お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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これは葛川村の「忠魂碑」でした。朽木村と誤認しました。おわびし訂正します。2010/11/29

朽木村「忠魂碑」にも、戦没者名簿の碑はない
 11月23日に掲載したこの記事を訂正します。
 上記の忠魂碑は大津市(旧)葛川村のものでした。隣接する朽木村のもの誤認しました。訂正しおわびします。以下の記事は、誤認した部分を削除すれば、まだ妥当だと思いますので、残しておきます。
 《先端の尖った四角柱》の忠魂碑は、高島郡で確認したのは5柱でした。建設された順番からいけば、大正9年10月に今津町、大正11年に剣熊村、昭和3年10月に安曇町、同年11月に広瀬村という順番です。
 大正9年に今津町で建設されたときには、自然石そのままを使った川上村の忠魂碑(大正4年3月)と百瀬村の忠魂碑(大正6年4月)はすでに存在していました。今津町の忠魂碑は、いわばこの形の高島郡のパイオニアといえるでしょう。
 そして、その形は、剣熊村、安曇町、広瀬村と引き継がれました。
剣熊村の忠魂碑(大正11年建立)
 ただ剣熊村「忠魂碑」は、碑本体と台座までは、今津町、安曇町、広瀬村のものとそっくりですが、柵で囲まれた広い土台の部分は存在しません。斜面に置かれていますので、そのスペースがなかったからだと思います。

無傷と思われる忠魂碑 (当初は朽木村と誤認、実は葛川村)2010/11/29

無事な姿でのこる旧朽木村の忠魂碑
9月29日のこの記事。「葛川村」の忠魂碑を「朽木村」のものと誤認して、書きました。間違いでした。まずは、削除せずに、間違いを広げることを止める方法をとります。

以下、誤解をして書いた記事です。
(2010年9月29日)
私の仕事のエリアは、大津市と高島市。
仕事で巡りながら、見つけては写真を撮りました。
もちろん、他の地域を旅行したり、たまに
仕事で出かけたときに、撮影することもあります。

日常的には、湖西地域。

高島市で見つけた忠魂碑は4柱です。
旧町名でいくと、朽木村、マキノ町
今津町そして安曇川町。
旧高島郡でどれだけの忠魂碑が
建てられたのか、私にはわかっていません。

上の写真は、朽木村の忠魂碑。
(*これが間違い。「葛川村」忠魂碑)

昔から今の地点で、
現在に残る姿で建てられていたのか
わかりませんが、
折られてはいない様子です。

なぜ、今津と安曇川で折られ、
朽木では折られていないのか。


こういう疑問は当然出てきます。

わが街の光景から2010/11/29

ヘルパーさんに付き添われて風呂屋さんへ
カミさんと用事があって高齢者を訪問。
偶然、戸口で出会いましたが、
これからお風呂に出かけるところだそうです。
ヘルパーさんに付き添われて
近い道のりをゆっくり歩を進めます。

その後姿を撮らせてもらいました。


旧い街なので、
銭湯文化がまだ生きています。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)