お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

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海津墓地に眠る「徳田政吉」は西南戦争の戦死者ではないか2011/07/28

「徳田政吉」の記事を見つける
 ひとつ前の記事の謎解きをしてみます。
 つまり、海津墓地にある砲弾型墓碑がある「徳田政吉」は、いったいどの戦争の戦没者なのか?
 アジア歴史資料センターで検索していて、見つけました。それが上の文書(C09083873100 )です。そのなかにある「徳田政吉」が海津墓地に眠る人物ではないのかと。「歩兵第九聯隊第二大隊第一中隊」に所属して、西南戦争に出征。田原坂で戦死した二等兵卒。
 ちなみに、陸軍歩兵第九聯隊は、西南戦争当時に大津市に営所をおいた聯隊ですし、滋賀県から徴兵した若者が入隊したところです。
 これが正しいとなると、海津墓地には、少なくとも、2柱の西南戦争の墓碑があることになります。南部由松と徳田政吉。
 しかし、ふたつの墓碑はあまりに形が違いますし、建立年代が異なるのです。それは、なぜ?
 上の写真は、現在の田原坂公園にある碑の一部です。滋賀県出身者のなかに、「徳田政吉」の名前がありません。『高島郡誌』の西南戦争戦死者名簿にもありません。
 ですから、自信がもてなくなりますが、駒井新吉のような例もあります。
 アジア歴史資料センターで見つけた資料の次のページには、実際、駒井新吉の名前があります。駒井新吉は、『郡誌』では高島郡出身者にはなっていませんが、別の資料によれば、高島郡出身者と記載されていて、田原坂の碑では滋賀県出身者になっています。片方、もしくは両方にないからといって一概に否定できません。
 西南戦争での戦死者かどうかは別にして、マキノ出身者であることはまちがいありません。現に墓碑があるから当然ですが(笑)。たとえば海津公園にある旧マキノ町の戦没者名簿には、掲載されています。下の名簿の下段の真ん中あたりに「徳田政吉」の名前が見えます。

コメント

_ やつしろ ― 2011年07月28日 22時20分16秒

長い間の禁圧から、噴出するが如きの、情熱の迸り・・・・こうでなくちゃ、ビンさん!
あれから、とても忙しくしています。
 翌日、南部さん宅を再訪しました。また、お留守でしたので、コメントを残して置き、後で電話をしましたが、何回かけても不通。
この前と同じく、弟さん宅へ電話をし、やっと通じました。こちらの身分も、きちんと説明しましたので、分かって頂けたと思っています。

それから、三尾里墓地のこと、気になったので、もう一度、きちんと調べました。
結果、私のコメント、間違っていました。また、改めて書きます。

_ BIN★→やつしろさん ― 2011年07月29日 00時14分27秒

 返事に困るような激励のコメント、ありがとうございます。時間をかけないと、いままでの到達がわからなくなるほどのブランクでした。三尾里の間違いとはなんだったのでしょうか?

_ やつしろ-三尾里墓地のこと ― 2011年07月29日 02時38分15秒

子供の頃、そして成人しての長い間、遠くから眺める墓地の様子が目に焼き付いています。昨年久しぶりに傍まで行き、そしてこの前です。
ずいぶん変わったなあ!感動と甚だしい違和感・・・この巨大な墓碑は・・・昔はなかったなあ、そうだ、三尾里の墓地には、ついこの間まで、木の墓標だけだった・・・・
この巨大な墓碑は・・・別の場所にあった・・・・・などなどの疑問がわきました。(先日に書いたのは、そんな疑問の中でした。)

_ BIN★→やつしろさん ― 2011年07月29日 19時45分31秒

なるほど。そういうことでしたか。

_ やつしろ ― 2011年07月30日 01時10分59秒

(つづき)
 一番違和感を持ったのは、日置卯市さんの巨大な墓碑が、ずっとここにあったかという疑問です。
 在所にある寺院(2箇所)の境内・・・村の目立つ所・・・いろいろ思い出しているうちに、「ああ、ここだ!」という場所に辿り着きました。
鎌倉時代の巨大な石造物「鶴塚」!「ああ、あの傍に、日清、日露のお墓があった!」と、思い出しました。
その後、在所の古老に、墓地改変の経過について、いろいろ教えてもらいました。
さすが、きちんのした集落、旧来の墓地に石碑を並べたのではなく、それ用に新たに土地を購入し、鶴塚の所から古い墓碑を移し、今まで建てることが出来なかった戦歿者の墓碑を、規格を作り建立し、現在のように整列したのだそうです。
全部出来上がったのは、五年ぐらい後の昭和30年頃だったそうです。
伝説の巨大な石造物「鶴塚」、今度御案内します。

_ BIN★→やつしろさん ― 2011年07月30日 07時58分26秒

すごいですねぇ。そこまで、経過がわかるなんて。
石造物「鶴塚」、期待しています。

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BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)