お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

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「男(草場)辰巳」の文字。それは、南京事件、シベリア抑留、そして東京裁判に連なる名前です。2008/03/01

「男辰巳」の文字@草場彦輔少将の墓碑(旧大津陸軍墓地)
 旧大津陸軍墓地に眠る将校で、もっとも階級が高いのは、草場彦輔少将。この人ばかりに気をとられて、この墓地で一番りっぱな墓碑を建てた人物に目が向いていませんでした。

●男辰巳

 この墓碑を建てた人物の名前は、左側面に刻まれています。「男辰巳」、つまり、息子である辰巳=草場辰巳中将でした。
 草場辰巳中将は、あの南京事件のとき、南京に突入した部隊の指揮を執っていました。南京に突入した師団の一つ、中島今朝吾中将率いる第16師団(京都)は、歩兵では二つの旅団からなっていました。一つは、佐々木到一少将(記録を残しています)率いる第30旅団、もう一つが、草場辰巳少将率いる第19旅団(第九連隊と第二十連隊)でした。
 南京事件で有罪で死刑となった野田毅少尉は、第九連隊第三大隊に所属していました。
 さらに、草場辰巳少将は、シベリアに抑留され、東京裁判の証人として日本に送られた3名の将校のうちの一人です。しかし、裁判直前に自殺。劇的な、そして不幸な最後を遂げています。

●草場辰巳中将の履歴

明治41年5月27日 陸軍士官学校卒業
明治41年12月25日 陸軍少尉
大正1年12月13日 陸軍大学校入校
大正4年12月11日 陸軍大学校卒業
昭和6年8月1日 陸軍歩兵大佐・参謀本部運輸課長
昭和8年8月1日 歩兵第11聯隊長
昭和10年3月15日 満洲国交通部顧問
昭和11年8月1日 陸軍少将
昭和12年3月1日 歩兵第19旅団長
昭和13年10月30日 第2野戦鉄道司令官
昭和14年3月9日 陸軍中将・関東軍野戦鉄道司令官
昭和15年10月1日 第52師団長
昭和16年11月6日 関東防衛軍司令官
昭和17年12月21日 第4軍司令官
昭和19年2月7日 参謀本部附
昭和19年11月30日 待命
昭和19年12月1日 予備役
昭和19年12月16日 召集・大陸鉄道司令官
昭和21年9月17日 東京裁判出廷前に自決

この経歴は、「軍人データベース サクラタロウDB」に依拠しています。

●草葉ひかるの祖父?

 草葉ひかるという歌手の祖父が、草場辰巳という文書があります。
「草場家の人々 ~ 草葉 ひかるの祖父 ~」
この真偽について、教えていただける方を求めています。

コメント

_ 通りすがりの者 ― 2008年09月09日 15時14分40秒

それは真実だと思います。

_ BIN★→通りすがりの者さん ― 2008年09月09日 16時45分52秒

コメントありがとうございます。
できたら、草葉ひかるについて
ご存知のことを教えていただきたく
思います。

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BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)