お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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遼東半島に上陸した歩兵第九連隊、4月の病死者69名はどの病院で亡くなったのか2007/11/21

●沙家屯と劉家店には、どういう病院があったのか

 先に見たように、柳樹屯兵站病院、旅順口兵站病院、金州兵站病院、大孤山兵站病院、営口兵站病院、大連湾検疫所が明治28年7月の時点で開設されていた。
 第九連隊の病死者の墓碑を読むと、4月に病死したものの墓碑数は、下士官5名、兵卒64名で合計69名。それらのうち、劉家店と沙家屯で亡くなったものがもっとも多くて、それぞれ17名(下士官1名と兵卒16名)である。ついで、上陸地点である柳樹屯の13名(下士官1名と兵卒12名)。
 これら3ヵ所で47名に及ぶ。

 柳樹屯で亡くなったものは、柳樹屯兵站病院だと思われる。では、沙家屯と劉家店には、どういう病院があったのか?

●第四師団野戦病院経歴書

 日清戦争(明治二十七・二十八年戦役)の各部隊経歴書を読むと、いつ、どこで、どういう病院が開設されたかが、わかる。
 この場合では、第四師団野戦病院の経歴のなかに見つけることができた。

 「第四師団第二野戦病院 明治二十七年十二月三日動員完成 第四師団中ニ在テ二十八年二月二十五日衛戍地ヲ出発同日広島ニ到リ四月十二日宇品ニ於テ乗船同月二十三日柳樹屯ニ上陸 四月二十四日劉家店ニ進ミ同日劉家店避病室開設四月二十六日沙家屯ニ至ル 同日沙家屯舎営病院開設 同月三十日皮子窩ニ至リ皮子窩舎営病院開設・・・」

とある。
 4月に開設した時点で、第四師団野戦病院は、半数の部隊を沙家屯においていたことも記載されている。もちろん、これからまた移動するわけだが。

●劉家店避病室 4月24日開設

 死亡場所が「劉家店」と書かれた墓碑は、すべて明治28年4月と刻まれている。それが不思議であった。
 その原因は、ここに置かれたのが、野戦病院ではなく、さらに一時的な施設である「避病室」であったためなのだろう。それだけ切迫した状況であったのかも知れない。開設前の21日と22日に、それぞれ1名の死者を出しているからである。
 墓碑によって、ここで亡くなった人たちの氏名、階級、没日は以下のとおりである。

開設前(2名)
 4月21日 一等卒  吉川 源一郎(128)
 4月22日 二等卒  宮嶋 作彌(69)

開設後(15名)
 4月25日 一等卒  浦谷 亀太郎(6)
 4月25日 一等卒  中川 安次郎(53)
 4月25日 二等卒  木村 忠氏(60)
 4月25日 一等卒  山本 松之助(92)
 4月25日 二等卒  西嶋 卯之助(95)
 4月25日 輜重輸卒 高橋 伊之助(113)
 4月25日 上等兵  村田 喜治郎(118)
 4月25日 一等卒  鎌田 辰治郎(162)
 4月26日 一等軍曹 矢杉 安太郎(B)
 4月26日 一等卒  西村 小太郎(89)
 4月28日 上等兵  坂口 房吉(11)
 4月28日 二等卒  平岩 作次郎(56)
 4月29日 二等卒  木下 京松(147)
 4月29日 一等卒  里内 松太郎(107)
 4月29日 一等卒  中澤 忠右衛門(67)

以上、17名である。
 これでプッツリこの地での病死者は途絶えている。引き払われて、沙家屯舎営病院に収容したのではないだろうか。

●沙家屯舎営病院 4月26日開設

 ここは、第四師団野戦病院が半数のスタッフをさいて開設した病院だけに規模も大きいと思われる。明治44年の「大津市志」にも、この病院の名前を見ることができる。

●残りの14名の死者について

 4月の死亡者、69名(下士官5名、兵卒64名)のうち、死亡場所が省略されている墓碑が3、不明が4ある。船中で亡くなった特務曹長が1名。上に挙げた沙家屯、劉家店、柳樹屯の病死者の合計が47名。
 残りの14名について、つぎに見ることにする。

・・・つづく。

明治28年4月、第九連隊の14名の病死者について2007/11/21

●あまりにも簡略な「経歴書」の記述

 旧大津陸軍墓地の個人墓碑数の3割強が日清戦争にかかわる墓碑。そのなかでも、もっとも多数を占めるのが、明治28年4月の墓碑数で69柱ある。
 にもかかわらず、公式の文書はなにひとつ語ろうとしない。
 あらためてこの月の動きをまとめると以下のようになる。

