お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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米占領軍の農婦銃撃事件(昭和22年7月2日)の記事@「読者のひろば」2010/11/19

米占領軍の農婦銃撃事件(昭和22年7月2日)の記事@「読者のひろば」
 熱い思いと行動力をもつ唐崎のTさんが中心となってミニコミ紙「読者のひろば」を毎週発行しています。その11月7日号がこれでした。
 大津市は、昭和20(1945)年の終戦まで、日本陸軍の基地や航空隊がありました。そこへ、戦後、米軍が駐留部隊としてやってきたのです。外国軍の進駐は、もちろん初めてのことであり、ジャズやダンスなどの文化ももたらしましたが、さまざまな不幸な事件も起こりました。
 その一つが、上記の「農婦銃撃事件」でした。

軍事基地の強化と経済振興の狭間で揺れるまち~滋賀県高島市『饗庭野演習場周辺対策に係る要望書』(2009)から~2010/10/26

第十戦車大隊の74式戦車@今津駐屯地
 沖縄では、米軍基地の被害と政府による経済振興の関係は、いわばアメとムチの問題として、複雑なからみあいをもっています。それらを乗り越えて、普天間基地をかえせという総意は、尊重されなければなりません。
 基地と地域経済の問題は、なにも、沖縄だけの問題ではありません。明治8年の大阪鎮台大津営所の設置以来、軍都となった大津市では、京都府伏見への統廃合の際に、市長先頭に陸軍の撤収反対運動をしたときいています。
 昨日、机の中を整理していて見つけた書類(コピー)があります。『饗庭野演習場周辺対策に係る要望書 滋賀県高島市』。2009年のものです。
 前文を一読しただけで、「基地のまち」の屈折した行政担当者の立場が感じられます。
・・・本市は、明治19年に饗庭野が旧陸軍演習場として試用に供されて以来120年余、本市の中央に位置することから、常に「基地のまち」として、現地部隊との共存共栄のもと、まちづくりを進めてきたところですが、時代の変遷と社会情勢の急激な変化の中で、住民のニーズは、安全安心対策をはじめ、多種多様化とともに高度化しております。
 また、最近では、今津駐屯地の隊員数が部隊の削減、再編等により減少し、あらゆる方面にその影響を及ぼしているところです。
 このような状況にあって、近年、饗庭野演習場の使用が従来にもまして拡充されたことに伴い、場内からの濁水の流出、ヘリコプターおよび実弾射撃による騒音、振動障害はもとより、住民の憩いの場として古くから利用されてきた饗庭野への立ち入り制限の強化や、市内各地域での徒歩訓練も頻繁に実施されており、住民の演習場に対する意識の変化とともに、演習場着弾地周辺地域におきましては、その被害意識がますます高まっている状況となっております。
 このようなことから、防衛力の基礎となる防衛施設の安定的な使用の重要性に鑑み、周辺地域住民の理解と協力、国防に対する意識の醸成を強く推進することが、本市行政の責務であろうかとは存じますが、本市のみの対応には限界もありますことから、貴職(=防衛大臣、防衛事務次官、陸上幕僚監部陸上幕僚長、航空幕僚監部航空幕僚長、近畿中部防衛局長、陸上自衛隊中部方面総監、陸上自衛隊第3師団長)におかれましてもより一層のご高配を賜りますようお願いいたします。
 騒音や環境対策など当然の要望のほかに目をひいたのは「2.今津駐屯地への新たな部隊の編成と隊員の増員について」です。
平成16年に決定された、いわゆる「新防衛大綱」により、陸上自衛隊の組織改編や編成定数が縮減され、旧第2営舎に所在した第3特科連隊第5大隊も平成18年3月、41年間の歴史に幕を閉じ、現在は来演部隊の廠舎として利用されていますが、周辺地域は以前に比べ閑散とした状況となっております。
 ・・・昨年度、新たな常駐部隊として移動監視隊約50名の配置がなされ、また、本年度末には無人偵察機隊の編成もあり、大変心強く歓迎しているところですが、今津廠舎の有効活用という観点から、陸曹教育に手狭だと聞き及んでおります大津駐屯地からの教育部隊の移駐について検討いただき、更なる常駐部隊の配置ならびに隊員の復元増員について格段のご配慮を賜りますようお願い申し上げます。
 現高島市の苦境と行政の考えがどのようなものかは、わかります。さらに、2010年度に、どういうものが要望されたのか、知りたいと思います。
平和運動が住民の中に根をもつためには、この複雑さをよく理解し、ともに揺れながら、経済振興もあわせてすすめる必要があると思います。

