お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
「土屋留太郎墓」@旧大津陸軍墓地F09 ― 2008/10/29
「宮田虎吉墓」@旧大津陸軍墓地F18 ― 2008/10/29
「寺村新八之墓」@旧大津陸軍墓地F20 ― 2008/10/28
「大谷甚太郎墓」@旧大津陸軍墓地F21 ― 2008/10/28
旧大津陸軍墓地には、個人墓碑が600近くあるのです。
それをこのペースで解読していったら、どれくらいかかるのか。
私は、便宜上、この墓地を
A、B、C、D、E、F、G、K、LおよびMの10ブロック
に分けています。
Aブロック(将校20柱)は、一柱を除くと全部が解読できています。
Bブロック(下士官15柱)も同様解読できています。
Cブロック(下士官18柱と1つの石?)は、一部だけ。
Dブロック(下士官19柱)も、一部だけ。
Eブロック(兵卒205柱と士官候補生1柱)は、解読できています。
Fブロック(兵卒と下士官37柱)は、現在このように進行中。
Gブロックは、ロシア人墓碑の一柱のみで、解読できています。
K.ブロック(兵卒139柱)は、「彦根小営十八番大隊」の5柱と清国捕虜2柱のみ解読。
Lブロック(兵卒98柱)は、これから。
Mブロック(民間人10柱)は、終わっています。
ざっと、300柱ぐらいが残っているわけです。
先が遠い話しです。
さて、墓碑の右側面。
大谷甚太郎の没年月日は、鮮明に読めます。
明治九(1876)年十月二十日。
左側面の碑文は、読み取れそうですね。
それをこのペースで解読していったら、どれくらいかかるのか。
私は、便宜上、この墓地を
A、B、C、D、E、F、G、K、LおよびMの10ブロック
に分けています。
Aブロック(将校20柱)は、一柱を除くと全部が解読できています。
Bブロック(下士官15柱)も同様解読できています。
Cブロック(下士官18柱と1つの石?)は、一部だけ。
Dブロック(下士官19柱)も、一部だけ。
Eブロック(兵卒205柱と士官候補生1柱)は、解読できています。
Fブロック(兵卒と下士官37柱)は、現在このように進行中。
Gブロックは、ロシア人墓碑の一柱のみで、解読できています。
K.ブロック(兵卒139柱)は、「彦根小営十八番大隊」の5柱と清国捕虜2柱のみ解読。
Lブロック(兵卒98柱)は、これから。
Mブロック(民間人10柱)は、終わっています。
ざっと、300柱ぐらいが残っているわけです。
先が遠い話しです。
さて、墓碑の右側面。
大谷甚太郎の没年月日は、鮮明に読めます。
明治九(1876)年十月二十日。
左側面の碑文は、読み取れそうですね。
甚太郎和歌山縣農大谷清次郎男安政元寅年八月十五日生於紀伊国@@郡@@@村明治八年四月二十日應徴為大阪鎮台第九聯隊第一大隊兵卒編入同聯隊第三大隊@@@@@@病没於大津営所病室干時年二十一有四月
「稲森金太郎墓」@旧大津陸軍墓地F21 ― 2008/10/27
風雪に削られた130年ぐらい前の
墓碑文を読み解くという単調な作業を
つづけています。
記録が見つからない以上は、
気づいた人間がやるしかないと思って。
仕事の合間なので、それまで積み上げたことも
思い出せなくて、「再発見」を繰り返すのは、
苦笑いモノですけれど・・・。
お仕着せのような決まりきった様式の墓碑文ですが、
それも消えてしまったら、この若者を人間として
追想する手がかりがなくなる気がします。
ですから、なんとしても、読み取りたいと
墓碑をいろんな角度から眺めてみるのです。
「稲盛金太郎」の墓碑は、Fブロックの端にあります。
上の写真で背後に見えているのは、日清戦争期の
墓碑群(206柱)の一部です。
この墓碑も、かなり摩滅しています。
そのうえ、コケなどが付着しているために、
読解が難しいですね。
勝手に、コケを採っていいものなのか。
右側面は、没年月日のはずですが。
これは・・・読めません。
左側面が碑文はどうでしょうか。
Fブロック(37柱)の雰囲気が
わかる写真を載せました。
明治8(1875)年から明治10(1877)年に
亡くなった兵卒と下士官の墓地です。
写真の一番手前が「稲盛金太郎墓」
彫られているのはわかっても、石の質のせいなのか、
文字の角が崩壊しているように見えます。
冒頭の「金太郎」とか、途中の「明治」とかは読めるのですが。
