お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


Google
WWW を検索 このブログ内を検索

カザルス・ファミリーのブラームスの六重奏曲変ロ長調作品182007/12/02

●カザルス・ファミリー

ブラームスの六重奏曲第一番は、第二楽章が有名です。
これ単独でも演奏される例がありますし、
ピアノに編曲されたものも
ブレンデルの演奏で聞いたことがあります。
私がこの曲を最初に聞いたのは、
カザルス・ファミリーのプラードでの録音でした。
CDのデータを見ると録音年月日は、
1952年6月と7月となっています。
冒頭からチェロの巨匠パブロ・カザルスの
うなり声が聞こえるCDです。
Sony Classical SMK 58994。
FMで初めて聴いて、
LPを探して買いました。
そして、CD化されたので、また買いました。
演奏者は豪華なものです。
ヴァイオリンが、アイザック・スターンとアレクサンドル・シュナイダー
ヴィオラが、ミルトン・カティムスとミルトン・トーマス
チェロがカザルスとマデリーネ・フォーレイ

●パブロ・カザルス

パブロ・カザルスは、
バッハの無伴奏チェロ組曲を再発見し、
それを自らの演奏で広めた人です。
カザルスは、バルセロナで自分のオーケストラを
持つことができたそのときに、
民主的な選挙で選ばれた政権を
フランコ将軍がクーデターで打倒するという
重大な事件が起こりました。
この政権の誕生と
それへの西欧諸国の融和政策を
許さない意思表示として、
カザルスは、自らの演奏活動を封印しました。
演奏家としての自殺行為を通して、
人生にとってなにが大切かを示した偉大な人です。

●紛れもないカザルスの音

それまでカザルスの演奏を聴いたのは、
バッハの無伴奏チェロ組曲だけでした。
それさえ、絶頂期ではなく、
カザルスが60歳を過ぎてから録音されたものでした。
1930年代にSPに録音したものです。
六重奏曲の録音は、76歳(カザルスは1876年生まれ)。
私は、無残な音を聴くのではないかと心配したのです。
しかし、音のあでやかさは失われていましたが、
その節回しは紛れもなく、カザルスでした。
第二楽章の終わりの部分で、
チェロのソロが出てきます。
それを聴いたとき、深く感動したのです。
今、CDを取り出して聴いても、
印象は同じです。

クラウディオ・アラウの偉大なシューベルト2007/12/02

●愛すべきシューベルト

シューベルトのピアノ・ソナタは、
演奏家に無条件に愛されているのだと思います。
CDを聴いて失望したということはないから、
そう思うのですが。

私が聴くことができたのは、
アルトゥール・シュナーベル、マリヤ・ユージナ、
ウラジーミル・ソフロニツキー、アルトゥール・ルビンシュタイン、
クラウディオ・アラウ、スビャトスラフ・リヒテル、
ウラジーミル・ホロヴィッツ、ウィリアム・ケンプ、
クリフォード・カーゾン、ウラジーミル・アシュケナージ、
アルフレート・ブレンデル、リチャード・グート、
エリザベス・レオンスカヤ、ヴァレリー・アファナシェフ、
内田光子、館野泉、田部京子・・・。

どの演奏家も優れた人たちばかりですね。

●シューベルトのピアノ・ソナタ イ長調 D959

私が最初夢中になっていたのは、
イ短調D845でした。
しかし、モンサンジョンが製作した
リヒテルの伝記的映画「エニグマ」を見て、
その冒頭の曲に魅せられました。
それが変ロ長調D960の第二楽章
アンダンテ・ソステヌートでした。
それをきっかけに、
シューベルトのピアノ・ソナタのCDを
買っては聴くようになったのです。

もう二日前になりましたが、
はじめてクラウディオ・アラウが演奏する
シューベルトのD959を聴きました。
そして、その第二楽章に衝撃を受けました。
かぎりなく美しいのだけれど、
どこまで深く沈潜していくかわからない闇・・・
そういう闇に魅入られた気分です。
胸を打つ演奏が数あるなかにあっても、
この演奏が白眉だと思います。
アラウの偉大さをはじめて実感したCDでした。
Philips UCCP-9354

紫の花2007/12/02

月初めの日曜日は恒例の自治会で公園掃除。
月ごとに公園の様子が変わるのを実感できる。
今月は、広葉樹の葉が無数に落ちていた。
きれいに掃除したあとで、
植えたはずのないのに、紫のキレイな花があった。

