お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

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明治三十八年九月現在の「露国俘虜収容人員表」2010/10/03

明治三十八年九月現在の「露国俘虜収容人員表」
日露戦争のときのこと。

日本軍が捕獲したロシア軍将兵は、
日本本国に俘虜として送られました。

その人員表を見ることができます。

「大津」の文字が見えます。
 
この表によれば、大津では将校クラスは一人もいません。
「下士」と「卒」あわせて750人。

先の記事では、まちがって2000人と
書いてしまいました。おわびします。

コメント

_ (未記入) ― 2010年10月03日 08時42分14秒

よく調べて頂いて、よく分かりました。

_ BIN★→八代さん ― 2010年10月03日 09時16分32秒

行政が・・・大津市が、「市史」「市誌」を、戦前戦後をつうじて、何度か編纂しています。その初期のものを見て、ロシア人俘虜の存在を知りました。
新しい版には、再録されていません。
市民とはなにかにかかわることですが、なにをもって、大事な記憶とするのかが問われてくる問題だと思いました。
明治初期から軍事基地が存在したこと、そして、日清戦争や日露戦争の時代に、俘虜を駐留させた経過があること、戦後は、米軍キャンプがおかれたことなどは、記憶されるべきことだと思います。
そして、その記憶をベースにしてこそ、そこに住むどの世代にも平和への思いが(他市に増して)築かれるのでは、なでしょうか。
高島市の場合は、なおさらでしょうけれど。

_ (未記入) ― 2010年10月03日 10時29分15秒

米軍キャンプ・・・・私の大学生活は、米軍キャンプと結構結びついています。
朝、飛行機の爆音で目が覚めます。際川に小さな飛行場があり、朝練が行われるのです。
もちろん双発か単発の小さな飛行機ですが、50メートルも離れてないので、メッチャ騒音でした。
今の自衛隊際川キャンプは、そのまま米軍のものでしたし、皇子山にもキャンプがありました。
米軍兵士はたくさんいましたから、町の中は兵隊相手の商売がいっぱいありました。
近隣の家で、オンリーさんに部屋を貸しているのが、たくさんあって、
刺激的な風景もいっぱいでした。
休みの日とか午後の自由時間には、自由外出をしますので、結構触れ合いがあり、片言の英語で話しもしました。
面白かったです。

ちなみにそれは、昭和28年4月から32年3月までの期間です。

_ BIN★→八代さん ― 2010年10月03日 18時01分15秒

 私が昔住んでいた場所は、米軍キャンプ地の近くでした。ご近所に歓楽街で働く女性がいて、米兵との間で、子どもが生まれました。その子は、私とほぼ同年代だったように思えます。いじめられていました。私とは仲がよかったのですが、あろとき、喧嘩となり、石を投げられました。頭に命中し、血を流しました。よくあることなのに、大人が割って入って、気まずいことになりました。その傷跡は、頭髪に隠れていますが、いまもあります。米軍キャンプの存在を私の体に刻んだ形になりますね。
 キャンプが撤退してからあとに、米兵は一人で戻ってきました。そして、母親とその子を連れて、ハワイへ行きました。その子の家の二階で遊んでいるときに、不意にあらわれた巨大な黒人兵に、驚愕しました。チョコレートはくれたのですが、飛んで逃げました。
 気の毒でしたね、それまでは。偏見と好奇の視線にさらされたと思います。暴れん坊だったのは、きっとそのせいだと思います。公衆浴場の湯船にむけて、ション弁小僧そのままのかっこうで、おしっこをしたことがありました。

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BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)