お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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初盆2011/08/15

初盆
 初盆の風習は土地によって違いますが、お葬式と変わらないお供え物がありました。お葬式と違うのは、三日間にわたり、早朝から夜まで、断続的に弔問客があること。お葬式よりも、大変でした。

西南戦争を受け継ぐ記憶~じゃんけん歌~2011/07/23

 私に西南戦争の体験記憶があるわけではありません。しかし、「一かけ、二かけ」という歌の形で、記憶にしみついています。私の歌詞の記憶は断片的ですが、「明治十年」と「西郷隆盛」という文言は覚えています。
ネットには次のような歌詞がありました。
一かけ 二かけて 三かけて 四かけて 五かけて 橋をかけ  橋のらんかん 手を腰に  はるか向こうを  ながむれば  一六、七の 姉さんが 花と 線香を手に持って  姉さん姉さん どこ行くの 私は九州鹿児島の 西郷隆盛娘なり  明治十年戦争で うたれて死んだ父親の お墓参りにまいります  お墓の前で手を合わせ なむあみだぶつと拝んだら  お墓の中からゆうれいが ふうわりふわりと じゃんけんぽん
 上の下線の部分ですが、私が覚えているのは、次のような歌詞です。
「私は、西郷隆盛娘です、明治十年三月三日(*史実では9月24日)切腹なされし父上のお墓参りに参ります」

 私は琵琶湖の畔の街に住んでいます。西南戦争の戦地(九州)とはずいぶん離れた土地です。しかし、この戦役を身近に感じ、その戦没者の記録と墓碑を探すことになったのは、幼いころの別の記憶があるからです。大津市の三井寺境内の御幸山には、巨大な「紀念碑」が存在します。めったに人が立ち寄らない場所にあり、荒れてはいますが、その威容は子ども心にも、強い印象をもたらしました。数年間にはじめて、それが西南戦争の碑であることを知りました。知った後に、もう一度見てみたいと思い、時間をかけて探した経過があるのです。
 碑は、大津市と西南戦争の関係を理解する入口になりました。

十一時半のサイレンに驚き、そして納得2009/09/25

頭上から11時半のサイレン
 土山町のあるお寺の駐車場に車を止めたとき、大きなサイレンで驚かされた。それもそのはず、近くのあるポールから周りに聴こえるように鳴り響いている。
 もう鳴らなくてずいぶんの年月が経ったけれど、住んでいる街でも、12時にサイレンは鳴っていた。しかし、時間が少し早すぎる気がして時計を見ると十一時半。
 そうだ、これが十一時半のサイレンなんだと心で納得する。マキノ町や安曇川町では、60数年も続いたこの時間のサイレンが、合併して高島市になったことによって、市一律に30分後にずらされて、その地域の農家の人たちの怒りを買っていた。お昼に間に合うように作業を止めるために、正午の30分前に鳴らす慣わしだったからである。土山町は、合併したけれど、残っているんだと感心した。

岩田重則『「お墓」の誕生――死者祭祀の民俗誌』2008/11/07

岩田重則『「お墓」の誕生――死者祭祀の民俗誌』
 墓碑をよく取り上げるので、私は、よほど「お墓」に関心があると思われているはずです。しかし、2007年夏以前に「お墓」に興味を持つことはありませんでした。「お墓」は必要ないというのが私の考えで、家族を困らせていました。
 20年近く前に、数十万を出して新しい「お墓」を購入しようとしたときも、私は反対だったのです。
 カミさんは伝統とか風習を大切にしたいほうですから、とても合意をえられないのですけれど。ともかく、新しい家族の墓地と「お墓」はもっています。
 私が「そんものいらない」としたのは、感覚的に必要ないと思っていただけで、根拠とか理屈をもってはいませんでした。
 この本は、そんな私でも、いや私だからこそかも知れませんが、興味深いものでした。
 たとえば、次のような箇所です。
「お墓」とされる石塔の歴史は新しく、近世社会では徐々に建立が増え、それがさらに、近現代社会で拡大したものにすぎない。・・・この石塔についてみても、戒名を刻む個人のそれからはじまり、現在一般的に見られる先祖代々墓へと徐々に移行していった。石塔を歴史的にみれば、もっとも古くてもたかだか約四○○年をさかのぼるにすぎない。・・・石塔(=われわれがお墓と呼ぶもの BIN★)とは、現在をも含む近現代に浸透しつつある、現在進行形の社会現象であると理解する方が適切であると考えられる。
 つまり、墓と「お墓」はちがうのです。後者は近世以降のもの。
 学者の方に「たかだか」400年といわれても、十分古いじゃないかと思う方が多いでしょうけれど、埋葬の歴史は縄文時代よりも古いのです。そう考えれば、ごく最近の現象となります。
 これは、目から鱗のひとつでした。