この碑文を読むのはあとにしましょう。
墓碑文を読み解くという単調な作業を
つづけています。
記録が見つからない以上は、
気づいた人間がやるしかないと思って。
仕事の合間なので、それまで積み上げたことも
思い出せなくて、「再発見」を繰り返すのは、
苦笑いモノですけれど・・・。
お仕着せのような決まりきった様式の墓碑文ですが、
それも消えてしまったら、この若者を人間として
追想する手がかりがなくなる気がします。
ですから、なんとしても、読み取りたいと
墓碑をいろんな角度から眺めてみるのです。
「稲盛金太郎」の墓碑は、Fブロックの端にあります。
上の写真で背後に見えているのは、日清戦争期の
墓碑群(206柱)の一部です。
この墓碑も、かなり摩滅しています。
そのうえ、コケなどが付着しているために、
読解が難しいですね。
勝手に、コケを採っていいものなのか。
右側面は、没年月日のはずですが。
これは・・・読めません。
左側面が碑文はどうでしょうか。
Fブロック(37柱)の雰囲気が
わかる写真を載せました。
明治8(1875)年から明治10(1877)年に
亡くなった兵卒と下士官の墓地です。
写真の一番手前が「稲盛金太郎墓」
彫られているのはわかっても、石の質のせいなのか、
文字の角が崩壊しているように見えます。
冒頭の「金太郎」とか、途中の「明治」とかは読めるのですが。
この碑文を読むのはあとにしましょう。
「森本元次郎」@旧大津陸軍墓地F25 ― 2008/10/26
「西河亀吉之墓」(22歳)@旧大津陸軍墓地F26 ― 2008/10/26
「植池春松之墓」(19歳)@旧大津陸軍墓地F27 ― 2008/10/26
植池春松という若者の墓。
出身は「農」つまり、農民。
順番でいけば歩兵第九聯隊では十一番目に古い墓碑です。
記録文書によれば、明治8年3月に、京都の知恩院から
真新しい大津営所に移動してきた第九聯隊の部隊は
将校・下士官を除けば、明治七年以降の徴兵から
なっていることになっています。
残念ながら、それまでの墓碑では、読解困難もあり、
士族以外の出身が刻まれた墓碑は見つかりませんでした。
この墓碑ではじめて徴兵制度によって兵役を
課された若者(農民出身)に出会うことになりました。
墓碑を読んでいて、驚いたことがあります。
それは、入営が明治9(1875)年5月2日。
病死がわずか9日後の5月11日だということです。
しかも、(数えで)19歳で亡くなったと刻まれています。
20代目前の若者が入営わずか9日で亡くなる。
いったいなにがあったのでしょうか。
物言わぬ墓石。
本人はどういう思いだったのか。
「徴兵さえしなければ」という両親の慟哭が
聞こえる気がします。
(生年月日と歿年齢があいません。読み取りが悪いのでしょうね)
出身は「農」つまり、農民。
順番でいけば歩兵第九聯隊では十一番目に古い墓碑です。
記録文書によれば、明治8年3月に、京都の知恩院から
真新しい大津営所に移動してきた第九聯隊の部隊は
将校・下士官を除けば、明治七年以降の徴兵から
なっていることになっています。
残念ながら、それまでの墓碑では、読解困難もあり、
士族以外の出身が刻まれた墓碑は見つかりませんでした。
この墓碑ではじめて徴兵制度によって兵役を
課された若者(農民出身)に出会うことになりました。
墓碑を読んでいて、驚いたことがあります。
それは、入営が明治9(1875)年5月2日。
病死がわずか9日後の5月11日だということです。
しかも、(数えで)19歳で亡くなったと刻まれています。
春松者○○○○縣下農植池市作次男也安政三辰年二月十日生於紀伊國@@@@@村明治九年五月二日為應徴入歩兵第九聯隊第二大隊同年同月十一日病死於大津営所病室干時年十九
20代目前の若者が入営わずか9日で亡くなる。
いったいなにがあったのでしょうか。
物言わぬ墓石。
本人はどういう思いだったのか。
「徴兵さえしなければ」という両親の慟哭が
聞こえる気がします。
(生年月日と歿年齢があいません。読み取りが悪いのでしょうね)
「松井善一郎之墓」@旧大津陸軍墓地F28 ― 2008/10/25
「八嶋要助之墓」@旧大津陸軍墓地F29 ― 2008/10/25
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
最近のコメント