 第四師団歩兵第九連隊は、日清戦争の休戦協定(3月30日)の直前に大津市を出征(3月28日)し、広島に到着した。ここで約10日間逗留したのち、遼東半島にむかって11日と13日に宇品港を出向し、4月14日と16日に大連湾に到着した。だが、4月17日に、日清講和条約が締結された。21日、講和の詔勅が下りた。上陸前に戦争は終結してしまったのである。
 第九連隊は、22日と23日に柳樹屯に上陸。24日と25日に「沙家屯附近ニ在ル西華家屯附近ノ舎営地」(第九連隊戦役経歴書)に到着した。

●私がしようとしていること

 明治28年4月の第九連隊の行動については、これ以上詳しい記述が「戦役経歴書」にも、明治44年の「大津市志」にも、昭和17年の「大津市史」にも見当たらない。

 ましてや、病死者についての記述は存在しない。
 その空白を補い、旧大津陸軍墓地に眠る人たちの姿を辿ること--
それが、私の目的である。

●コレラの流行について

 一之瀬俊也著『旅順と南京』(文春新書 2007年11月20日!!)によると、この年の1月下旬ごろから金州地方でコレラの流行がはじまっていたらしいことがわかる(「第一連隊戦役経歴書」)。日本軍はこれを警戒し、飲み水への注意を促している。毒を流すといううわさも流れている。
 山本俊一『日本コレラ史』(1982)によれば、この年の日本での最初の患者は、大連から帰国した解雇人夫であり、宇品港で発見されたという。大陸から持ち込まれたコレラは国内でもたちまち広がったのである。

●柳樹屯、劉家店、沙家屯の病死者

 22日と23日の上陸地点である柳樹屯には、金州最大の柳樹屯兵站病院があった。ここで4月に亡くなった方の墓石が、下士官1基兵卒12基合計13基ある。
 劉家店では、4月24日に劉家店避病室が開設された。開設前の日付から29日までの日付で、下士官1基兵卒16基合計17基。
 舎営地(附近)の沙家屯には、4月26日に、第四師団によって舎営病院がつくられた。この地を死亡場所とする墓碑は、4月27日から29日の3日間だけで下士官1基兵卒16基で合計17基。5月17日までの総計は36基である。

●死亡場所不明者の墓碑

 旧大津陸軍墓地Eブロックには、死亡場所が省略されている兵卒の墓石が4月だけで基ある。

 4月 6日 一等卒 岩田 夛吉(78)
 4月 6日 一等卒 幾田 幾之助(121)
 4月11日 二等卒 吉田 清次郎(25)

 4月6日は広島に滞在中の日付。11日は第一大隊と第二大隊が出航の日付である。ちなみに第三大隊は13日。
また場所の記入はあっても読解困難な墓石が同じく4月だけで基ある。
 これらについては後日の課題としたい。

●死亡年月日が4月6日柳樹屯の墓碑

 これも基ある。誤記なのか。

●4月11日に船中で病死

 特務曹長の尾嵜常人である。

●4月に死亡したとある残り14名の墓石

 4月に亡くなった人たちの墓石には、さまざまな地名が刻まれている。地名に詳しくない私は思わぬミスをするかも知れないので、その点はご容赦を。

亡くなった日付の順に並べると以下のとおり

4月17日 旅順口(181)
4月21日 旅順口(79)
4月21日 大連湾(44)
4月24日 金州(84)
4月25日 劉家屯(87)
4月26日 金州(81)
4月26日 花家屯(177)
4月27日 花家屯(下士官)
4月27日 林家屯(109)
4月27日 林家屯(149)
4月27日 林家屯(152)
4月28日 孫家屯(93)
4月28日 孫家屯(108)
4月29日 蔡家店(42)

 一見して、旅順口には旅順口兵站病院、大連湾には大連湾検疫所、金州には金州兵站病院があるので、それらの地名ならば、それぞれ病院または検疫所で亡くなったものと推測できる。
 しかし、その他については、すぐにわかるとは思えない。後日を期したい。

とりあえず、つづく・・・・。(一部訂正あり)

一ノ瀬俊也著『旅順と南京 日中五十年戦争の起源』2007/11/21

 昨日はじめて手にとってから、熱っぽくて頭痛がしているにもかかわらず、読み切ってしまった。本のタイトルは、難題を思わせるが、叙述は平易。というのも、日清戦争に従軍した兵卒と軍夫の日記がほとんどを占めているからだ。口絵として、軍夫が描いた絵が載っているが、これには息を呑んだ。戦争のリアルさを公式的な観点ではなく、戦った兵の観点から、また日本の軍隊の非近代性を物語る軍夫の観点から、描かれている・・・それを大切にして紹介してくれている本書と若い著者に感謝したい。
 これは、文春新書で、2007年11月20日刊とあるから、私は最初の読者かな・・・(笑)。

