お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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無言館の窪島誠一郎氏の講演を聞いて2007/05/03

●無言館

「無言館」という美術館がある。 若くして戦争で命を奪われた画学生の遺作を集めた美術館である。 今日は、その館長・窪島誠一郎氏の話を聞いた。
滋賀9条の会の集まりでである。

●窪島氏の話

窪島氏は、無言館に飾られている若い画家について語った。それはまだ画家ともいえない飛翔まえの若者のことである。
憧れの美術学校に入学した18や19歳の画学生。 しかし、戦争の最中で、入学証書と卒業証書が同時に届いたように、まともに学生としての生活を送ることも画家として大成することもできずに、戦地に狩り出された若者。
 出征の日、あと5分、あと10分でいいから、この絵を描かせてくれといって恋人の姿を描いていた若者。
 命を奪われる最後のときに、自分の愛する人の姿を描いて逝った若者。
 その絵を集めたのが無言館だという。

●愛する絵、愛する人との別れ

戦争とは、愛する人との別れであること、愛する絵との別れであることを突きつけられたひとときであった。
無言館の館長は、「千の風になって」という歌を強く否定したある女性の話をしていた。わずか3ヶ月という新婚生活のあと、戦地に送られ死んだ若い夫の思い出は残された若い妻の胸に繰り返し悲しみとして宿り、うずまき、消えることがない。 風となってまってはいないと。

●無言の絵が語るもの

いろんな思いを抱いて死んでいった人たちが日本では300万人。アジアをはじめ全世界では数千万人。悲しみの記憶は薄れ、語り部は死に絶えようとしている。悲しみと苦しさを二度とくりかえさない歯止めとなっている貴重な遺産(憲法九条)は、時代遅れのそしりをうけるまでとなった。
 おりしもTVでは、国民投票シミュレーションと題するドラマ。もはや国民投票は避けがたいという印象を広げているように見える。

無言館は、まさに無言の絵の集まり。しかし、この無言は沈黙ではない。
絵はなにかを語っている。愛する人の姿に、愛する風景のなかに、なにを聴き取るかはその人の生き方にかかわるものなのだと私は、思った。

さわると爆発!2007/05/04

今日も仕事です。
お休みは明日から。
「ご苦労様なことですね」と自分に思わず
いいたくなります。

仕事場で迷惑がられているとしたら、
それは私の机とその周辺。
もしかしたら、私自身も。

なぜなら、モノが捨てられないのです。
とくに書類。
来るファックスや資料、なんでもかんでも、
残したくなります。
読み終わっても、まだ捨てられない。

しかも数字や日付が好きで、記録したくて
仕方がありません。
計算や比較するのも好き。
報告書を作るにも、以前のものまで
引っ張り出してくる始末。

ですから、まったく書類のないきれいな同僚の
机とちがい紙だらけの机。
机の後ろには、スペースいっぱいの3段ボックス。
納めても納め足りない2穴パンチの書類棚。
PCは2台。デジカメも2台。
CDロムやICレコーダーなどの類も、なんでもあり。

自宅に帰っても、本とCDの山。
そして、非難の嵐。

発信することも多ければ、
蓄積することも多い。
他人にはゴミの山でも、私には宝の山。
ゴミ屋敷の主・・・それが私。

「そんなんで必要な書類が見つけられるのか」と
いわれれば、大丈夫。
崩れかけたゴミの山、その形で記憶が蘇るからです。
だから、形(ゴミの山の)を
変えられたら(ヘタに整理されたら)大変なことに。

一日に12時間以上、好き好んで仕事をするから、
たまる量も半端ではありません。

深夜に「今日はこれまで!」と決めて、
机を見たら、書類の山が
回りの人間が見たら、危険な水域に達しています。
それをまた片付けだしたら、3日ほどかかるし、
3日あれば、その倍ほどの書類がたまります。

