お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
清国俘虜兵「汝 恒信」の墓碑は日清戦争出征兵士の墓地とは別にある ― 2010/10/03
以前にも紹介したことがありますが、
日清戦争のとき、捕獲した清国兵士が、
俘虜として各地に収容されました。
大津市内では、別院と本長寺が収容所でした。
記録によれば、そのうち2名が病死。
大津陸軍墓地に埋葬したとあります。
上の写真は、そのうち1名の墓碑です。
正面には、「汝 恒信」とだけ刻まれています。
国籍や階級などの標記はありません。
つぎの写真を見てください。
旧真田山墓地の清国俘虜の墓碑です。
氏名の前に、「清国■■」と刻まれています。
墓地を訪問した中国の代表が無惨だということで、
「俘虜」の文字を埋めてもらった経過があるとか。
墓の標記も、同じ陸軍墓地でありながら、
異なることがわかります。
埋葬場所は、大津営所で訓練中に病没した
第九聯隊の兵士と同じ場所です。
現在のKブロック。
下の写真の真ん中にある墓地です。
当然のことですが、
日清戦争期に遼東半島や台湾、輸送中の船内などで
亡くなった日本将兵とは別のところにあります。
大津の第九聯隊が所属した第四師団は、
下関条約以降に、遼東半島に上陸したために、
実戦には参加せず、守備的な任務に就きました。
しかし、日清戦争全体がそうであったように、
出発前から、赤痢やコレラなどの流行に
見舞われ、病没する将兵が続出しました。
それらの兵士の墓は、新たに造営された
墓地(Eブロック)に置かれています。
日清戦争のとき、捕獲した清国兵士が、
俘虜として各地に収容されました。
大津市内では、別院と本長寺が収容所でした。
記録によれば、そのうち2名が病死。
大津陸軍墓地に埋葬したとあります。
上の写真は、そのうち1名の墓碑です。
正面には、「汝 恒信」とだけ刻まれています。
国籍や階級などの標記はありません。
つぎの写真を見てください。
旧真田山墓地の清国俘虜の墓碑です。
氏名の前に、「清国■■」と刻まれています。
墓地を訪問した中国の代表が無惨だということで、
「俘虜」の文字を埋めてもらった経過があるとか。
墓の標記も、同じ陸軍墓地でありながら、
異なることがわかります。
埋葬場所は、大津営所で訓練中に病没した
第九聯隊の兵士と同じ場所です。
現在のKブロック。
下の写真の真ん中にある墓地です。
当然のことですが、
日清戦争期に遼東半島や台湾、輸送中の船内などで
亡くなった日本将兵とは別のところにあります。
大津の第九聯隊が所属した第四師団は、
下関条約以降に、遼東半島に上陸したために、
実戦には参加せず、守備的な任務に就きました。
しかし、日清戦争全体がそうであったように、
出発前から、赤痢やコレラなどの流行に
見舞われ、病没する将兵が続出しました。
それらの兵士の墓は、新たに造営された
墓地(Eブロック)に置かれています。
コメント
_ (未記入) ― 2010年10月03日 15時02分53秒
_ (未記入) ― 2010年10月03日 15時15分51秒
高島市内に、忠魂碑がいくつあるか・・・・・・の、コメント、届いているでしょうか?
