お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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旧真田山陸軍墓地にもあった「陸軍歩兵二等卒林力松之墓」2010/12/08

 国立歴史民俗博物館の研究報告「慰霊と墓」を丁寧にみています。これには、旧真田山陸軍墓地にある墓碑のリストが掲載されているからです。
南小松にある「陸軍歩兵二等卒林力松碑」
 以前、旧志賀町で「陸軍歩兵二等卒林力松碑」を紹介しました。上の写真がそれです。記事は→ここ
 旧真田山陸軍墓地にも墓碑があることがわかりました。

「陸軍歩兵二等卒林力松之墓」

IDは、E-6-5でした。南小松は「碑」ですが、旧真田山陸軍墓地では「墓」です。この墓碑には、「明治二十八年九月十六日於台湾牛四島頭兵站司令部死」と刻まれているそうです。
 永田村の陸軍歩兵一等卒 三矢松太郎と同じ場所で、同じころに死亡したのかもしれません。記事は→ここ。三矢が死亡したのは、牛馬頭患者宿泊所病院(島の上に四を書けば、馬に見えるのか、その逆かも?)。ときもほぼ同じ九月二十三日でした。
 旧真田山陸軍墓地にある墓碑だけでは、林力松の出身地がわからなかったはずですが、現地(民間墓地)と照らし合わせることで、判明したことになります。

陸軍砲兵一等卒中井藤八之墓@旧真田山陸軍墓地2010/12/08

旧真田山陸具墓地の墓碑名簿を見ていたら、「滋賀県高島郡平良村平民」と刻まれた墓碑があるのを見つけました。これ以上の碑文は読めないそうですが、気になったので、メモとして残しておきます。 F-8-1

明治8年以前の第九聯隊兵卒の墓碑は旧真田山墓地にあるのか2010/12/08

 旧大津陸軍墓地にある墓碑のうち、最も古い死亡年月日を刻んでいるのは、彦根に屯所があった十八番大隊の兵卒の墓碑で、明治5年の日付をもっています。しかし、これは、明治の末に、彦根から移葬されたものであって、最初からあったわけではありません。
 旧大津陸軍墓地は、第九聯隊が営所が大津市に新設(明治8年)されることにともなって、附属埋葬地として造られました。竣工は、明治10年10月ですが、第九聯隊の墓碑で最も古いもの(舘源左衛門の墓碑)は、明治8年7月15日の日付があります。
明治八年七月十五日死亡の「舘源左衛門」の墓
 しかし、第九聯隊そのものは、大津営所が完成する以前(明治7年)に、設けられていましたから、その間に亡くなった兵卒は、どこに葬られたのかということになります。たぶん、旧真田山陸軍墓地だろうと思っていましたが、その例証を見つけました。

「兵卒木村松之墓」

死亡年月日は、「明治七年十月に𠘨三日
右側面には、「近江国甲東郡杣中村□兵衛男とあるそうです。F-37-21.

「陸軍一等兵福嶋松次郎之墓」

福嶋の墓碑を見ると、明治7年4月22日に歩兵第九聯隊に入営し、明治10年11月13日に、大坂鎮台病院で亡くなっています。想像するに、西南戦争に出征後、亡くなったのだと思います。戦の終わったあとにです。F-41-21。

滋賀県教育委員会が高校統廃合計画の実施を一年延期を表明2010/12/08

 今年7月の知事選で、公立高校の統廃合問題が争点になりました。その後、署名運動などが行われ、県教育委員長は、現在開催中の議会で今年度の実施はあきらめ、来年度以降に延期すると述べたそうです。
 私は歓迎します。
 この議論のなかで、あらためて高校が地域の拠り所となっていることを知りました。同時に、生徒数が減少するという根拠も失われたなかで、実施が断念されることないことを考えれば、運動は続けることが大事だと思います。
 滋賀県では、びわ湖空港、新幹線新駅、大型産廃施設など、無駄遣いや環境破壊の計画に対して、住民運動で対抗して、それらを止めるということが続いています。誇れることだと思います。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)