お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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2005年5月。見えます。2007/12/13

琵琶湖見えています
この写真はくりかえし、アップしたくなる写真ですし、
アップし続けたいのです。
撮影日時は、2005年5月29日。
もう二度と撮影することができないからです。
この写真を見て、つぎの写真を見ていただければ、
意味がわかります。
ぜひ、見比べてください。

2007年7月。見えません。2007/12/13

見えません・・・(悲)
これは、現在の形です。
撮影は、2007年7月22日。
前にもアップしましたが、何度見ても
腹が立つ(住んでいる人に罪はありませんが)
見えません。
なにが?
なにがって、・・・あれですよ。あれ。
琵琶湖。
・・・こんなに近くにあるのに。
見えないことの悲しさを
わかっていただければ、
まだ救われます。

琵琶湖と上空に広がる雲に2007/12/13

なぎさ公園から見た琵琶湖。
雲が広がっています。
昼休みのわずかな時間に、
湖岸に出て写真を撮ってきました。

私は、楽しそうになぎさ公園を歩いていましたが、
市議会議員のTさんは、この「なぎさ公園」を含む
埋め立てを許そうとはしませんでした。
(たぶん現在も)
わたしは、浜大津港から北に住んでいましたから、
この土地の原風景を頭に描くことはできません。
そのせいで、怒りがわかないのだと思っていました。

今日、事務所ビルの3階で会議をしているさなか、
その主題とは関係ないことでしたが、
この埋め立てが、湖岸での高層建築林立の
原型をなしていることに気がつきました。
当然といえば当然ですが、私は
はじめて実感をもって受け止められたのです。

石山団地建設のために、山を削った土砂の
始末の場所として、琵琶湖が選ばれ、
かなり広大な面積の埋め立てられました。
それが、なぎさ公園を外周にもつ
高層の事務所ビルが立ち並ぶ区画です。

埋め立て=水質悪化という問題もあります。
しかし、旧市街を500メートル近い幅で
琵琶湖からせり出して、そこに高層建築を
建て続けたことによって、住民の目を琵琶湖から
遮断する長い「壁」が生まれたのです。

この地域に、ビジネスビルを誘致したことによって、
県都としての経済機能を拡大したという側面は
あると思います。もともと山と琵琶湖のわずかな
すきまにあるまちですから。
しかし、その結果どうなったのか。
親水性を高めると「なぎさ公園」をつくりましたが、
市民は、そこまで足をはこばなければ、
琵琶湖に出会うことはできなくなりました。

過ぎたことをいまさらとやかくいうつもりは、
ありません。
ただ、埋め立て後の風景を当たり前(原風景)と感じる
ようになってしまえが、さらなる林立を
とめる力は生まれません。
300万年を越す貴重な古代湖に接するまち大津。
その貴重な自然と景観にだれしも接することが
できる権利を認め、それを阻害するものを許さないまち、
そんなまちづくりを夢見るのです。

葉牡丹(赤)2007/12/13

花キャベツともいいますね。
ヨーロッパ原産。
雨の日に見つけて撮影。

葉牡丹(白)2007/12/13

葉牡丹は、花キャベツともいう。
たしかに、キャベツにそっくりだ。
キャベツに花は咲かない。
と私は思っていたけれど、
 ちがった→コメント


葉牡丹は、4月あたりに花が咲くという。
ネットで写真を見ると、ソフトクリームみたいに
葉が盛り上がっていって、
その上に、黄色い花が咲く。

見てみたい。

電車に見とれて山を見ず・・・もったいない2007/12/13

甲賀市に出かけた。
道をまちがえて、バックしたとき、
踏み切りで電車が登場。
ここは単線でもある。
私は、ものめずらしくて
カメラを取り出して撮影した。

あとで写真を見ると、
遠くの山々が美しい。
明るい日をあびて、紅葉もみえる。

写真には残っているが、
記憶には残っていない。
きっと、目の前にありながら、
見失ったものが
たくさんあるのだ・・・。
なにか神妙な気分。

弁慶の引き摺り鐘2007/12/13

「弁慶の引き摺り鐘」は、
三井寺の講堂近くの
お堂におかれている。

この鐘は、わたしが10代にもならないときに、
毎日眺めていた鐘だ。
十数年ぶりの対面。

私は三井寺の近くに住んでいた。
当時は入山無料だったので、
三井寺の広大な境内全体が
こどもたちの遊び場だった。
その当時、「引き摺り鐘」があるこの
お堂の中を見るのは、有料だった。
同級生のお母さんだったDさんが、
ちいさな窓から料金を受け取り、
おもむろに説明をした。
私はその話に興味津々。
横からのぞいて、熱心に
聴いているものだから、
無料でなんども聞かせてくれた。

私が気に入ったフレーズは、
山中に捨てられた鐘が、
もとのお寺にもどりたくて、
毎晩「イノー、イノー(帰ろう、帰ろう)」と
鳴くことだった。

それで、すっかり覚えて、
観光客の前でやってみせても
Dさんは怒らなかった。

今は、その窓口も、
Dさんの姿もない。


                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)