35名の沙家屯舎営病院での死亡者(1895年4月~5月)について2007/11/21

沙家屯舎営病院で腸カタルで死亡した陸軍歩兵上等兵井上友治郎の墓石
●月別の墓碑数

 明治28年3月28日に大津を出征したあと、4月から12月まで、第四師団第九連隊は、遼東半島で守備の任務についていた。この任務で亡くなった人々の墓碑が、将校1基、下士官13基、兵卒204基、旧大津陸軍墓地にある。
 月別に見ると、最初の月の4月がもっとも多数である。
 下士官5名、兵卒64人名合計69名になる。
 5月には、将校1人兵卒26名合計27名、6月は将校も下士官もなく、兵卒7名と減少している。コレラなどの伝染病が収まったのであろう。
しかし、7月に再び増加している。
 7月は、下士官3名兵卒28名合計31名。前月の4倍を超えている。8月は、兵卒のみで24名と若干減少するが、9月は下士官4名兵卒31名合計35名となり4月に続くピークを築いている。
 10月からは減少。
 10月は下士官1名兵卒14名と前月の半数以下となり、11月には兵卒のみで6名、最後の月12月は4名となっている。

●35名ともっとも多い沙家屯

 死亡場所では、沙家屯がもっとも多く兵卒35名。ついで海城で、下士官5名兵卒27名で合計32名、三番目に柳樹屯。下士官1名兵卒26名で合計27名となっている。四番目が貔子窩。下士官1名兵卒17名で合計18名。五番目が劉家店で下士官1名兵卒16名で合計17名。そして金州。兵卒16名である。船中や不明、無記入を除けば、これ以外に15箇所の地名が刻まれている。

●長期にわたる箇所と集中する箇所

 第九連隊の行動とかかわって、長期にわたって病死者が出ている地点と短期に集中している地点がある。
 沙家屯、劉家店、小河沿などは、後者である。
 沙家屯は4月と5月の二ヶ月で36(うち下士官1)名、劉家店は4月だけで17(うち下士官1)名、小河沿は7月と8月で13(うち下士官2)名となっている。

●劉家店

 劉家店については、すでに述べた。船中ですでに発祥していた人々を臨時に隔離収容したのであろう。沙家屯舎営地に行くことができない下士官を兵卒を看護し、看取ったと思われる。前述のように時期も限定されていて、病死者は4月21日から始まり、29日で終わっている。

●沙家屯舎営病院での病死者

 第九連隊は、連隊本部と第三大隊が24日、第一大隊と第二大隊が25日に、沙家屯附近の舎営地に到着している。
 第四師団の野戦病院は26日に到着し、同日に開設。
 沙家屯での死者は、開設直後の27日から始まっている。
 以下、36名の内訳(日付と病死者、具体的には墓石の数を示す。

4月27日 2名
4月28日 4名(うち1名は下士官)
4月29日 8名
4月30日 3名
5月 1日 5名
5月 2日 2名 
5月 3日 5名
5月 4日 
5月 5日 1名
5月 6日 1名
5月 7日 1名
5月 8日 1名

 以下、5月12日に1名、13日に1名と連日ではなくなり、最後の病死者(旧大津陸軍墓地にある墓碑で)は、5月17日となっている。これ以降はない。

●陸軍歩兵上等兵 井上友治郎(76) の場合

 私は病死者といっているが、旧大津陸軍墓地の墓碑には「病死」とか病院名は一切刻まれていない。しかし、『大津市志』のなかには、そのことを明確に述べている箇所がある。それを引用し、推測が的外れでないことの証にしたい。
 『大津市志』(明治44年)の「人物志」に掲載されている人物の墓石が、Eブロックに存在する。その一つが、沙家屯で亡くなった井上友治郎である。

大津市下百石町二十一番屋敷
陸軍歩兵上等兵 井上 友治郎
明治三年八月一日生れ
明治二十三年徴兵出身予備役として歩兵第九連隊に属し二十七八年戦役(=日清戦争のこと)従軍。腸加答留症に罹り清国沙家屯舎営病院に於て明治二十八年四月二十九日死亡。

 氏名、階級、死亡年月日、場所はすべて「市志」と墓碑が一致している。大津市がバイパス建設のときに作成した資料では、場所は合致しているが、階級がまちって二等卒になっているが。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

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  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

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      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

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 □ ブロック 埋葬者名簿

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 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)