
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
土台の柵の支柱は元は砲弾型ではないか~広瀬村の「忠魂碑」~ ― 2010/11/23
広瀬村は、旧高島郡のひとつの村でした。現在は、高島市安曇川町内。そこで見た忠魂碑は、興味深い点がありました。
外見は、剣熊村忠魂碑、今津町忠魂碑、安曇町忠魂碑とそっくりの先の尖った四角柱の形をしています。そして、今津町忠魂碑、安曇町忠魂碑と同様に、中程から折られています。土台の石組みもよく似ています。
私が注目したのは、柵を支える支柱でした。
見ての通り四角柱です。しかし、なんとなく違和感がありました。剣熊村の忠魂碑でも、今津町でも、安曇町でも、土台の柵を支える支柱は、円柱もしくは砲弾型でしたから。忠魂碑にたどり着くまでの比較的長い石畳の先端にその答えがありました。
わざわざ浅い意味のない穴があいた石材を並べるとは思えません。形から考えて、戦前には、忠魂碑の土台を囲む柵の一部(底部)だったと思いました。つまり、広瀬村忠魂碑は、再建されるときに、柵の支柱を取り替え、その形も、砲弾型から四角柱にしたのでしょう。なぜか。それは、砲弾型は、さすがに好戦的で、好ましくないと思ったからでしょう。
見て分かるように、どこにも、戦没者の氏名を刻んだ碑はありません。
外見は、剣熊村忠魂碑、今津町忠魂碑、安曇町忠魂碑とそっくりの先の尖った四角柱の形をしています。そして、今津町忠魂碑、安曇町忠魂碑と同様に、中程から折られています。土台の石組みもよく似ています。
私が注目したのは、柵を支える支柱でした。
見ての通り四角柱です。しかし、なんとなく違和感がありました。剣熊村の忠魂碑でも、今津町でも、安曇町でも、土台の柵を支える支柱は、円柱もしくは砲弾型でしたから。忠魂碑にたどり着くまでの比較的長い石畳の先端にその答えがありました。
わざわざ浅い意味のない穴があいた石材を並べるとは思えません。形から考えて、戦前には、忠魂碑の土台を囲む柵の一部(底部)だったと思いました。つまり、広瀬村忠魂碑は、再建されるときに、柵の支柱を取り替え、その形も、砲弾型から四角柱にしたのでしょう。なぜか。それは、砲弾型は、さすがに好戦的で、好ましくないと思ったからでしょう。
見て分かるように、どこにも、戦没者の氏名を刻んだ碑はありません。
砲撃戦の舞台「延坪島」~朝鮮ニ於ケル暴風雨被害ニ関スル件~ ― 2010/11/23
朝鮮半島で砲撃戦が起こったというニュースを聞きました。心に緊張が走りました。許されない行為です。事件の舞台となったのが「延坪島」でした。
事件の今後を見守りたいという思う一方で、この島の歴史的過去が気になりました。
そこで「アジ歴」(「国立公文書館 アジア歴史資料センター」の略)の簡易検索で調べてみました。侵攻した日本軍がここで戦火を交えた記事は、幸いにも見つかりませんでした。その代わり、ものすごい暴風雨による被害記録が出てきました。死者4名、行方不明13名、負傷者144名、船舶全潰264隻、半潰30隻、行方不明30隻、遭難者1776名。
今回の砲撃戦も偶発的なものに終わり、これ以上の被害者も出さないことが大事だと思います。その上で、原因と責任をあいまいにせず、再発を防止する措置を求めます。
事件の今後を見守りたいという思う一方で、この島の歴史的過去が気になりました。
そこで「アジ歴」(「国立公文書館 アジア歴史資料センター」の略)の簡易検索で調べてみました。侵攻した日本軍がここで戦火を交えた記事は、幸いにも見つかりませんでした。その代わり、ものすごい暴風雨による被害記録が出てきました。死者4名、行方不明13名、負傷者144名、船舶全潰264隻、半潰30隻、行方不明30隻、遭難者1776名。
今回の砲撃戦も偶発的なものに終わり、これ以上の被害者も出さないことが大事だと思います。その上で、原因と責任をあいまいにせず、再発を防止する措置を求めます。
朝鮮ニ於ケル暴風雨被害ニ関スル件
六月二日午前二時半ヨリ同十時迄黄海道平安南道及平安北道ノ各道西海岸方面ニ暴風雨襲来シ黄海道海州郡松林面延坪島付近ノ被害最モ激甚ヲ極メ五日迄ニ判明セルモノ死者四名、行衛不明十三名、負傷者百四十四名、船舶ノ全潰二百六十四隻、半潰三十隻、行衛不明 三十隻、遭難者千七百七十六名、損害見込額三十四万円ニ達スル

西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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