_ BIN★→八代さん ― 2010年10月03日 17時54分46秒
お寺は、おっしゃるとおりのお寺です。
墓碑が傷つき、崩れるのは、心が痛むところです。
忠魂碑のコメント・・・気がつきませんでした。
申し訳ありません。
チェックします。
墓碑が傷つき、崩れるのは、心が痛むところです。
忠魂碑のコメント・・・気がつきませんでした。
申し訳ありません。
チェックします。
_ (未記入) ― 2010年10月04日 00時58分51秒
忠魂碑のコメント・・・・探したけれどどこにもありません。書いた内容はしっかり覚えているので、多分送信ミスだと思います。御免なさい。
忠魂碑は、大正の終わりから昭和の初めにかけて、在郷軍人が中心となって、各村、競って建立しました。
その頃、高島市には、二つの町(今津町、大溝町)と十五の村がありましたから、多分その数、忠魂碑は残っているはずです。
戦後すぐには、進駐軍の存在におもねて、折って土中に埋めた自治体もありましたが、間もなく復活しました。
例えば、高島町には、旧大溝町、水尾村、高島村の忠魂碑が、それぞれ残っています。
忠魂碑は、大正の終わりから昭和の初めにかけて、在郷軍人が中心となって、各村、競って建立しました。
その頃、高島市には、二つの町(今津町、大溝町)と十五の村がありましたから、多分その数、忠魂碑は残っているはずです。
戦後すぐには、進駐軍の存在におもねて、折って土中に埋めた自治体もありましたが、間もなく復活しました。
例えば、高島町には、旧大溝町、水尾村、高島村の忠魂碑が、それぞれ残っています。
_ ゆうみ ― 2010年10月04日 09時39分33秒
日本の墓地にこのようなお墓があったとは…。
二枚目の写真のお墓は「故清国俘虜西方診之墓」と刻まれているようですね。「故」なのか「敵」なのか…ちょっと分かりませんが。
ところで、中国にもこのようなお墓に関心がある人がいるようです。墓地を訪ねた中国人のブログ記事を見つけました。(http://blog.tianya.cn/blogger/view_blog.asp?BlogName=skyinhistory&idWriter=0&Key=0)
こちらによれば、4基のお墓の内、2基は日清戦争後一年に満たない時期に没していますが、後の2基の主が没したのは大正年間、つまり20年は日本に住んでいたことになるんですね。なぜ帰ろうとしなかったのか不思議である、とブログ主も言っていますが、本当になぜなのでしょうね。
二枚目の写真のお墓は「故清国俘虜西方診之墓」と刻まれているようですね。「故」なのか「敵」なのか…ちょっと分かりませんが。
ところで、中国にもこのようなお墓に関心がある人がいるようです。墓地を訪ねた中国人のブログ記事を見つけました。(http://blog.tianya.cn/blogger/view_blog.asp?BlogName=skyinhistory&idWriter=0&Key=0)
こちらによれば、4基のお墓の内、2基は日清戦争後一年に満たない時期に没していますが、後の2基の主が没したのは大正年間、つまり20年は日本に住んでいたことになるんですね。なぜ帰ろうとしなかったのか不思議である、とブログ主も言っていますが、本当になぜなのでしょうね。
_ ゆうみ ― 2010年10月04日 09時45分44秒
先のコメントについて、このブログ主、墓地を訪ねたのは偶然のようです。
_ BIN★→八代さん ― 2010年10月04日 18時27分38秒
忠魂碑の数が具体的にわかりました。
私が実見したのは、
マキノの海津、今津の宮ノ森、朽木村そして安曇。
この4つです。
残り11基をぜひ見たいです。
ところで、旧高島町には、
3つ現存するということですから、
あと8基の所在を捜すことになりますね。
高島市に行く楽しみがまた増えました。
ありがとうございます。
私が実見したのは、
マキノの海津、今津の宮ノ森、朽木村そして安曇。
この4つです。
残り11基をぜひ見たいです。
ところで、旧高島町には、
3つ現存するということですから、
