お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争 その16 ~海城~ ― 2011/08/30
泉鏡花の小説『海城発電』の内容を、伊豆俊彦氏は、ホームページのなかで、次のように要約しています。
ですから、9月以前は、第二と第三大隊に属した兵卒、9月以降は、第二大隊の兵卒だと思われます。
一番上の写真は、念仏寺にある大伴圓蔵の墓碑の右側面の碑文で、下は同じ圓蔵の旧大津陸軍墓地にある墓碑の側面です。
「海城発電」は『太陽』一八九六(明治二九)年一月号に発表された。日清戦争当時、日本軍が占領した中国遼寧省の海城を舞台とする話である。捕虜になった日本の看護員が、清国の傷病兵の看護に尽力し、感謝状をもらって帰って来た。敵情を訊問された看護員は、夜の目も寝ず、ひたすら看護に没頭したから、敵情については何も見聞きする余裕がなかったと答えた。これに激昂した軍夫(軍の雑役をする人夫)たちは、国賊だとののしり、感謝状を破り棄てよと迫る。看護員は自分は戦闘員ではなく、赤十字の看護員であるから「職務上病傷兵を救護するには、敵だの、味方だの、日本だの、清国だのという、左様な名称も区別もない」と主張して、軍夫たちの脅迫に屈しなかった。軍夫たちは懲罰のためと称 して、この看護員を恋い慕う病気の清国人少女を引きずり出し、凌辱し、輪姦して、死にいたらせた。冒頭文はこれを目撃したイギリスの新聞記者が「海城発」として、本国の通信社に打電したものである。さて、その海城。『戦役経歴書 第九聯隊』によると、第二大隊と第三大隊が到着したのは、明治28(1895)年6月6日でした。第二大隊は11月23日までこの地に残りましたが、第三大隊は8月24日に海城を出ています。
ですから、9月以前は、第二と第三大隊に属した兵卒、9月以降は、第二大隊の兵卒だと思われます。
6月23日 海城 輜重輸卒 清水 常吉(134)上の名簿のなかに、先日、その墓碑の所在(出身地での)がわかった大伴圓蔵と井花長太郎の名前があります。死因は、『大津市志』に記述のある大橋卯三郎以外はわかりません。
6月27日 海城 一等卒 中村 竹次郎(13)
7月10日 海城 一等卒 高橋 彌三吉(183)
7月13日 海城 一等卒 坪田 石之助(142)
7月13日 海城 一等軍曹 小泉 音吉(B03)
7月15日 海城 二等卒 西川 十太郎(191)
7月16日 海城 一等卒 菅井 宇吉(100)
7月17日 海城 一等卒 小走 音松(205)
7月24日 海城 一等卒 阪本 竹松(38)
7月24日 海城 二等卒 井詰 嘉吉(159)
7月26日 海城 二等卒 吉村 広吉(4)
7月26日 海城 二等卒 大伴 圓蔵(大津市)(48)
8月 7日 海城 一等卒 川崎 利吉(18)
8月 9日 海城 二等卒 山田 元次郎(30)
8月11日 海城 一等卒 六條 伊蔵(61)
8月17日 海城 一等卒 竹内 栄次郎(17)
8月20日 海城 一等卒 松本 岩吉(146)
9月 5日 海城 一等軍曹 中沢 市次郎(B07)
9月 9日 海城 二等卒 井上 直蔵(203)
9月13日 海城 一等卒 大橋 卯三郎(大津市)(200)
9月13日 海城 一等軍曹 松室 重凞(B11)
9月14日 海城 一等卒 田畑 富蔵(175)
9月16日 海城 二等卒 青山 伊之助(71)
9月16日 海城 二等軍曹 中村 定次郎(B08)
9月18日 海城 二等卒 太田 竹松(106)
9月19日 海城 一等卒 前田 繁二郎(154)
9月21日 海城 二等卒 奥田 亀吉(114)
10月 5日 海城 一等卒 吉村 寅吉(102)
10月 6日 海城 一等卒 井花 長太郎(173)
10月16日 海城 一等軍曹 太田 末次郎(B13)
10月18日 海城 一等卒 田中 時松(140)
10月23日 海城 一等卒 宮田 梅吉(86)
一番上の写真は、念仏寺にある大伴圓蔵の墓碑の右側面の碑文で、下は同じ圓蔵の旧大津陸軍墓地にある墓碑の側面です。
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://nostalghia.asablo.jp/blog/2011/08/30/6080889/tb
※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。