ツルの葉っぱも色を変えていました2007/12/02

公園の樹木に巻きついていたツルの葉。 9月には、キレイな緑でしたが、
12月にはこの色に。

黄色のランタナ2007/12/02

お隣のおうちの花。
今度は、まちがいなく、
ランタナだと思います。

赤のランタナ2007/12/02

これもお隣の花。
どうぞ撮ってねといわれて撮りました。
赤色が強すぎて、
ディテールが消えてしまいます。

将校ブロックメモ@旧大津陸軍墓地(作業中)2007/12/02

来年1月末まで忙殺される見通しなので、
調査を再開するときに役立つ(中間総括的な)メモをつくることにしました。(作業中

●まず、将校ブロック

個人墓碑については、大津市が1970年代につくった資料の連番をそのまま用います。1と2は、合葬碑。3から22番までの20基が将校(相当)の個人墓碑です。

3.陸軍歩兵大尉正 七位勲六等 浅野 典則

  没年月日は、大正9(1920)年2月17日。
  この方については、詳細はわからないままです。

4.陸軍歩兵少尉 正八位 田中 幸太郎

  没年月日は、明治28(1895)年2月18日

この日付は、日清戦争で第一回目の清国との講和会議(2月1日)と二回目の会談のために、李鴻章が来日した日(3月19日)の間に位置しています。同時に、第四師団が前年12月に動員完了しながら、じりじりと出征命令を待ち続けているときにあたります。出征は、3月28日でした。ですから、動員と出征という狭間の期間に亡くなられたことになります。この方も、詳細はわからないままです。

5.陸軍歩兵大尉 従七位勲五等功五級 徳大寺 亀一

  没年月日は、明治37(1894)年8月22日。

  この方は、日露戦争のとき、陸軍歩兵後備第九連隊の将校として出征。乃木大将の第三軍の指揮下に入り、旅順要塞の攻撃に参加します。旅順攻撃は、明治37(1894)年8月21日に開始されます。後備第九連隊は、この日の攻撃で、連隊長と二人の大隊長が戦死。24日の再度の攻撃で壊滅します。徳大寺大尉は、この激戦の最中22日に戦死。
 個人的な経歴などはわかりません。

6.陸軍歩兵大尉 従七位勲五等功五級 伏木 徳太郎

  没年月日は、明治37年8月24日

  この方も、徳大寺亀一大尉とともに、後備第九連隊の将校として、旅順攻撃に参加。そこで戦死されています。戦死された日付は、この連隊が壊滅的な打撃をこうむった日になっています。
  伏木徳太郎大尉の墓碑は、遺児の敏子という方が建立されています。
  旧大津陸軍墓地には、この方の奥さんの(伏木胤子)墓碑も立てられています。
  この墓碑も、同じ敏子さんが建てられています。「遺弧敏子」と刻まれているのは、遺されて孤児となったという意味ではないかと思います。(私は、「敏子」という方のほかに、「孤敏子」という方がいると思ってしまいましたが。)
  私は、この墓碑を見ると、胸がつまる思いがします。
  伏木大尉の経歴については、まだなにもわかりません。

7.陸軍歩兵大尉 正七位勲六等 松浦 文夫

  没年月日は、明治28年10月29日

8.陸軍二等軍医正 正六位勲四等 村治 重厚

  没年月日は、大正5年12月21日

9.陸軍歩兵中佐 従五位勲四等 井戸 順行

  没年月日は、明治20年3月9日

10.陸軍歩兵少佐 従五位勲四等 中山 充蔵

  没年月日は、明治34年2月6日

11.陸軍歩兵少佐 従五位正六位勲四等功五級 奈良銊治郎

  没年月日は、明治37年8月22日

  この方も、後備第九連隊付きの将校として日露戦争に出征。旅順攻撃の最中に戦死されました。少佐は、死後の昇進によります。

12.陸軍歩兵中尉 従七位勲五等 田中 忠孝

没年月日は、  没年月日は、明治20年7月17日

13.陸軍歩兵大尉 正七位勲五等 谷村 元吉

  没年月日は、明治38年7月17日

14.陸軍歩兵少尉 正八位勲六等功五級 村治 昭

  没年月日は、明治37年8月31日

  前にも引用した明治44年の『大津市志』では次のように書かれています。
大津市神出
陸軍歩兵少尉正八位勲六等功五級 村治 昭
明治十六年二月十七日生
明治三十四年十二月士官候補生出身。歩兵第九連隊小隊長として三十七八戦役従軍。各地戦闘。明治三十七年八月三十一日遼陽付近の戦闘に於て面部貫通銃創を受け戦死。同日戦功に依り叙勲六等単光旭日章並に功五級全鶏勲章従軍記章を賜はり、同三十八年五月靖国神社に合祀される。

15.陸軍歩兵中尉 従七位 伊東 兼太郎

  没年月日は、明治28年5月7日

16.陸軍歩兵少尉 正八位勲六位功五級 鎌倉 誠一

  没年月日は、明治37年9月6日

17.不明

18.陸軍歩兵大尉 南保 一義

  没年月日は、不明。

19.陸軍歩兵中尉 従七位 宮田 金之助

  没年月日は、大正7年10月30日

20.陸軍歩兵大尉 従六位勲四等 稲垣 伊右衛門

  没年月日は、大正6年4月26日

21.陸軍歩兵少将 正五位勲三等功四等 草場彦輔

  没年月日は、明治45年1月5日

22.陸軍歩兵中佐 従五位勲四等 西田 源吾

  没年月日は、昭和5年8月29日
  旧大津陸軍墓地全体でもっとも年代の若い墓碑です

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)