お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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「歩兵二等卒藤嶋芳松墓」に思うこと2011/09/22

「歩兵二等卒藤嶋芳松墓」
 先の記事の続きです。
 すでに紹介しましたが、この墓碑の碑文には、藤嶋芳松は、巡査に乱暴を働き、監獄に入れられ、そこで亡くなったと刻まれています。
・・・・飲酒酩酊巡査ニ対シ口論□殴打シ鼻孔ヨリ出血ニ至ラシムル科同年六月廿三日ヨリ重禁錮四ヶ月被申付 ・・・
 葬った側である大阪鎮台の認識がそうであったことはわかります。しかし、芳松自身がどう考えていたのか、たとえば、それは別人だとか、誤認だとか主張していたかも知れません。芳松の弁明は、今に伝わることではありません。
 たとえ、そういう行状と死に様が事実であったとしてもです。それを未来永劫に(とはいえませんが、すくなくとも120年以上は)残る石の墓碑に刻むことが正しいとは思えません。不名誉の記録をずっと背負ったまま埋葬されるのは、不憫だと私は思います。先にも書きましたが、それは死んでも懲罰を加えるのと同じです。私は、そういう兵卒がいたという事実を今につたえる墓碑というよりも、非人間的な扱いをした軍隊が(日本に)あったことを伝える墓碑として貴重だと思いました。

 芳松の個人的事情は知るよしもありませんが、そのような行状にいたった社会的背景はあるのかという点ですが、 『陸軍墓地がかたる日本の戦争』(ミネルヴァ書房)は、滅び行く士族の子弟の憤懣を挙げています。
 碑文の経歴は次のように刻まれています。
滋賀県近江國犬上郡彦根□士族□吾三男万延元年十月十日生
 あと・・・疑問は、なぜ、藤嶋吉松の墓碑が、旧大津陸軍墓地になくて、旧真田山陸軍墓地にあるのか。第九聯隊で規律違反や犯罪を犯した兵卒は、大津から大阪まで運ばれ、そこで収容されたということなのでしょうか。

BIRTHDAY CAKE2011/09/22

BIRTHDAY CAKI
K君のバースディケーキ。
今年はK君の日も、H君の日も
家族全員が揃わなくて、
ふたつともケーキは小振り。
夫婦はしっかり皆勤。
すべてのケーキをいただきました。

おいしそうに写っていないし、
ロウソクの本数も適当。
それでもプレゼントは
忘れていませんでした。

「広島YWCA ヒロシマの今から過去を見て回る会」(サイト)を見て2011/09/22

 「広島YWCA ヒロシマの今から過去を見て回る会」というサイトに触発されて、被爆地としてではなく、軍都としての広島を見てみたいと思うようになりました。
 広島には二三度行きましたが、比治山陸軍墓地の存在を知りませんでした。機会はあったはずなのに、残念なことです。
 旧真田山陸軍墓地でも、旧大津陸軍墓地でも、当初のままではなく、改変が行われています。旧真田山は学校用地のために削られた様子ですし、大津陸軍墓地はバイパス道路建設のために移設を余儀なくされました。比治山陸軍墓地は、軍部そのものによって、ひどい仕打ちを受けたと書かれています。整然とならんでいる姿はもはや見ることができません。無縁塚のように集積された姿だそうです。それでも、見たいと思いました。

四つの日露戦争合葬碑@旧真田山陸軍墓地2011/09/22

四つの日露戦争合葬碑@旧真田山陸軍墓地
軍隊がもつ階級制。
目にみえる形で示す四つの日露戦争合葬碑。

右手が大きく、順番に小さくなります。
その写真をもう一度上手に撮りたいと思いました。

将校の墓碑が最も大きく、
兵卒の墓碑は最も小さくなっています。
犠牲者がもっとも多かったのは兵卒なのに。

墓碑の大きさの違いを
当然視するのが軍隊です。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)