やばいかなぁと思ってメモをゴミの山の上に。
「触るな危険、爆発する!」
これで安心。
半ば冗談、半ば本気で書き残しておいたら、
無事だれからも触られることなく、
そこにそのままありました。
ああ、無視されているのかなと思って、
次の日、そのメモを横に置いて帰宅。
すると、ていねいに、
そのメモが最初の日と同様に書類の上に鎮座。

もしもし、
親切においてくれた人、
これって皮肉なのか、本気なのか?
教えてくださいね。

さあ、今日はがんばって、ゴミの山を
捨てることにします。

彦根市の千成亭で夕食を2007/05/06

5月5日と6日の二日間を、彦根市ですごしました。
ちょうど、「国宝・彦根城築城400年祭」の期間。

息子のKくんは、部活のために午後2時以降しか帰宅できないというので、
その時間を出発時間にしました。
ところが、3時になっても、4時になっても帰宅しません。
ようやく自転車で帰宅したのは、4時半。
仕方ありませんが、この時間から、彦根市に向かって出発しました。
直前にしか休みがとれなかったので、家族旅行っぽいところは
予約せずに、ビジネスホテルにしました。
そのかわり、食事は千成亭で焼肉を。

食事風景を写真にとるどころか、食べるのに夢中のために
写真はありません。。

千成亭のサイト
http://www.sennaritei.co.jp/

ワダ・エミさんの衣装に心をうたれました。2007/05/07

ワダ・エミさんは、有名なデザイナー。
しかし、私がこの方を知ったのは、黒澤明監督の「乱」以降のことです。

ご高齢(失礼!)にもかかわらず、きらびやかで豪華な色彩が
衣装に踊っています。
その新鮮で先鋭な感覚に不思議な気持ちをいだきました。

つぎにワダ・エミさんを意識したのは、
チャン・イーモウ監督の「HERO」でした。
DVDを買ったら、メイキングの特典映像がありました。
そこで、この映画の成り立ちに重要な役割を演じられたことを
知りました。

なにより驚いたのは、ご自分で衣装を染色されていることです。
この映画は、赤、青など、色彩で区別された物語からなっています。
芥川龍之介の「藪の中」のように。
そして、黒澤監督の「羅生門」のように。
たとえば、赤の物語。
このなかに赤の衣装をまとう多数の登場人物がいますが、
そのすべての色合いが違うのです。
同じ赤でも。
私は、そのプロとしてのこだわり。一人一人の人物としての
扱い(衣装という立場から)に胸を打たれました。

三度目は、「国宝・彦根城築城400年祭」の会場。
そのつもりで来たわけではない彦根城で、
ワダ・エミさんの衣装展をされているのを知り、うれしく思いました。

エディプス王というオペラの衣装を見ると、
派手なものだけではありません。
しかし、一枚一枚、ひとひだひとひだがちがい、
個であることを主張しています。

展覧会の要員の方すら、ワダ・エミさんの作った衣装を着ておられました。
そのことが驚きでしたし、そのことによって、衣装とはなにか、
ワダ・エミさんの衣装というものへのこだわりとはなにかを
教えられる気がしたのです。

展覧会場は、撮影禁止。
撮影が許されている会場で写した写真にワダ・エミさんのものが
写っていました。
それが上のものです。

メイ♀と出合ったお店2007/05/08

2000年5月5日に、メイと出会いました。
場所は、彦根市のキャッスルロード(本町)。
市民と協力して、江戸時代の街並みを再現しています。
焼肉店などいろいろあるのですが、どういうわけか
ペットショップがあるのです。

●メイとの出会い

ときは2000年5月にさかのぼります。
マキノで一泊したあと、彦根には午後0時ごろに到着。
城へ行くつもりでしたが、お腹がすいたので
キャッスルロードで食事をとることにしました。
息子のHくんはお腹の調子がよくなくて、
先に食事を終えて、兄のKくんといっしょにお店の外へ。
私たち夫婦は、せっかくだからとゆっくり食事をとっていました。