現代日本における人間とその死との関係、もっとも具体的には、「お墓」という共同幻想としてあらわれているその関係は、石製の物体への跪拝としても存在していることになる。加工される以前、中国大陸にねむっている状態の花崗岩は、ただの岩石、自然物にすぎなかった。それが採石され原料として商品価値をもたされ、さらには、加工されることにより商品価値を高め、「お墓」として日本列島へやってくる。そしていま、このようにして、商品価値をもたされた「お墓」が、日本列島を席巻しつつある。
 土葬地域にせよ、民俗的火葬地域にせよ、古くからの民俗的な墓制は解体しつつあり、角柱型石塔による先祖代々墓として、現代の「お墓」に画一化されつつある。この画一的な「お墓」の誕生と不即不離の関係にあるのが、こうした商品価値をもたされた「お墓」の誕生でもあったように思われてならないのである。
 私は、自分の反発の意味がこれでようやく理解できたのです。

大津祭りの朝に2008/10/14

祭りの準備が始まっていました
滋賀県の大津市。
京都市に近すぎて独自の文化圏を
築くことが困難。
名前を聞いて、場所がわかる人は
多くないので、京都の隣とか、
琵琶湖のわきとか、いうと「あぁ」という。

「大津祭り」も、近世の大津百町の栄華を
伝えるものだが、どこかで見た光景ではある。

祭りの日には、それでも多数の観光客がある。
私の棲家は、祭りが行われるど真ん中にある。
人手や交通渋滞のために、楽しめない。



その日は、仕事。
午前7時前に街を歩く。
人通りの少ないまちで、準備がはじまっている。
地元ならではの写真を撮ってから、
車でいざ仕事へ。

あの「ナンバ歩き」は軍隊が直した? :吉田裕『日本の軍隊』2008/09/05

吉田裕『日本の軍隊 -兵士の近代史-』
昨日から、吉田裕さんの
『日本の軍隊  -兵士たちの近代史-』(岩波新書)
を読んでいます。
写真でもあるように、帯に、
「兵士の目線から近代日本を問う」というのが、
購入した決め手でした。

新書って表紙カヴァーの裏に数行の紹介がありますね。
それってなかなか有用なんです。

全体の主題なんかがわかりやすくかいてある。

1873年の徴兵令制定以来、文明開化の推進力となり、全国に近代秩序を浸透させる役割を果たした日本の軍隊。それが、15年戦争期のような反近代的で精神主義的な軍隊になってしまったのは、なぜか。日本の民衆にとって、軍隊経験とは、どんな意味があったのか。

要するに、こういう本を探していたのです。

まだ最初のほうですが、「ナンバ歩き」に目がとまりました。

「ナンバ歩き」って知ってますか?

右手と右足を同時に出す、つぎは
左手と左足を同時に出す、そうして
歩く・・・そういう歩き方です。
卒業式のとき、ガチンガチンになって
やってしまう、あれですよ。

それが明治まではふつうの日本人の歩き方であって、
それを現在のような歩き方に変えたのは、
軍隊での訓練のおかげ・・・ということになります。

この歩き方について聞いたのは、
これが二度目でした。
K君がなんかで話していました。
ブログでも書いたかな?

軍隊との関係で読んだのは、しかし、
これが初めてでした。

とりあえず、民衆の生活に深く影響を
与えているものとして軍隊を見る視点は、
なかなか興味深いものがあるということを
お伝えしたかったのです。

読み終わったら、まとまった感想を書きます。

「結界」が隠れているまち。2008/07/15

「鳥居」が見えますか?
幹線道路には、高層ビルとマンション。
いつでも壊せる平屋のチェーンストアが並ぶ。
無国籍的な建築とアルファベットの看板に
目が慣れてくると、
旧来の町並みが異国に思えてくる。

そこさえ、はげしく変わりつつある。
ビルに囲まれた寺院や神社、
旧家の隣に洋風建築。
いきなり出現する駐車場。
新しいものと旧いものが調和することなく、
存在しているわがまち・・・。



なにを大切にしているのかがわからない
まちになってしまったのが悲しい。
それでも、旧いまちは過去とのつながりを
残していて、神秘的であると思う。

ふつうに歩いていると鳥居が
そこにあることに気がつかない(一番上の写真)。
近づいてみると、なんとなく存在に気がつく(次の写真)。
なにげなく横を見て、驚くことになる(下の写真)。



鳥居は、もともと結界のしるし。
別世界への出口。
それが、細い街中にあることが
うれしい。

清水勲『ビゴーが見た日本人 風刺画に描かれた明治』(講談社学術文庫)2008/06/16

清水勲『ビゴーが見た日本人 風刺画に描かれた明治』(講談社学術文庫)
清水勲氏の著作。『ビゴーが見た日本人 風刺画に描かれた明治』(講談社学術文庫)は、岩波文庫の『ビゴー日本素描集』よりも、広範囲の主題を扱った風刺画が収録されています。なかには、戦後20年程度前までも残っていた風俗も見受けられるし、現在でもまだあるとさえ思うものもあります。ですが、・・・見ていてなんか気分がよくありません。ビゴーの絵が気に入らないのか、描かれた世界が気に入らないのか、あけすけに外国人に描かれたことが気に入らないのか・・・。

山車の上じゃなく地上で祭囃子。うけてました。2007/10/06

祭囃子をする子ども衆
山車の上ではなく、
地上で祭囃子。
小さな子がやっている姿がかわいくて
人気でした。

殺生石山のちょうちん2007/10/06

殺生石山のキャラクターはキツネ
殺生石山のちょうちんが気に入りました。
九尾のキツネ?

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)