墓地には、たくさんありますよ。」から、関わりが始まったのです。(昨年の9月?)
西南戦争の朽木雄六さん・・・前々から知っていました。
高島郡誌に大きく掲載されています。
だから、お墓は、朽木家の菩提所である朽木村岩瀬の興聖寺に行けば見つかると思い、昨年11月に二度行ったのでした。
朽木家の戦死者の立派なお墓(後の時代)は見つかりましたが、雄六さんのはありませんでした。(家臣ですから・・・)
郡誌に「遺髪を郷里柏村の先塋に葬る」と出ていたので、「そうそう、朽木家の菩提所興聖寺は、元は柏にあったんやから雄六さんの御先祖のお墓も、そこにあるのかも・・・」と、そのままになっています。
しかし、興聖寺に行ったおかげで、朽木村の忠魂碑と新しい戦歿者の芳名録が見つかったし、日清戦争・日露戦争の戦歿者の数が、郡誌と芳名録とでは随分違っていたし、載っていなかった「川崎利吉さん」「柳生多吉さん」の墓碑が見つかったし・・・。
一度、朽木へも御一緒しなければなりませんね。
私も職業柄・・(住職と教師)・・戦争と戦歿者とお墓・・その扱われ方・・世間の関心の変化・・遺族の高齢化と周りの無関心・・・などなどに思いを致していました。
最初は、BINさんに関わろうとは思ってもいなかったのですが、「砲弾型の日露戦役の墓碑は、安曇川町にはありません。」なんて間違いが書かれていたので、「田中墓地には、たくさんありますよ。」から、関わりが始まったのです。(昨年の9月?)
西南戦争の朽木雄六さん・・・前々から知っていました。
高島郡誌に大きく掲載されています。
だから、お墓は、朽木家の菩提所である朽木村岩瀬の興聖寺に行けば見つかると思い、昨年11月に二度行ったのでした。
朽木家の戦死者の立派なお墓(後の時代)は見つかりましたが、雄六さんのはありませんでした。(家臣ですから・・・)
郡誌に「遺髪を郷里柏村の先塋に葬る」と出ていたので、「そうそう、朽木家の菩提所興聖寺は、元は柏にあったんやから雄六さんの御先祖のお墓も、そこにあるのかも・・・」と、そのままになっています。
しかし、興聖寺に行ったおかげで、朽木村の忠魂碑と新しい戦歿者の芳名録が見つかったし、日清戦争・日露戦争の戦歿者の数が、郡誌と芳名録とでは随分違っていたし、載っていなかった「川崎利吉さん」「柳生多吉さん」の墓碑が見つかったし・・・。
一度、朽木へも御一緒しなければなりませんね。
_ BIN★→やつしろさん ― 2011年08月22日 21時58分45秒
間違ったことを書くのも、悪いことではなかったですね(笑)。
朽木雄六さんの記事が『高島郡誌』にあったなんて!
見落としたのですね、うかつでした。
もう一度、図書館で見直してみます。
やつしろさんの登場なくして、
この間の成果はありません。
私は、きっかけをあたえたに過ぎません。
朽木雄六さんの記事が『高島郡誌』にあったなんて!