『米軍基地なくせ 沖縄県民に連帯する夕べ』@滋賀県2009/12/08

『米軍基地なくせ 沖縄県民に連帯する夕べ』
 『米軍基地なくせ 沖縄県民に連帯する夕べ』の開会は午後6時30分。この種の集会に出たいと思いながら、仕事とぶつかることが多くて、あきらめることが続いていました。今晩は、遅刻することになりましたが、参加することができました。
 沖縄なら歌と踊りがでるところですが、DVD上映、辺野古支援に行った若者の報告、そして、講演。集中度は高かったのですが、静かな集会だと私は思いました。もっと騒いでもいいのではと。

『米軍基地なくせ 沖縄県民に連帯する夕べ』@大津市(チラシ)2009/11/30

『米軍基地なくせ 沖縄県民に連帯する夕べ』@大津市のチラシ
ファックスでいただいたチラシですが、
勝手にブログに載せることにしました。
いい取り組みは、たくさんの人に知らせた方がいいと思って。
普天間の基地の沖縄県内たらいまわしはダメ
米軍基地は日本にいらないの声を全国から。

11・8沖縄県民大会にヴァーチャル参加!2009/11/11

へのこへのこ旗で参加しました(BIN★)
BIN★は、ばるタンさんに連れられて、
沖縄の県民集会に参加しました。
(う~ん、いつの間に)
そのときの写真です。
ばるタンさんのブログ
「犬と歩けばゴミを拾う in 沖縄」
にあった
「へのへのこちゃん」旗の写真が
欲しくて送ってもらいました。
ありがとうございます。
「へのへのこちゃん旗」(ばるタンさんのブログにあったもの)
 私は、ヴァーチャル参加ですけれど。気持ちは同じです。
集会の正式の名前は、「辺野古への新基地建設と県内移設に反対する県民大会」。
「米大統領に強く訴えを」=普天間移設問題で県民大会-沖縄
11月8日14時18分配信 時事通信

 米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の県内移設反対を訴える県民大会が8日、同市の宜野湾海浜公園で開かれ、県内外から約2万1000人(主催者発表)が参加した。伊波洋一宜野湾市長が登壇し、「来日するオバマ米大統領に沖縄の米軍基地がいかに負担となっているか、(移設先とされる名護市の)辺野古の海がいかに貴重な海であるか、鳩山首相から強く訴えてほしい」と語気を強めた。
 日米地位協定の改定を求め、仲井真弘多知事と訪米中の松沢成文神奈川県知事が、県外・国外移設は不可能と発言したことに、沖縄県議の新里米吉大会事務局長は壇上で「県民を愚弄(ぐろう)する身勝手な発言だ」と批判した。
 会場を訪れた宜野湾市の無職新垣仁英さん(68)は「県内に移設されても危険な飛行場であることは変わらず、納得できない」と述べた。  那覇市の会社員石嶺淳也さん(35)は、政府の説明を「不十分」と感じて参加したという。移設先について「息子のためにも県外(移設)を望んでいるが、現実的に可能かどうか」と話した。
 大会では「新政権は米側の圧力に屈せず、対等な日米交渉で県民の声を堂々と主張すべきだ。小さな島沖縄にこれ以上基地はいらない」とする決議を採択した。

10月9日から日米合同演習@あいば野演習場2009/09/27

日米合同演習に参加する74式戦車
 以前にブログで書いたことですが、防衛庁が饗庭野(あいばの)での日米合同演習の日程を明らかにしたそうですね。来月10月9日から18日まで。まもなくということになります。
 滋賀民報に次のような記事がありました。
 訓練に参加するのは、陸上自衛隊が第3師団第7普通科連隊基幹(京都福知山市)の約680人、米陸軍は第42歩兵師団第1-69歩兵大隊基幹(ニューヨーク州兵)の約200人、小銃、機関銃、対人狙撃銃、対戦車誘導弾、迫撃砲、155ミリ榴弾砲、てき弾発射機、74式戦車《上の写真です=BIN★》などの武器を使い、基本射撃、戦闘射撃、市街地戦闘、ヘリボン(ヘリコプターでの攻撃)、斥候(せっこう=偵察)の機能別訓練(10日、11日、13日、14日)と総合訓練(15~17日)、ホームビジット(米兵が家庭訪問、12日)を予定しています。
 10月3日に、抗議集会が予定されています。集会には、近畿各地から人が集まってきますが、私には、地元の人たちの参加や気持ちが気になります。抗議して去っていく人たちの目には、反応が鈍いとか思われるかもしれませんが、自衛隊基地とともに生きていくことを余儀なくされているわけで、その心を捉える抗議行動が望まれると思えるのです。