あと8基の所在を捜すことになりますね。
高島市に行く楽しみがまた増えました。
ありがとうございます。
_ BIN★→ゆうみさん ― 2010年10月04日 18時29分39秒
中国の方のブログを拝見しました。
旧真田山陸軍墓地の見学記でした。
漢字文化が共通ですから、
だいたいのことがわかります。
途中で質疑がありますが、
それは、よくわかりませんでした。
旧真田山陸軍墓地の見学記でした。
漢字文化が共通ですから、
だいたいのことがわかります。
途中で質疑がありますが、
それは、よくわかりませんでした。
_ 八代 ― 2010年10月07日 04時59分55秒
残りの11の忠魂碑、発見はなかなか難しいと思います。
我々の年代・・・幸喜好齢者・・には「忠魂碑」の意識がありますが、少し若くなると寺関係の住職でも全く知りません。
六人ほど、旧の村の忠魂碑のありかを聞きましたが、とんでもない答えで、全く話になりませんでした。
我々の年代・・・幸喜好齢者・・には「忠魂碑」の意識がありますが、少し若くなると寺関係の住職でも全く知りません。
六人ほど、旧の村の忠魂碑のありかを聞きましたが、とんでもない答えで、全く話になりませんでした。
_ BIN★→八代さん ― 2010年10月07日 13時48分29秒
ご尽力ありがとうございます。
高島市で残り11の忠魂碑を見つける困難さは、
かえって探求心をかきたてます。
八代さんの力でも、見つけにくいとすれば、
なくなったのでしょうか。
でも、「跡地」も大事な記録です。
困難さは、大津市も同様です。
石山のあるのはネットでわかりました。
なかなかモダンなデザインでした。
ですが、現地に二度出かけましたが、
見つけることができませんでした。
高島市で残り11の忠魂碑を見つける困難さは、
かえって探求心をかきたてます。
八代さんの力でも、見つけにくいとすれば、
なくなったのでしょうか。
でも、「跡地」も大事な記録です。
困難さは、大津市も同様です。
石山のあるのはネットでわかりました。
なかなかモダンなデザインでした。
ですが、現地に二度出かけましたが、
見つけることができませんでした。
_ やつしろ ― 2010年10月07日 15時17分07秒
そう簡単に見つからない。そう簡単には登れない。・・・・そんな処に、神聖なものは造られました。
観音巡りの西国三十三ヵ所は、そんな処にあり、忠魂碑もその通りです。
安曇村の「田中山忠魂碑」、大溝町の「天岩山忠魂碑」、饗庭村の「大師山忠魂碑」がそうです。
また、子弟の教育の場に、ということで、水尾村の小学校校庭、新儀村の小学校校庭、西庄村の小学校校庭などです。
その他、それぞれの地域の思いで、いろんな場所に造られています。
山にある忠魂碑や神社の馬場にある忠魂碑は、春祭りのあくる日・・・後宴の日の、地元民の宴会の場所にもなりました。
観音巡りの西国三十三ヵ所は、そんな処にあり、忠魂碑もその通りです。
安曇村の「田中山忠魂碑」、大溝町の「天岩山忠魂碑」、饗庭村の「大師山忠魂碑」がそうです。
また、子弟の教育の場に、ということで、水尾村の小学校校庭、新儀村の小学校校庭、西庄村の小学校校庭などです。
その他、それぞれの地域の思いで、いろんな場所に造られています。
山にある忠魂碑や神社の馬場にある忠魂碑は、春祭りのあくる日・・・後宴の日の、地元民の宴会の場所にもなりました。
_ BIN★→八代さん ― 2010年10月07日 16時33分01秒
忠魂碑に固有名詞があるのを、はじめて知りました。
安曇村の「田中山忠魂碑」、大溝町の「天岩山忠魂碑」、饗庭村の「大師山忠魂碑」!!
そうして、敬意をもち、なじみとなっていたのでしょうね。
大津市の『南大萱史』という本がありました。
地域史ですね。
そこに社会生活との関連で、忠魂碑の記録がありました。
ブログで書きました。
↓
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2009/09/11/4574833
安曇村の「田中山忠魂碑」、大溝町の「天岩山忠魂碑」、饗庭村の「大師山忠魂碑」!!
