お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
「旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会」ミニ研究会への報告 ― 2008/03/23
2008年3月23日(日)の午後3時15分から約2時間行われたミニ研究会に、私が提出したレジュメの内容です。
●旧大津陸軍墓地の概要とその保存について
2008年3月23日
旧大津陸軍墓地は、琵琶湖を見下ろす丘陵地「大津市皇子が丘1丁目字部屋ヶ谷」にある。JRの西大津駅や京阪皇子が丘駅から、徒歩で10分かけて、坂道を登った先にある。
周囲は、公園や神社があり、当初の静かなたたずまいは、まだ残っている。
だが、この墓地の存在は市民にはほとんど知られていない。墓地の歴史的意義と保存についての市民的議論は、これからである。
戦後60年以上たちながら、荒廃をまぬがれているのは、市と護持奉賛会の努力によっている。
旧真田山陸軍墓地に「旧真田山墓地とその保存を考える会」があるように、旧大津陸軍墓地にも保存を考える会を現在つくろうと活動をはじめているところである。
Ⅰ.墓地の成り立ちについて
建設計画のはじまりと竣工
第四鎮台大津営所の出発は、1873(明治4)年の六鎮台制移行にある。これにともなって、第九連隊を大津に置くことが決まった。もともと軍事用の施設のない場所に設置されたために、工事に手間取り、連隊が入営したのは、1875(明治8)年3月のことである。
「埋葬地」の建設計画は、1875(明治8)年7月31日「第三十一号陸軍埋葬地取設旁御達」にはじまり、1877(明治10)年10月7日に竣工した。
営所が機能し始めると練兵による死者は避けがたく、現在の旧大津陸軍墓地には、入営から竣工までの期間になくなった軍人の墓碑が37柱ある。その最初の日付は、1875(明治8)年7月15日となっている。
第一段階 竣工時の形態
当初の形態は、丘陵地の坂に沿って、中央の通路をはさんで、上段・中段・下段という形をとっていた。上段は将校用、中段は下士官用、下段は兵卒用という秩序である。
第二段階 増設
この形態に変化が起こるのは、日清戦争(1894~95)以後である。 明治30(1897)年に、「大津埋葬地」の増設の願いが出され、同年6月17日に承認が下りた。
具体的には、中段の墓地を西に拡張するものであった。
旧大津陸軍墓地には、日清戦争にかかわって、将校1柱、下士官14柱、兵卒206柱の墓碑が置かれている。このうち、兵卒206柱の墓地がいちどきに必要となったためにこの増設となった。
第三段階 移設
旧大津陸軍墓地の保存にとって、重大な改変は、1976年に起こる。 バイパス道路が、旧大津陸軍墓地の中を走ることになり、下段が破壊され、中段に移葬されることになったからである。
したがって、保存という場合、現状そのものを残すというのではなく、もとあった形がどうであったのかが重大となる。
一見してわかることは、現在の旧大津陸軍墓地が、当初の三段ではなく、二段の形態をしているということである。下段が失われ、旧中段がいちじるしく西に拡張されている。
それだけではない。
新たな記念碑や宗教施設が創設された。
このようなバイパス工事による改変は、陸軍墓地をどう変えたか、また保存との関係でどう考えるべきなのか。
変化した点を挙げてみる。
第一は、兵卒の墓地として使われていた墓地がなくなり、当初の形態であった「上段・中段・下段」という三層構造から、上段と下段(旧中段)というから二層構造になったことである。
237基(全体の4割を越える)あった個人墓碑が、どこからどこへ移葬されたかは、確認することができた。しかし、死後もなお軍人が階級ごとに埋葬場所が峻別されていたことが目で見てわかる当初の構造は失われた。
第二は、騒々しいバイパス道路に直接隣接することにより、墓地としてのたたずまいは大きく損なわれた。
これは、バイパス工事だけのせいではない。この土地は「部屋ヶ谷」と呼ばれ、遺跡が散在する地域だった。それが、同じ70年代に住宅開発され、現在の千石台団地ができた。これも、陸軍墓地の遺跡としての環境をそこねることにつながったのだと思える
第三は、この工事により、墓地は打ち捨てられるのではなく、記念碑や供養塔などの建設で、行政によって位置づけられるようになったのではないだろうか。保全に努めてきた奉賛会の存在の大きさが反映していると私には思える。