中島峰夫『饗庭野 高校生のための社会科読本4』2009/09/16

中島峰夫『饗庭野 高校生のための社会科読本4』
 あいば野演習場(高島市)の歴史については、この本がお薦めです。
 高校の社会科教員の中島峰夫さんが編んだもので、演習場の起源から、(出版は2007年なので、この時点までの)8回にわたる日米合同演習まで、本文と資料がついています。
 本文は、戦前編(10章)と戦後編(22章)に分かれていて、読みやすく、網羅的でもあります。
 資料編は、自衛隊の編成や年表などです。
 まえにも紹介しましたが、今、あらためて興味のある方にお薦めしたいと思いました。
 自費出版なので、購入を希望される方は、ご本人まで連絡をということになりますが、私にメールいただければ、お伝えします。
 書店にもあるかも知れませんが。
 ちなみに、同氏には、『軍都・大津』(2000年)、『続 軍都・大津』(2002年)という著作もあります。

日米合同演習 ~見つめる視点が大切になります~2009/09/15

今津駐屯地55周年記念行事の一場面
 ネットで「日米合同演習」を検索すると、それに反対するさまざまな団体の記事が目立ちます。それはそれで心強く思えたのです。
 私が注目したのは、報道記事です。
 「基地の街」の人たちの心情は複雑だと思います。高島市でも、自衛隊の海外派兵反対のデモや集会がやられますけれど、全市民的な集まりというには、遠い気がします。「よその人たちばかりが集まっている」という中傷があるのも事実です。
 自衛隊員とその家族が多く住んでいる上に、基地があることによって予算的に潤ってきたいう事情もあるのでしょう。
 そういうしがらみに着目し、そのなかで、どういう思いで、合同演習を見つめているのかという切り込みは、報道記事として、意味のあるものだと思います。
 しかし、「これはいかがなものか?」というものもあるのです。
 合同演習がある場合は、自治体に通知がされて、そこを通じて、市民が知ることになります。市民は不安をかかえながらも、平静を保ってきたというのが、この間の経過ではないかと思うのです。
 そういう市民に、演習を推進する立場から、積極的に接近を図るという動きがあります。問題は、それをそのまま報道することの是非です。
 以下の記事は、ある一般新聞の報道記事です。日付は2008年12月ですが、半世紀以上も昔の記事に思えたのです。当時は、占領軍に命じられて、占領軍のための宣伝をする記事がありえたと思うからです。
米海兵隊がもちつきエンジョイ 老人ホーム「清風荘」を訪問
2008.12.9 02:55
 高島市今津町のあいば野演習場などで陸上自衛隊と共同訓練を行っている米海兵隊の隊員20人が8日、同町の特別養護老人ホーム「清風荘」を訪問、もちつきやギターの演奏で、入所者らとの交流を楽しんだ。
 海兵隊員らの「地元の人たちと交流したい」との要望から実現した。隊員らは施設職員の手ほどきを受けながら、初めてのもちつきを体験。隊員らの慣れない手つきを、入所者らは笑顔で見守っていた。もちつきの後は、隊員がギター演奏を披露し、入所者から大きな拍手がおくられた。
 入所者側からは、毛糸の手編みのきんちゃく袋が、隊員全員にプレゼントされた。アントニー2等軍曹(27)は「入所者のみなさんが笑顔で楽しんでくれたのがうれしかった」と笑顔を見せていた。
 同市での海兵隊と自衛隊の共同訓練は、11月28日から行われている。