そうして、敬意をもち、なじみとなっていたのでしょうね。
大津市の『南大萱史』という本がありました。
地域史ですね。
そこに社会生活との関連で、忠魂碑の記録がありました。
ブログで書きました。
↓
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2009/09/11/4574833
_ やつしろ ― 2010年10月08日 03時36分53秒
昨日、勘を頼りに忠魂碑を探しに行きました。
全く知らない「ど素人」ではないので、少し見つかりました。
広瀬村、高島村、新儀村、饗庭村、川上村、西庄村、百瀬村、剣熊村です。
地元の本庄村、青柳村はまだです。
全く知らない「ど素人」ではないので、少し見つかりました。
広瀬村、高島村、新儀村、饗庭村、川上村、西庄村、百瀬村、剣熊村です。
地元の本庄村、青柳村はまだです。
_ BIN★→やつしろさん ― 2010年10月08日 12時05分31秒
探索ごくろうさまです。昨日は、比較的暑い一日となりました。お疲れになったでしょう。
発見は、さすがです。
ところで、高島村が旧高島町、広瀬村は安曇川町、新儀村、饗庭村が新旭町、
川上村が今津町、西庄村、百瀬村と剣熊村はマキノ町ですね。
発見された忠魂碑ですが、ぜひ、案内していただきたく思います。
なにか文献の類はありますか。大津市では戦前の出版物として、「大津の碑」というものを見つけました。しかし、忠魂碑は網羅されていませんでした。
発見は、さすがです。
ところで、高島村が旧高島町、広瀬村は安曇川町、新儀村、饗庭村が新旭町、
川上村が今津町、西庄村、百瀬村と剣熊村はマキノ町ですね。
発見された忠魂碑ですが、ぜひ、案内していただきたく思います。
なにか文献の類はありますか。大津市では戦前の出版物として、「大津の碑」というものを見つけました。しかし、忠魂碑は網羅されていませんでした。
_ やつしろ ― 2010年10月08日 17時07分05秒
文献は・・・・分かりませんが、ないと思います。
川上村の忠魂碑・・・凄く立派なもの・・建立は大正の初め・・・
広瀬村の忠魂碑・・・これも真っ二つに割られていました・・・
新旭町・・・小学校、天岩山のものは無いようで、全然別の場所に平成元年建立の慰霊碑が出来ていました、名簿つきで・・・
十月は、親鸞聖人報恩講の季節で、私は四か寺の御法話を依頼されています。
十一月になれば、暇が出来ますので、御案内します。
川上村の忠魂碑・・・凄く立派なもの・・建立は大正の初め・・・
広瀬村の忠魂碑・・・これも真っ二つに割られていました・・・
新旭町・・・小学校、天岩山のものは無いようで、全然別の場所に平成元年建立の慰霊碑が出来ていました、名簿つきで・・・
十月は、親鸞聖人報恩講の季節で、私は四か寺の御法話を依頼されています。
十一月になれば、暇が出来ますので、御案内します。
_ BIN★→やつしろさん ― 2010年10月09日 22時03分28秒
なるほど、探す力のある方が動けば見つかるものなのですね。
やみくもに動く私とは違います。
11月を楽しみにしています。
ご案内よろしくお願いします。
やみくもに動く私とは違います。
11月を楽しみにしています。
ご案内よろしくお願いします。
_ やつしろ ― 2010年10月09日 23時43分28秒
分かりました。お蔭様で、今までボウと過ごしていた処に明かりが付いたようで、面白いです。
御一緒します。
御一緒します。
_ BIN★→やつしろさん ― 2010年10月10日 10時41分36秒
面白いといっていただいて、うれしく思います。
マキノで海津の桜で知られた墓地にも、
砲弾型墓碑があるのを写真で見つけましたが
いまだに実見していません。
機会があれば、見に行く予定です。
マキノで海津の桜で知られた墓地にも、
砲弾型墓碑があるのを写真で見つけましたが
いまだに実見していません。
機会があれば、見に行く予定です。
_ やつしろ ― 2010年10月14日 23時48分41秒
訂正
10月8日17時の分
新旭町・・・「小学校、天岩山のものは無いようで」の部分・・・・天岩山は、
旧大溝町の山で、忠魂碑現存の場所。
新旭町の旧新儀村にある山は「大師山」です。
10月8日17時の分
新旭町・・・「小学校、天岩山のものは無いようで」の部分・・・・天岩山は、
旧大溝町の山で、忠魂碑現存の場所。
新旭町の旧新儀村にある山は「大師山」です。
_ BIN★→やつしろさん ― 2010年10月17日 19時35分08秒
情報をいただくごとに、高島市に時間をとっていきたい気持ちが強くなります。いまのところ、日程を決めることはできませんが。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
別院は浄土真宗のお寺、本長寺は札の辻の日蓮宗のお寺でしょうか。
汝 「恒 信」 は、法名でしょう、だからこれは浄土真宗大津別院が付けて、記したと思います。
普通は「釈恒信」とするところですが、「汝恒信」としたところが、戦時中の、捕虜に対する差別でしょうね。
それにしても、下のお墓・・・・・無残な姿で、悲しくなります。
文字から誰の墓かが分かるので、日本人が憎しみで痛めつけたのでしょう。
他人のお墓を傷つける・・・・最高の侮辱です。
傷つけたその人は、恐らく今も地獄の呵責に苦しんでいることでしょう。
自業自得・・・・仕方のないことです。