お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

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「幕末維新の軌跡」@霊山歴史館2011/09/07

「幕末維新の軌跡」@霊山歴史館
 休日をとることを突然決めた。お盆以来休んでいないが、休める条件がなかったからだ。仕事場の段取りは前日につけることができた。
 さて、その朝、カミさんが仕事に出た後、部屋の片づけをするか、それとも・・・と考えていた。ネットで検索していて、京都霊山護国神社に行こうと決めた。大津市にある護国神社は、あまりにさびれている。靖国神社は見てみたいが、午前9時から思い立って行くには遠い。そこで、近場で探した。Wikipediaで見ると以下のような起源をもつ。
1868年6月29日(慶応4年5月10日)、明治天皇から維新を目前にして倒れた志士たち(天誅組など)の御霊を奉祀するために、京都・東山の霊山の佳域社を創建せよとの詔・御沙汰が発せられた。それに感激した京都の公家や山口・高知・福井・鳥取・熊本などの諸藩が相計らい京都の霊山の山頂にそれぞれの祠宇を建立したのが神社創建のはじまりであり、招魂社である。靖国神社より古い歴史を持つ。
 そういえば、坂本竜馬の墓碑があるところである。
 二人の息子さんたちは、まだ大学が始まらないのを前日に聞いていたので、誘ってみることにした。誘いに応じたのは、K君。
 八坂神社の近くだから、適当に歩けばいける。歩いているときに、看板を見つけた。・・・「霊山歴史館」?
 まともに調べなかったので、これがあるのさえ知らなかった。K君に付き合ってもらっているので、サービスのつもりで、見学することにした。
霊山歴史館
決して大きくはないけれど、解説映像などが三か所で見ることができる。歴史的なつっこみは浅いが、K君は興味深げであった。私は・・・池田屋や近江屋の死闘をリアルに再現することは、悪趣味だと感じた。

霊山墓地(旧霊山官修墳墓)の入場口2011/09/07

霊山墓地の入場口。300円を払う。
 私が京都霊山護国神社を訪れた目的は、「霊山墓地」にある。2009年以来、坂本竜馬のブームとなり、その墓碑目当ての訪問客が増えている。しかし、私は、どの墓碑にも関心がある。
 霊山歴史館で霊山墓地の案内地図を購入し、それをK君が手にして私を案内する形となった。あらかじめ墓碑の位置がわかってしまったら、楽しみは半減する。どうせ、すべての墓碑の写真を撮るつもりだから、発見する楽しみを味わいながら廻ろうと思った。だが、それが原因で失敗をすることになるのだけど。
 霊山墓地の存在を知ったのは、木戸孝允を扱ったTV番組によってである。この墓地の中心墓碑は木戸の墓碑である。それだけではなく、この墓地の建設の中心人物が木戸であったという。
 墓碑数は386柱。
 護国神社の横手から入る。その入口の俗っぽさに、人気の高さを知る。料金は300円。
 墓碑は、急な丘陵に並んでいいる。通路は一定整備されているが、ジグザグしている。坂本竜馬の墓碑の前だけが、足場が整備されている。多数が集まってもいいようにできているのだ。

私の失敗~大村益次郎の墓碑の見落とし~2011/09/07

大村益次郎の墓碑は一つ左にある・・・
 私は司馬遼太郎の史観には賛成できないけれど、小説は好きである。小説『花神』の主人公は、明治陸軍の創設者・大村益次郎である。大河ドラマでは、堅物で合理的な精神の持ち主の魅力を中村梅之助が見事に演じていた。司馬良太郎の手腕は見事である。
 自宅に帰って、霊山墓地の墓碑の案内図をはじめてゆっくり見てみた。真ん中あたりに、大村益次郎の墓の文字がある。ところが、私はそれを見ていない。すべての墓碑を見て写真を撮ったつもりなのに・・・記憶にも写真にもない!!
 図版と多数の写真を見比べながら、その姿を追うが、両隣の墓碑の写真はあっても、大村益次郎だけがない。少し離れたところから撮影した写真の中に、その墓碑が写っているはずなのだが、名前を確認できなかった。
 すべての墓碑の名前を見て歩いたつもりなのに、気に入った小説の主人公の墓碑に出会えなかったことに落胆した。
 しかし、あきらめずに、調べていて、意外な事実を知った。それは、大村益次郎の墓碑は、この名前が刻んではいない。「村田蔵六」とも、刻んでいないのである。
 私が写真で見つけた墓碑の横には、「大村益次郎」という解説板がつけてあるが、碑文は「大邨君之神霊」であった。
 そのときも木の説明版があったのだろうか、それを見落とすなんで・・・見取り図をきちんと見ていれば、見逃すはずがないので悔しさは残る。

 タイトルの写真では、大村の墓碑の一つ右手の墓碑(山田善次郎)で切れていて、下の写真では、左にある墓碑(長屋水之進)で切れている。アナイハアラマホシキカナ。
一つ左に・・・

 大村益次郎の碑や墓碑はいくつかある。靖国神社、大阪国立病院など。遺体をかかわる墓碑は、山口県にある。

「木戸公神道碑」 その12011/09/07

「木戸公神道碑」
 京都霊山墓地で「神道碑」という碑に、はじめて出会った。
 神道碑とは、墓所の墓道に建てる頌徳碑のことである。勅令で、以下の8つの碑が建てられた。
○毛利公神道碑(毛利敬親) 明治29年
○木戸公神道碑(木戸孝允) 明治39年
○大久保公神道碑(大久保利通) 明治43年
○三条公神道碑(三条実美) 大正14年
○大原公神道碑(大原重徳) 大正14年
○広沢公神道碑(広沢真臣) 大正14年
○島津公神道碑(島津久光) 大正15年
○岩倉公神道碑(岩倉具視) 大正15年

「木戸公神道碑」 とその周辺2011/09/07

「木戸公神道碑」
 明治天皇の勅命でつくられた神道碑。木戸孝允のそれは二番目のものである。
 周囲に夏草が生え、荒れた感じがある。その廃墟のなかで、屹立する神道碑は、異様さと威厳の両方を感じさせる。
 この「木戸公神道碑」と斜面の頂上あたりにある木戸自身と妻の墓碑は、他の画一的に造られた小さな勤王の志士たちの墓碑群を圧倒している。そのことに、強い印象を受けた。

木戸孝允の墓碑2011/09/07

木戸孝允の墓碑
 霊山墓地で現在一番有名な墓碑が坂本竜馬の墓碑であったとしても、主役は違う。この墓地の主役は、木戸孝允である。
 墓地のには、坂本竜馬、高杉晋作、大村益次郎などの維新の英傑の名前が彫られた石碑は存在する。しかし、それらは、すべて小さく細く、画一的であり、木戸のそれに比べれば、墓碑というよりは(失礼な言い方で申し訳ないが)道場の壁に張られた名札のようにさえ感じる。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)