付録 移葬の記録
1976年にバイパス工事のために、旧大津陸軍墓地の下段の墓碑237柱が掘り返され、移葬されることとなった。
埋葬当時は、土葬。そのために、強烈な異臭が漂う作業となった。座棺で葬られていて、骨は失われていたが、靴などはそのまま残っていた。同時に、大量の土砂が棺に入っていたという。
それぞれの兵士の遺留品は移葬した墓碑に埋めなおされたが、土はまとめて、「超日月光 霊土」の祭壇の下に埋められた。しかし、それだけでは収まりきらない量であった。
「ひとかけらといえども、道路の足蹴にしない」という奉賛会の意向もあり、その土は、「霊土」と名づけられて、もう一箇所別に埋める場所が確保された。それが、中段(現在の下段)の東側Bブロック付近である。 そこに目印として、「霊土」の碑が置かれている。
Ⅱ.現在の旧大津陸軍墓地の構造から
①上段
上段の墓地は、所有から見ても、内容から見ても、二つに分けることができる。
東側は、国の所有地であり、将校(および合葬碑)の墓地。これをAブロックと呼ぶことにする。
西側は、大津市の所有地であり、民間人(将校の親族)の墓地である。これをMブロックと呼ぶことにする。
実際の線引きは存在しても、外観のうえから、両者の境目を示すものは存在しない。
戦後、ここに慰霊碑が造られた。
②下段(旧中段)
当初は、中央の通路を挟んで、同じ大きさであったはずだが、現在は、西に二度にわたって拡張されているため、通路の西側が巨大となっている。
ここには、いくつかのまとまった墓地がある。
日清戦争の下士官の墓地(東側下手)。
Bブロックと呼ぶ。
当初からある下士官の墓地(東側山手)。
Cブロックと呼ぶ。
当初からある下士官の墓地(西側山手)。
Dブロックと呼ぶ。
これら3つは、1877(明治10)年に竣工された地所内にある。
次に、1897(明治30)年に西側に増設された地所には、3つの墓地がある。現在は、下段(旧中段)の中央にあたるところである。
日清戦争の兵卒(士官候補生1)の墓地(山手)。
Eブロックと呼ぶ。
埋葬地建設までに亡くなった軍人の墓地(下手)。
Fブロックと呼ぶ。
ロシア人俘虜の墓地(1柱)。
Gブロックと呼ぶ。
ロシア人俘虜の墓地は1柱だが、孤立しているので別ブロックにした。
バイパス工事で移設された墓地。合計、237柱。
兵卒の墓地(山手)
Kブロックと呼ぶ。139柱。
兵卒の墓地(もっとも西)
Lブロックと呼ぶ。98柱。
Ⅲ.彦根・大洞埋葬地からの移設
旧大津陸軍墓地は、その成り立ちからして、陸軍歩兵第九連隊にかかわる死者が眠る墓墓地である。たまたま、大津営所に赴任してなくなった下士官の墓碑や俘虜は例外といえる。
しかし、特別な事情で、移設された墓碑がある。
それは、四鎮台制時代に、彦根に置かれた小浜。大洞埋葬地からの移設である。
この事情を示す文書が残っている。
Ⅳ.合葬碑について
旧大津陸軍墓地には、合葬碑・記念碑が9基ある。そのうち、戦前の合葬碑は5基である。
( )内は場所。
明治三十七年戦役将校同相当官戦病死者合葬碑
(上段西山手側)
大正四年乃至九年戦役戦病死者之碑
(上段西下手側)
明治三十七年戦役准士官戦病死者合葬碑
(中段東側上手)
明治三十七年戦役下士戦病死者合葬碑
(中段東側下手)
明治三十七年戦役兵卒戦病死者合葬碑
(旧下段東側・現中段西側)
戦後に建てられたものしては、「大東亜戦争無名戦士之碑」、「日清日露第一次第二次世界大戦各戦役戦没之英霊供養塔」、「超日月光 霊土」、旧大津陸軍墓地移転対策委員会の碑、「霊土の碑」である。
旧真田山陸軍墓地と同様に、日露戦争の合葬碑は4柱あるが、別々の場所にあるのが特徴である。このうち、兵卒の合葬碑は、バイパス工事の関係で中段に移設されている。
Ⅴ.個人墓碑について
個人墓碑は、1976年の調査(大津市)のときは、565柱確認されているが、現在は、564柱しか存在しない。1柱失われている。 その内訳は、将校の墓碑が、20柱。下士官が54柱。士官候補生1柱。兵卒が478柱。民間人が11柱、外国人俘虜3柱である。
以上
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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