お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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自民と民主が合同(連立)すれば、民(意)が消えて、自主(自分たちが主人)党。2007/11/02

 福田首相との民主党の小沢代表との党首会談がはじまったとき、国会という国民の目の届くところではなく、二人だけの密室であることが注目された。
国会日程すら曲げて続く会談。
それらが、どのような内容の会談であるのかを、語っていると思われた。
結局、大連立の打診と持ち帰り。

置き去りになったのは、民意である。

椿2007/11/02

椿の花を真上から見てみる。

椿のつぼみ2007/11/02

赤と白が、内部から光が当たっているような印象である。

満開の椿2007/11/02

満開になると微妙な色合いは消えて、全体が真っ白の世界。

今日も月下美人のつぼみを見に行く2007/11/02

 お昼時に、月下美人のつぼみを見に行く。スーパーの社長さんが言うように、三つあったのに、二つになっている。午前四時に咲いたと思ったら、ひょいと抜かれてしまったとか。
 つぼみはかなりグロテスク(失礼)
 でも、この花の生え方が普通じゃない。
葉っぱの先から生えている・・・_?

月下美人の花は、葉っぱのこぶ?2007/11/02

じっと月下美人の花の付け根を観察。
ほんとうに葉っぱから生えているじゃないか!
こんなの見たことがありません!

これは、菊??2007/11/02

形は菊に見えます。ツートンカラーなんですね。

きれいですが怪しい花、おしべに刺さりそう2007/11/02

きれいだとおもって近づくと、怖そうな花でした。
おしべでしょうか、トゲトゲで、曲がっています。

旧膳所藩主菩提所を訪れて2007/11/02

体重の調整や体力をつけるために、せいぜい歩くことにしています。大切な文書を作っているときには、なおさら、肩が張って、眠れないこともありますから。
 この2ヶ月は、墓碑に凝っているので、お寺があり、そこに墓地を見つけると、あいさつをして、少しの時間でも、拝見することにしています。
 膳所高校グランドの琵琶湖側を歩くと、ブロックの塀があります。普段は、気にも留めずに歩ききるのですが、ふと気になって内部を見ました。そして、一目で日露戦争戦死者の墓碑とわかるものを見つけました。
  見るだけなら、一二分しかかりませんので、ブロック塀の切れた裏口からお寺に入り、拝見する許可を求めました。
 いらっしゃったのは、ご住職さんの奥さんでしょうか?趣旨を述べると、少し気分を害したのか、怪訝な顔をされました。
 「うちは、旧膳所藩主の方の菩提寺で、藩主や家老さんたちの墓碑ならあります。いまも子孫の方も来られる墓地ですが、戦争で亡くなられた墓碑は存じ上げていません。でも、もしあれば、教えていただければと思います」とのことでした。
 私は、失礼なことを言ったことを後悔しました。そういうところならば、藩主さんの墓碑を拝見したいのですがと切り出すべきだったのです。
 裏口から入ったために、このお寺がどういう場所かがわからなかったのです。そういえばと頭のなかで、このお寺の位置を思い出して、「旧膳所藩主菩提所」という石碑のあったところだと悟りました。でも後の祭りです。
 差し出した名刺を手にとって眺めながら、気軽に「どうぞ」といっていただいたので、拝見することにしました。

石の格子に囲まれた旧膳所藩主の墓碑2007/11/02

石の格子に囲まれた空間に、簡素な墓石が置かれています。残念ながら、膳所藩主だった本田家のことを詳しく知らないんで、どなたの墓碑なのか想像がつきません。
別格の墓地であることは、よくわかりました。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)