お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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広島と倉敷を一日で訪れる2011/09/24

 午前6時50分に京都駅を出発し、8時30分に広島到着。わずか2時間後には、倉敷に向けて出発。正午には倉敷で親戚と合流。夜の8時には、自宅に戻る---という一日を過ごしました。
 目的地は、広島の比治山陸軍墓地と倉敷の大原美術館。
 二箇所とも、じっくり時間をかけて見学したい場所でしたが、一日しか休暇がとれませんでした。
 それらについて、書いていきます。

サイトでの情報と実際に見ることの違いについて2011/09/24

比治山を登る途中にある案内の真新しい石碑
 サイト『広島ぶらり散歩』の記事を参考に、わずか2時間の広島滞在時間を有効に使おうと思いました。そして比治山陸軍墓地だけを見ることにしました。
 このサイトには、比治山陸軍墓地の成り立ちやそこで見ることができる墓碑などについて、網羅的に書いてあります。新幹線の車のなかで、あらためて”復習”をしました。とても感謝しています。遠い土地なので、見落としたと後悔することは辛いことなので。

 さて、広島駅を下車して、市内電車に乗りました。駅からはわずか7分の距離。「比治山下」で下車して、カミさんと二人で坂を上り始めました。わずか標高77メートルでも、上り坂ばかりなので辛くはありました。サイトではわかっているはずの場所でも、実際に見るとなったら、気持ちの高ぶりがあります。
 さて、サイトで見た印象と実物の印象は、かならずしも一致しません。
 それらの違いの多くは、敷地の広さや墓碑の大きさにかかわっています。写真では、それらは、つかみづらいのです。たとえば、比治山陸軍墓地全体の写真を見ていましたが、旧真田山陸軍墓地や旧大津陸軍墓地と同じ感覚で、広大な墓地の一部が写っているのだと思っていました。
 それに、いくつかの墓碑の位置関係もそうです。記念碑などは、個々に紹介されています。しかし、それらがどう配置されているのか、全体のなかで、どう扱われているかなどは、そこからは伝わりません。それは、墓地を訪れての印象にかかわってきます。
 また、普通の共同墓地には、かならず建物があって、そこで墓参する人が休憩したり、お参りの準備をととのえることができます。
旧真田山陸軍墓地の(現在の)入り口
 旧真田山陸軍墓地(上の写真)には、そういう施設はありません(地蔵の小さな建物は後からつくったもの)。全体の印象は、ひたすら墓碑が並んでいるというものです。旧大津陸軍墓地も、同様です。陸軍墓地はそういうものとは無縁だと思っていました。
比治山陸軍墓地の入り口
 ところが、比治山陸軍墓地は、集落の共同墓地と同じで、上の写真のように、入り口に参拝者用の建物があります。これは、当初の陸軍墓地のあり方とは違っているはずです。比治山の陸軍墓地は、激しい運命の波に洗われました。軍が高射砲の設置のために、破壊を企てたり、原爆の被害にあったり、米占領軍の破壊にあったり。元の形を見ることも大事ですが、そういう運命を見つめる墓地にもなっていると思います。

 すでに、「広島ぶらし散歩」のような詳しいサイトがあるし、ブログでも書いている方は多数いらっしゃると思います。ですから、私は、違う角度で、つまり、自分の印象を中心にして、紹介するようにしたいと思います。

「比治山陸軍墓地略誌」(比治山陸軍墓地保存協賛会:昭和39年4月10日)2011/09/24

「比治山陸軍墓地略誌」(比治山陸軍墓地保存協賛会:昭和39年4月10日)
 比治山陸軍墓地が現在の姿になった経過を記した内容です。上が全体。写真を三つに分けて、ご覧いただけるようにしました。
 まず、右。
つぎに真ん中。
一番左の結びです。

現在の「比治山陸軍墓地」の「墓碑配置図」2011/09/24

現在の「比治山陸軍墓地」の「墓碑配置図」
 現在の「比治山陸軍墓地」が当初の墓地とは別物であることがわかりました。また、公ではなく、民間の有志によって再建されたこともわかりました。政府や米軍の仕打ちと無責任さには、怒りを覚えます。再建に携わった方々の苦労には、心からの敬意を表します。

