お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
滝田洋二郎監督『おくりびと』 ― 2009/03/23
『おくりびと』のDVDを昨日の深夜に見た。
これは家族への愛情の物語である。
死がそれに表現を与える。
生命の消滅が愛情の消滅ではないのだ。
今日の午後、知人のお葬式に出る。
お棺に最後のお別れをする場面を
私は正視することができない。
私の母が60歳で死んだとき、
祖母はまだ元気に暮らしていた。
じっと静かに耐えていた祖母が
最後の対面のとき、けんめいに
けんめいにわが子(私の母)の名前を呼んでいた。
それは、幼いときから、そう呼んだであろう
名前だった。
肉体から生命が消え失せていても、
送る側の思いは消えていない。
その思いに寄り添う映画であった。
これは家族への愛情の物語である。
死がそれに表現を与える。
生命の消滅が愛情の消滅ではないのだ。
今日の午後、知人のお葬式に出る。
お棺に最後のお別れをする場面を
私は正視することができない。
私の母が60歳で死んだとき、
祖母はまだ元気に暮らしていた。
じっと静かに耐えていた祖母が
最後の対面のとき、けんめいに
けんめいにわが子(私の母)の名前を呼んでいた。
それは、幼いときから、そう呼んだであろう
名前だった。
肉体から生命が消え失せていても、
送る側の思いは消えていない。
その思いに寄り添う映画であった。
青い花 ― 2009/03/23
WBC イチローと神と ― 2009/03/24
日本VS韓国の優勝決定戦は、
仕事をしながら(笑)、
とても目が離せるものではありませんでした。
自分の帰属意識を確認することにもなりました。
それはそうと、二つのチームが
がっぷり組んだすばらしい試合で、
両方の選手や監督さんに、ただ感謝感謝。
イチローの不振は、最後の打席のために
野球の神様がとっておいたたくらみ。
イチローは最後の打席で「神が降りてきた」と
言ったそうですけれど、私には、
最初の打席から神が降りていたのだと思いました。
相当、意地悪な神さまでしたけれど。
やはり、神の祝福をうけている選手でしたね。
そんな神のたくらみを知らない韓国のバッテリーは、
この期間のイチローを見て、勝負を選ぶという
冷静な判断をしました。
それは人間の範囲の知恵だったのですね。
それでも、まだ試合は続いていました。
たぶん、神はまだ韓国を見捨てていなかったと思います。
打たれた後、2つの盗塁を許した韓国バッテリー
の姿は、気持ちのいいものではありませんでした。
ショックを抑えて、最後まで戦いぬく姿勢が
次の回の反撃と逆転に生きるはずですから。
一人でも落胆におぼれ、勝負をあきらめたとき、
野球の神様は、最後のシナリオを決めだのです。
そして、イチローは祝福された人に。
WBCに参加したすべての選手に
すばらしいドラマと技術を見せていただきました。
感謝します。
明日から、ちょっぴり退屈・・・
ところで、高校野球はどうなったんだろう?
仕事をしながら(笑)、
とても目が離せるものではありませんでした。
自分の帰属意識を確認することにもなりました。
それはそうと、二つのチームが
がっぷり組んだすばらしい試合で、
両方の選手や監督さんに、ただ感謝感謝。
イチローの不振は、最後の打席のために
野球の神様がとっておいたたくらみ。
イチローは最後の打席で「神が降りてきた」と
言ったそうですけれど、私には、
最初の打席から神が降りていたのだと思いました。
相当、意地悪な神さまでしたけれど。
やはり、神の祝福をうけている選手でしたね。
そんな神のたくらみを知らない韓国のバッテリーは、
この期間のイチローを見て、勝負を選ぶという
冷静な判断をしました。
それは人間の範囲の知恵だったのですね。
それでも、まだ試合は続いていました。
たぶん、神はまだ韓国を見捨てていなかったと思います。
打たれた後、2つの盗塁を許した韓国バッテリー
の姿は、気持ちのいいものではありませんでした。
ショックを抑えて、最後まで戦いぬく姿勢が
次の回の反撃と逆転に生きるはずですから。
一人でも落胆におぼれ、勝負をあきらめたとき、
野球の神様は、最後のシナリオを決めだのです。
そして、イチローは祝福された人に。
WBCに参加したすべての選手に
すばらしいドラマと技術を見せていただきました。
感謝します。
明日から、ちょっぴり退屈・・・
ところで、高校野球はどうなったんだろう?
黒崎視音 『交戦規則 ROE』 ― 2009/03/28
黒崎視音(くろさき みお)の本を読むのは
これが二冊目。
内容および想定は、つぎのようなもの。
アメリカの北朝鮮工作をめぐる不祥事が発端。
米軍、韓国軍が見守るなか、
侵入した北朝鮮の陽動部隊と自衛隊の戦闘が展開する。
われわれの日常世界とはかけ離れた
用語が飛び交う内容。
「あとがき」によれば、この小説は
不測の事態に備えを欠いたわが国への警告。
たとえば、「交戦規則 ROE」がないことなど。
その警告をどう受け取るかは、人それぞれだろうけれど、
北朝鮮のミサイル発射が近づく緊張した情勢のなかで、
ふと読みたくなった一冊である。
私には、息苦しいほど狭い世界が
描かれているように思えた。
軍の存在の正当性を疑わない楽天性に、
違和感がある。
これが二冊目。
内容および想定は、つぎのようなもの。
アメリカの北朝鮮工作をめぐる不祥事が発端。
米軍、韓国軍が見守るなか、
侵入した北朝鮮の陽動部隊と自衛隊の戦闘が展開する。
われわれの日常世界とはかけ離れた
用語が飛び交う内容。
「あとがき」によれば、この小説は
不測の事態に備えを欠いたわが国への警告。
たとえば、「交戦規則 ROE」がないことなど。
その警告をどう受け取るかは、人それぞれだろうけれど、
北朝鮮のミサイル発射が近づく緊張した情勢のなかで、
ふと読みたくなった一冊である。
私には、息苦しいほど狭い世界が
描かれているように思えた。
軍の存在の正当性を疑わない楽天性に、
違和感がある。
今日はいい天気・・・毎日が休日かな ― 2009/03/30
プチ発見・・・葉の先が白く光っている ― 2009/03/31
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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