お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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「土屋留太郎墓」@旧大津陸軍墓地F092008/10/29

「土屋留太郎墓」@旧大津陸軍墓地F09
「土屋留次郎墓」の墓碑文はほぼ完璧に読めます。
下の写真では、わかりにいのですが。

出身階級(階層)が「雑業」と書かれていることに
興味をひかれます。

右側面に歿年月日。



「明治九年九月十有三日」



留次郎奈良縣下雑業土屋清吉弟安政元寅年十二月二十七日於大和國山@郡@上村明治八年四月廿有五日應徴為大坂鎮台歩兵第九聯隊第二大隊兵卒同九年九月十有三日病死於大津営所病室干時歳二十有一十一月

「宮田虎吉墓」@旧大津陸軍墓地F182008/10/29

「宮田虎吉墓」@旧大津陸軍墓地
「宮田虎吉」は滋賀県生まれです。

墓碑の右側面が没年月日。



「明治九年八月十六日」(1876年)



虎吉滋賀県下農宮田忠兵衛男安政元甲寅年九月六日生近江國蒲生郡田村明治八年四月八日應徴為大阪鎮台歩兵第九聯隊第壱大隊兵卒九年八月十六日病死於大津営所病室干時年二十有ニ歳

安政元甲寅年とは、1854年のこと。
明治22年時点で、蒲生郡に、「土田村」は存在しない。
明治の最初はどうだったんだろう。

「寺村新八之墓」@旧大津陸軍墓地F202008/10/28

「寺村新八之墓」@旧大津陸軍墓地F20
「寺村新八之墓」
まだ読みやすい墓碑です。

右側面は、歿年月日。



コケむしていて「三」が「ニ」に見えますが、
「明治九年八月十三日」と刻まれています。




新八@@懸下農寺村久五郎男嘉永六年三月廿日生於@@國@@@@@明治七年四月廿九日應徴為大阪鎮台歩兵第九聯隊第二大隊兵卒明治九年八月十三日病没於大津営所病室干時年二十三有六月


私が知りたい出身地がよく読めません。
「甲賀郡」のように見えるのですけれど。

「大谷甚太郎墓」@旧大津陸軍墓地F212008/10/28

「大谷甚太郎墓」@旧大津陸軍墓地F21
旧大津陸軍墓地には、個人墓碑が600近くあるのです。
それをこのペースで解読していったら、どれくらいかかるのか。

私は、便宜上、この墓地を
A、B、C、D、E、F、G、K、LおよびMの10ブロック
に分けています。
Aブロック(将校20柱)は、一柱を除くと全部が解読できています。
Bブロック(下士官15柱)も同様解読できています。
Cブロック(下士官18柱と1つの石?)は、一部だけ。
Dブロック(下士官19柱)も、一部だけ。
Eブロック(兵卒205柱と士官候補生1柱)は、解読できています。
Fブロック(兵卒と下士官37柱)は、現在このように進行中。
Gブロックは、ロシア人墓碑の一柱のみで、解読できています。
K.ブロック(兵卒139柱)は、「彦根小営十八番大隊」の5柱と清国捕虜2柱のみ解読。
Lブロック(兵卒98柱)は、これから。
Mブロック(民間人10柱)は、終わっています。

ざっと、300柱ぐらいが残っているわけです。
先が遠い話しです。

さて、墓碑の右側面。
大谷甚太郎の没年月日は、鮮明に読めます。



明治九(1876)年十月二十日。

左側面の碑文は、読み取れそうですね。



甚太郎和歌山縣農大谷清次郎男安政元寅年八月十五日生於紀伊国@@郡@@@村明治八年四月二十日應徴為大阪鎮台第九聯隊第一大隊兵卒編入同聯隊第三大隊@@@@@@病没於大津営所病室干時年二十一有四月

「稲森金太郎墓」@旧大津陸軍墓地F212008/10/27

「稲森金太郎墓」@旧大津陸軍墓地F21
風雪に削られた130年ぐらい前の
墓碑文を読み解くという単調な作業を
つづけています。
記録が見つからない以上は、
気づいた人間がやるしかないと思って。

仕事の合間なので、それまで積み上げたことも
思い出せなくて、「再発見」を繰り返すのは、
苦笑いモノですけれど・・・。

お仕着せのような決まりきった様式の墓碑文ですが、
それも消えてしまったら、この若者を人間として
追想する手がかりがなくなる気がします。
ですから、なんとしても、読み取りたいと
墓碑をいろんな角度から眺めてみるのです。

「稲盛金太郎」の墓碑は、Fブロックの端にあります。
上の写真で背後に見えているのは、日清戦争期の
墓碑群(206柱)の一部です。

この墓碑も、かなり摩滅しています。
そのうえ、コケなどが付着しているために、
読解が難しいですね。
勝手に、コケを採っていいものなのか。

右側面は、没年月日のはずですが。



これは・・・読めません。
左側面が碑文はどうでしょうか。



Fブロック(37柱)の雰囲気が
わかる写真を載せました。
明治8(1875)年から明治10(1877)年に
亡くなった兵卒と下士官の墓地です。
写真の一番手前が「稲盛金太郎墓」