お店のちょうど向かいが、ペットショップだったのです。
動物好きのHくんは、お店の中へ。
すると、檻のなかには、小さな小さなネコさんが、
少し大きめのネコさんに羽交い絞めされながら、
いたぶられています。
あまりにかわいそうなので、Hくんは泣きそうになりました。
食事を終えて出てきた私たちをつかまえて、
いきなり「飼ってあげて!!かわいそう!」というのです。
あまりのことに、まずはお店のなかに入りました。

ハムスターとまちがうような小さなネコの赤ちゃんが
いじめられています。店主は止めるそぶりもありません。
アメリカン・ショートヘヤーの純血と思ったら、
雑種だったために、放置状態なんです。
店主は、これみよがしに「2000円にしとくわ」といいます。
むかついてお金をさっさと渡すと、保護する気分で
連れて帰りました。

もう城どころではありません。
子猫用のグッズを立ち寄る店で買いながら、帰宅しました。
小さなダンボールのなかで、子ネコさんは、
安心したのか、ぐっすり寝ています。

・・・そういうことがあったのです。
メイは、もう亡くなって2年ぐらいたちますが。

彦根市のサイト
http://www.city.hikone.shiga.jp/

「俳優気分で彦根めぐり」を楽しむK君へ2007/05/09

長男のKクンは、現在高校三年生。
彦根に家族で遊びに行って、いいものを見つけたらしく、一人で楽しんでいます。おいおい、それってそんなに楽しい?高校三年生がそんなに無邪気でいいのか?!

超大型ショッピングセンター接近中!Ⅱ2007/05/10

イオンが計画しているショッピングセンターをめぐっては、
反対の動きがあります。
それは、ショッピングセンターそのものへの反対という立場も
もちろん、ありますが、その地域がかかえる交通渋滞問題を
さらに深刻化させることへの危惧が根強くあるからです。

問題を整理するためのメモをつくってみようと思います。

時系列的な整理が一番いいのですが・・・まずは、
わかるところから。

●計画反対の動きと立場について

イオンが出店する場合、まず問題となるのは、
立地する市町村、この場合は草津市の対応です。
つまり、許可を与えるかどうか、です。

2007年1月18日、「イオン出店反対とまちづくりを考える会」が
草津市長にたいして、出店を許可しないように申し入れを行いました。
ビラ(上の写真)を読むとその根拠は以下のようなものです。

その1 中心市街地がさらにさびれる
その2 交通マヒがおこる
その3 子どもの非行がおこる
その4 びわ湖の汚染がおこる
その5 周辺の土地の固定資産税が上がる
     撤退したら、高い固定資産税だけが残る
その6 平穏な生活がこわされる

ざっとこのようなものでしょうか。

興味のある方は、以下のところへ連絡を。

「イオン出店とまちづくりを考える会」
大津市浜町9-28 電話 077-525-7360

彦根城の石垣:体験コーナーはパズルのタッチ2007/05/11

彦根城築城400周年記念行事の期間中に、彦根城に(たまたま)行くことにしました。5日は、あいにくの雨。おかげて人手は少なく、周る側には幸いでした。ある展示館では、石垣の体験コーナーがありました。
 K君もH君も、けっこう楽しんでいました。

彦根城2007/05/12

「こどもの日」は、雨でした。そのためかも知れませんが、観光客も比較的少なく、並び疲れることなく、彦根城を見学することができました。
 前回、家族で彦根にきたのも「こどもの日」でした。私の日程が決まらないので、遠くに行くことができなかったのです。
 K君は、熊本城を見て気に入っていたのですが、彦根城はどうだったんでしょう?

彦根城:私は石垣に興味をもちました2007/05/13

彦根城を見学しました。天守閣は、木造のつくりが保存されています。
私が興味をもったのは石垣。とくに、ノミの跡が残っている石には、建設時の生々しさを感じるからです。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)