 では、どういう基準で、再建されたのでしょうか。

 現在の配置図が参考になります。
 再建の方針は、時代の異なる墓碑を時代(戦争)別ではなく、出身地別に並べるというものです。昭和39(1964)年4月の「比治山墓地略誌」には、西南戦争にはじまり、15年戦争(日中戦争・太平洋戦争)にいたるまでの墓碑があると書かれています。そういう時代別の形態をとっていないのが特徴でした。

 実際に再建された墓地を見て、考え込まずにはいられませんでした。それは、つぎの記事で書きます。

再建された「比治山陸軍墓地」へ2011/09/24

再建された「比治山陸軍墓地」へ
 再建された比治山陸軍墓地が昭和19(1944)年以前とは別物であることがわかりました。それを承知で、今の比治山陸軍墓地に足を踏み入れました。入口の慰霊のための建物に入ると、墓地が見えてきます。
 元の形ではないことがわかっていても、ドキドキしてきました。墓碑はどのような形なのか、どういう人たちが葬られているのか、自分はなにを感じるのだろうか、などです。
 「陸軍墓地」の敷地に入るとすぐ右に「供養碑」がおかれています。これを見てみることにしました。

「不明墓碑五百余柱 供養碑」@比治山陸軍墓地2011/09/24

「不明墓碑五百余柱 供養碑」@比治山陸軍墓地
 現「比治山陸軍墓地」の入口の右手に「不明墓碑五百余柱 供養碑」がおかれています碑の下の説明ボードに書かれている言葉を写しました。
数奇の運命に弄ばれた陸軍墓地の現存の墓碑数は戦前に五百余柱が不足して現在行方不明となりました。23、4の若い尊命を国難に捧げて散った五百余柱の英魂いまいずこを彷徨しておられるか思うだに悲涙禁じ得ないのであります。参拝の皆様過去帳に眠る英魂に暖かい慰めのお言葉を賜わるようにお願い申し上げます。
   昭和52年4月 比治山陸軍墓地保存協賛会

 この説明ボードを読んでいまだに見つからない墓碑があることに驚き、憤りを感じました。同時に、これからの世界、とくにアジアで日本が尊敬される位置を得ようとしたら、戦争の加害責任に目をつむるわけにはゆきません。徹底的な反省を土台にしてECに確固とした地位を築いたドイツといまだに謝罪の言葉を公には表明していない日本の違いは歴然としています。日本の朝鮮半島、中国、フィリピン、ベトナムなどへの軍事行動によって、一千万人規模でアジアの人たちの命が失われました。碑文を書いた方の思い(上の説明ボードの「23、24の」以下の)はわかりますが、客観的には日本人だけしか目に入らない---身びいきでしかありません。
 私は違う意味で心が痛みました。

現「比治山陸軍墓地」のコンクリート製の土台2011/09/24

現「比治山陸軍墓地」のコンクリート製の土台
 現「比治山陸軍墓地」では、多数の個人墓碑を一つ一つ地面におくということをしていません。一つ一つをくっつけるようにして、並べてあります。
 土台は、まるで、野球場の観覧席のような形をしていいます。コンクリート製であることも同じです。
 上の写真は、入口と反対側から墓地を撮影したものです。土台の形がわかります。想像ですが、すべての個人墓碑を(ふつうの墓地のように)並べるスペース的な余裕がなかたのでしょう。

隙間なく並べられた兵卒らの個人墓碑@現「比治山陸軍墓地」2011/09/24

隙間なく並べられた個人墓碑@現「比治山陸軍墓地」
 個人墓碑の領域が現「比治山墓地」の多くを占めています。それは、野球場の観客席で観客がひしめきあって立ち上がっている姿に似ています(不謹慎な表現で申し訳ありませんが)。
 最前列の墓碑でも、見えるのは正面だけです。側面や背面を見ることができません。それ以降の墓碑は、上部がわずかに見えるだけにすぎません。
 一つ一つの墓碑に注目してきた私は、この姿に衝撃を受けました。そして、「これではまるで無縁塚・・・」という言葉を飲み込みました。公の援助が受けられないときに、自ら発意し、膨大な墓碑を拾い集め、修復し、名簿を作成された方々の苦労に思い至ったからでした。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)