「饗庭(あいば)野陸軍演習場」について2009/09/14

 10回目の日米合同演習が行われる高島市の「あいば野」演習場の起源について、少し紹介します。
 陸上自衛隊は、北部方面隊、東北方面隊、中部方面隊、西部方面隊に分かれ、それぞれが演習場をもっています。あいば野演習場は、中部方面隊の演習場の一つです。
 この演習場の始まりなどについて、大正十五年の『高島郡史』(復刻版)での饗庭野陸軍演習場の項の記述を見てみると、
 明治十九年三月陸軍演習場として饗庭野を買収す。同年十二月滋賀県より聯隊各大隊二週間滞在して来年春早々演習施行につき差支えの有無答申照会あり。二十年春大阪鎮台砲兵聯隊(野砲兵第四聯隊)射撃演習の為め来たりしを始とす。
 となっています。
 明治19(1886)年は、プロイセン陸軍のメッケル参謀少佐が招聘された翌年にあたり、ちょうど、山県有朋などにより、軍の改革がはじまった年です。つまり、演習は、本格的に海外派兵を主任務とする軍隊へ変えようという動きと無縁では、なかったのでしょう。
 「饗庭野陸軍演習場」は、「其後同隊の所属地たり」と書かれています。こうして現在に至る恒久的な演習場となったわけです。
当時舎営は附近村落の民屋を以て之に充てたり。(明治)四十一二年に亙りて附近を買収して演習地を拡大す。総面積四百二十萬九十五坪。四十三年陸軍演習場規則を発布せられし為め、従来第四師団に属せしを第十六師団管理に移さる。
 日露戦争が終わったのが、明治三十八(1905)年ですから、明治四十一~二年は、その数年後になります。演習場の拡大は、侵略戦争の拡大と密接に結びついているのがよくわかります。
 引用している『高島郡史』は大正十五年版ですから、その年代までのことですが、
 其後当演習場を使用するものは、京都、伏見、奈良、大津、敦賀屯在歩兵隊、大阪、深山、由良、舞鶴、金沢屯在砲兵隊
 と書かれています。当然、米軍はありません。

あいば野演習場における過去の日米合同演習(メモ)2009/09/14

 先日、「日米合同演習反対 10/3 あいば野集会」 があることをブログで紹介しました。そのときに、「あいば野での日米合同演習は10回目」であることも合わせて、書いたのですが、その年代をすぐに思い出せませんでした。
 調べ直して、メモとして、残しておくことにしました。
 ちなみに、私は、このような合同演習が、海外で日米両軍が共同して戦争をする訓練であり、憲法を犯すものとして反対です。

■第一回目■
1986年11月24日から12月7日まで。
▽陸上自衛隊第35普通科連隊
(名古屋・守山  610名)
▽米海兵隊第3海兵連隊第1歩兵大隊
(沖縄 550名)

■第二回目■
1988年11月19日から12月1日まで。
▽陸上自衛隊第37普通科連隊
(大阪・和泉 543名)
▽米海兵隊機動展開部隊
(沖縄 620名)

■第三回目■
1991年11月22日から12月4日まで。
▽陸上自衛隊第7普通科連隊
(京都・福知山 730名)
▽米海兵隊第3海兵連隊第1歩兵大隊等
(沖縄 687名)

■第四回目■
1997年11月4日から17日
▽陸上自衛隊第46普通科連隊
(広島・海田 700名)
▽米陸軍第25軽歩兵師団第2-5歩兵大隊
(ハワイ 480名)

■第五回目■
1999年10月27日から11月6日
▽陸上自衛隊第33普通科連隊
(三重・久居 750名)
▽米第4海兵隊第3海兵連隊
(カリフォルニア 800名)

■第六回目■
2000年11月2日から18日
▽陸上自衛隊第15普通科連隊
(香川・善通寺 約750名)
▽米陸軍第25軽歩兵師団第1-27大隊
(ハワイ 約800名)

■第七回目■
2003年10月27日から11月9日
▽陸上自衛隊第36普通科連隊
(兵庫・伊丹 800名)
▽米第3海兵師団第4海兵連隊
(沖縄 850名)

■第八回目■
2006年2月19日から3月3日まで。
▽陸上自衛隊第8普通科連隊
(米子市 約350名)
▽米海兵隊第1-23予備役大隊
(テキサス 約250名)

■第九回目■
2008年11月28日から12月17日
▽陸上自衛隊第17普通科連隊
(山口 約250名)
▽米海兵隊第31海兵機動展開部隊
(沖縄)

とりあえずのメモです。
間違っている点があれば、ぜひ指摘をお願いします。

演習参加の各部隊についてお知りになりたい方は
以下のサイトを参考にしてください。

「在日米国海兵隊」のホームページは↓
http://www.kanji.okinawa.usmc.mil/Index.html
陸上自衛隊中部方面隊のホームページは↓
http://www.mod.go.jp/gsdf/mae/

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)