お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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メモ 明治44年『大津市志』の大津市の領域とは2010/10/11

自分のためのメモです。

2010年現在の大津市は、464万平方キロメートル。
総人口は、33万人を超えている。
しかし、明治44年=1911年は、そうではなかった。

同じ「大津市」でも、イメージするものが違うのである。

明治44年版『大津市志』でいう「大津市」は、
滋賀学区と膳所学区に挟まれた狭い地域をさす。
いわゆる旧大津。大津町。

つまり、現在でいくと、
○平野学区(?)
○長等学区
○逢坂学区
○中央学区
(そして藤尾学区?)

『大津市志』に掲載されている戦死者や
戦病死者の墓地を捜す場合、忘れてはいけないポイント。

町名も旧いものが多い。
私の年代でも記憶しているものがあるが、
わからなものが多い。
ただし、行政的には使われていないが、
自治会や運動会などでは登場する。
どっこい生きているのである。

コメント

_ やつしろ ― 2010年10月11日 19時41分41秒

 だから当然、坂本村とか、堅田町、真野村・・・など、大津市が吸収合併した旧町村には、古い忠魂碑が現存するんでしょうね。?

_ BIN★→やつしろさん ― 2010年10月11日 20時29分52秒

確かにそうですね。
坂本、下阪本、真野などで見つけました。
・・・そういえば、大津町はどこに??

_ やつしろ ― 2010年10月13日 17時25分02秒

今日、ちょっと動いてみました。
頭の中にあるのが、月日が経って、変っていました。
水尾村・・・私の知っている水尾小学校は、昭和40年に統合され、その跡地に保育所が出来ました。
その時、忠魂碑は整理されたのでしょう、土盛りの部分は、子供の遊び場になっていました。
高島村も、学校統合後整理されたのでしょう。
そうすると、天岩山だけ…そこは、山登りが大変だから、簡単には行けません。

マキノ・・百瀬村・・・お寺の境内にありました。大正6年建立。
     西庄村・・・学校の敷地内・・・立派なのがありましたが、
        碑は昭和48年の建立・・西武の創始者、堤康次郎の書でした。                  (土台の部分は、昔のもの)
     剣熊村・・・ずいぶん近づいたけれど、思った所には、ありませんでした。

_ BIN★→やつしろさん ― 2010年10月13日 20時35分18秒

ご苦労様でした。
剣熊村は私も車で走りました。
細い生活道路なので、”幹線”だけでしたが、
見当もなく、見つかりませんでした。
天岩山・・・どこにあるのでしょうか。

_ やつしろ ― 2010年10月14日 09時54分04秒

高島小学校、中学校のそばに、変電所がありますが、その辺りから上ります。
私は、若い時、高小にいましたが、体育の時間に、しょっちゅう子どもたちと走って登りました。
運動量を多くする、成就感が味わえる、故郷が一望できる・…てな、理由で。

_ BIN★→やつしろさん ― 2010年10月14日 10時55分30秒

町が一望にできる場所(安曇村など)もあれば、
学校の敷地(南大萱など)や役所の地所(荻町など)、
さまざまなんですね。

大津市の西南戦争の碑(「紀念碑」)を捜すときには、
ハイキングをする気分でした。
天岩山にも登ってきます。
時間がとれるかどうかが心配ですが。

_ やつしろ ― 2010年10月14日 11時56分15秒

天岩山・・・・「てんがんさん」です。
そう呼ばないと、道を尋ねる時、通じませんので・・・・

_ BIN★→やつしろさん ― 2010年10月17日 19時24分36秒

細やかな心遣いありがとうございます。
「てんがんさん」ですね。

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BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)