見落としたのですね、うかつでした。
もう一度、図書館で見直してみます。
やつしろさんの登場なくして、
この間の成果はありません。
私は、きっかけをあたえたに過ぎません。
_ やつしろ ― 2012年06月20日 10時33分28秒
お久しぶりです・・・・・
昨年の秋、朽木雄六さんのお墓を見つけ、やっと所期の目的に達した思いで、半年ほど・・・御無沙汰になってしまいました。
びんさんにも是非見て頂きたいとは思いましたが、気候が悪くなり、そのままになってしまいました。
お約束の26日には、きっと喜んでもらえるだろうと思います。
あまり大きくはないのですが、「陸軍少尉朽木雄六温壽之墓」が、広い山中にポツンと苔むした状態でありました。側面には、読み切れませんが碑文も丁寧に残されていました。もう、ずいぶん長い間・・・・誰にも知られず・・・訪れる人もなく・・・24歳で戦死した前途有望の青年将校(あの乃木希典に匹敵する人物だったそうです)の無念さは・・・・残っている気が致しました。
昨年の秋、朽木雄六さんのお墓を見つけ、やっと所期の目的に達した思いで、半年ほど・・・御無沙汰になってしまいました。
びんさんにも是非見て頂きたいとは思いましたが、気候が悪くなり、そのままになってしまいました。
お約束の26日には、きっと喜んでもらえるだろうと思います。
あまり大きくはないのですが、「陸軍少尉朽木雄六温壽之墓」が、広い山中にポツンと苔むした状態でありました。側面には、読み切れませんが碑文も丁寧に残されていました。もう、ずいぶん長い間・・・・誰にも知られず・・・訪れる人もなく・・・24歳で戦死した前途有望の青年将校(あの乃木希典に匹敵する人物だったそうです)の無念さは・・・・残っている気が致しました。
_ やつしろ ― 2012年06月22日 03時08分29秒
本当にお忙しそうですね。26日、ムリしないで止めておきましょう。
_ やつしろ ― 2012年06月23日 00時22分55秒
朽木興聖寺本堂の外陣には、朽木雄六さんの肖像画があります。
彼の功績を慕う陸軍戸山学校の後輩が描いたものです。
また、乃木希典さんの書簡もあります。宛名は朽木さんには関係のない人ですが。
前の御住職とは、随分親交があったのですが、最近亡くなられました。
彼の功績を慕う陸軍戸山学校の後輩が描いたものです。
また、乃木希典さんの書簡もあります。宛名は朽木さんには関係のない人ですが。
前の御住職とは、随分親交があったのですが、最近亡くなられました。
_ BIN★→やつしろさん ― 2012年07月10日 14時10分07秒
先日は大変お世話になりました。講談本まで拝借させていただきました。
朽木村については、認識を新たにしました。
私は文章を書きながら、考えるタイプのようですので、先日の見聞の感想をまずブログに書こうと思います。
朽木村については、認識を新たにしました。
私は文章を書きながら、考えるタイプのようですので、先日の見聞の感想をまずブログに書こうと思います。
_ やつしろ ― 2012年07月15日 23時56分54秒
やっと、やっと、やっと、ブログが始まりますか?
どれだけ毎日、ここへ訪れて、虚しく引き返してきたことか!
それだけ、過去のブログは、貴重な存在だったのです。
お忙しいのは、よく分かっていますが・・・・御期待申し上げます!!
どれだけ毎日、ここへ訪れて、虚しく引き返してきたことか!
それだけ、過去のブログは、貴重な存在だったのです。
お忙しいのは、よく分かっていますが・・・・御期待申し上げます!!
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
また、見つかることでしょう。
朽木雄六さん・・・・唯一の士官・・・少尉殿・・・
名は温壽(よしひさ)朽木村市場の人。家系は藩主朽木家より分れて、その家臣。父温綱(よしつな)の七男、安政元年(1854年)生まれ。
幼少より勇武を好み、潤達にして明敏、王政維新後藩兵を置いた時、僅か十五歳で歩兵隊長に命じられた。
廃藩の後、しばらく京都に出たが、明治7年、政府の「将校養成人員募集」に応じ、明治8年1月、陸軍戸山学校に入学、明治9年3月卒業、陸軍少尉試補に任じられ、4月名古屋鎭臺歩兵第六聯隊に赴任し、6月第三大隊第三中隊付となる。
10年2月西南の役が起こり、直ちに出征、3月肥後に着陣。
4月15日、囲まれていた熊本城と連絡をとることに成功、30日に少尉昇進。
5月初旬に鹿児島に入り、22日未明、吉野街道に至る頃、敵の抗戦激しく、
銃丸胸に当たる。行年24歳。祇園島墓場に埋葬、遺髪を郷里に葬る。