彫られているのはわかっても、石の質のせいなのか、
文字の角が崩壊しているように見えます。
冒頭の「金太郎」とか、途中の「明治」とかは読めるのですが。
この碑文を読むのはあとにしましょう。

「森本元次郎」@旧大津陸軍墓地F252008/10/26

「森本元次郎」@旧大津陸軍墓地F25
「森本元次郎」の墓碑も、解読が容易ではありません。
石の質がもろいのかも知れません。
正面は「森本元次郎之墓」
右は歿年月日。
「明治九年七月七日」とはっきり読めます。



問題は、左側面の碑文。



元次郎者@懸下@@@森本源平@安政@@年二月七日生於大和國@@@松本村明治八年四月一日應徴為大阪鎮台歩兵第九聯隊第一大隊@@@九年七月七日病死於大津営所病室干時年二十二有@月

「西河亀吉之墓」(22歳)@旧大津陸軍墓地F262008/10/26

「西河亀吉之墓」@旧大津陸軍墓地F26
「西河亀吉之墓」は、文字が大きいのです。
制作者がそれまでと違うのでしょう。

下は右側面。歿年月日。



「明治九年六月六日」と
大きな字でしっかり彫られています。
左側面は個人の履歴。
亀吉者京都府下農西河嘉助次男嘉永六丑年九月十四日生於丹波國船井郡@@@上村生明治七年四月二十七日為應徴入@@@@歩兵第九聯隊第二大隊 同九年六月六日病死於大@@@@干時年二十二年又十月



亀吉も農民出身の徴兵。
こうなってくると、この部分の文字が読めなかった、
舘、喜多などの墓碑も知りたくなります。

「植池春松之墓」(19歳)@旧大津陸軍墓地F272008/10/26

「植池春松之墓」@旧大津陸軍墓地F27
植池春松という若者の墓。
出身は「農」つまり、農民。
順番でいけば歩兵第九聯隊では十一番目に古い墓碑です。
記録文書によれば、明治8年3月に、京都の知恩院から
真新しい大津営所に移動してきた第九聯隊の部隊は
将校・下士官を除けば、明治七年以降の徴兵から
なっていることになっています。
残念ながら、それまでの墓碑では、読解困難もあり、
士族以外の出身が刻まれた墓碑は見つかりませんでした。
この墓碑ではじめて徴兵制度によって兵役を
課された若者(農民出身)に出会うことになりました。

墓碑を読んでいて、驚いたことがあります。
それは、入営が明治9(1875)年5月2日。
病死がわずか9日後の5月11日だということです。
しかも、(数えで)19歳で亡くなったと刻まれています。

春松者○○○○縣下農植池市作次男也安政三辰年二月十日生於紀伊國@@@@@村明治九年五月二日為應徴入歩兵第九聯隊第二大隊同年同月十一日病死於大津営所病室干時年十九

20代目前の若者が入営わずか9日で亡くなる。
いったいなにがあったのでしょうか。
物言わぬ墓石。
本人はどういう思いだったのか。
「徴兵さえしなければ」という両親の慟哭が
聞こえる気がします。
(生年月日と歿年齢があいません。読み取りが悪いのでしょうね)

「松井善一郎之墓」@旧大津陸軍墓地F282008/10/25

「松井善一郎之墓」@旧大津陸軍墓地F28
旧大津陸軍墓地のFブロックの墓碑。
「松井善一郎之墓」

右側面は、歿年月日。



「明治九年五月三十日」

左側面は、個人履歴。
この墓碑はかなり読み取れる可能性があります。



出身地は「三重県」ですね。
「明治七年四月十四日應徴於」なども読めます。
「大津営所病室」とあり、
年齢は二十三か二十五か、どちらかですね。

一通り、37柱を概観しようと思っていますが
時間はけっこうかかります。
一日で数柱が限度でしょうか。

「八嶋要助之墓」@旧大津陸軍墓地F292008/10/25

「八嶋要助之墓」(一番手前)@旧大津陸軍墓地F29
この墓碑は、1971年バイパス工事にともなう大津市の調査資料では、名前が「八?要助」となっていました。私は、「?」の箇所は、「嶋」だと思います。ですから、「八嶋要助之墓」としました。「助」も解読があやううですが。



「嶋」の偏の部分が見難いですけれど。

墓石の右側面は、歿年月日。



「明治九年五月十六日」に見えます。
コケを掃除すれば、もっと見やすくなるはずです。

左側面は、個人の履歴。
解読は簡単ではない状態です。



光の角度ではほとんど無理かと思いましたが、
この写真の角度で光が当たれば、
丁寧に見れば、字が識別できることがわかりました。



最初の二文字は「要助」と読めます。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)