お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


Google
WWW を検索 このブログ内を検索

35名の沙家屯舎営病院での死亡者(1895年4月~5月)について2007/11/21

沙家屯舎営病院で腸カタルで死亡した陸軍歩兵上等兵井上友治郎の墓石
●月別の墓碑数

 明治28年3月28日に大津を出征したあと、4月から12月まで、第四師団第九連隊は、遼東半島で守備の任務についていた。この任務で亡くなった人々の墓碑が、将校1基、下士官13基、兵卒204基、旧大津陸軍墓地にある。
 月別に見ると、最初の月の4月がもっとも多数である。
 下士官5名、兵卒64人名合計69名になる。
 5月には、将校1人兵卒26名合計27名、6月は将校も下士官もなく、兵卒7名と減少している。コレラなどの伝染病が収まったのであろう。
しかし、7月に再び増加している。
 7月は、下士官3名兵卒28名合計31名。前月の4倍を超えている。8月は、兵卒のみで24名と若干減少するが、9月は下士官4名兵卒31名合計35名となり4月に続くピークを築いている。
 10月からは減少。
 10月は下士官1名兵卒14名と前月の半数以下となり、11月には兵卒のみで6名、最後の月12月は4名となっている。

●35名ともっとも多い沙家屯

 死亡場所では、沙家屯がもっとも多く兵卒35名。ついで海城で、下士官5名兵卒27名で合計32名、三番目に柳樹屯。下士官1名兵卒26名で合計27名となっている。四番目が貔子窩。下士官1名兵卒17名で合計18名。五番目が劉家店で下士官1名兵卒16名で合計17名。そして金州。兵卒16名である。船中や不明、無記入を除けば、これ以外に15箇所の地名が刻まれている。

●長期にわたる箇所と集中する箇所

 第九連隊の行動とかかわって、長期にわたって病死者が出ている地点と短期に集中している地点がある。
 沙家屯、劉家店、小河沿などは、後者である。
 沙家屯は4月と5月の二ヶ月で36(うち下士官1)名、劉家店は4月だけで17(うち下士官1)名、小河沿は7月と8月で13(うち下士官2)名となっている。

●劉家店

 劉家店については、すでに述べた。船中ですでに発祥していた人々を臨時に隔離収容したのであろう。沙家屯舎営地に行くことができない下士官を兵卒を看護し、看取ったと思われる。前述のように時期も限定されていて、病死者は4月21日から始まり、29日で終わっている。

●沙家屯舎営病院での病死者

 第九連隊は、連隊本部と第三大隊が24日、第一大隊と第二大隊が25日に、沙家屯附近の舎営地に到着している。
 第四師団の野戦病院は26日に到着し、同日に開設。
 沙家屯での死者は、開設直後の27日から始まっている。
 以下、36名の内訳(日付と病死者、具体的には墓石の数を示す。

4月27日 2名
4月28日 4名(うち1名は下士官)
4月29日 8名
4月30日 3名
5月 1日 5名
5月 2日 2名 
5月 3日 5名
5月 4日 
5月 5日 1名
5月 6日 1名
5月 7日 1名
5月 8日 1名

 以下、5月12日に1名、13日に1名と連日ではなくなり、最後の病死者(旧大津陸軍墓地にある墓碑で)は、5月17日となっている。これ以降はない。

●陸軍歩兵上等兵 井上友治郎(76) の場合

 私は病死者といっているが、旧大津陸軍墓地の墓碑には「病死」とか病院名は一切刻まれていない。しかし、『大津市志』のなかには、そのことを明確に述べている箇所がある。それを引用し、推測が的外れでないことの証にしたい。
 『大津市志』(明治44年)の「人物志」に掲載されている人物の墓石が、Eブロックに存在する。その一つが、沙家屯で亡くなった井上友治郎である。

大津市下百石町二十一番屋敷
陸軍歩兵上等兵 井上 友治郎
明治三年八月一日生れ
明治二十三年徴兵出身予備役として歩兵第九連隊に属し二十七八年戦役(=日清戦争のこと)従軍。腸加答留症に罹り清国沙家屯舎営病院に於て明治二十八年四月二十九日死亡。

 氏名、階級、死亡年月日、場所はすべて「市志」と墓碑が一致している。大津市がバイパス建設のときに作成した資料では、場所は合致しているが、階級がまちって二等卒になっているが。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/11/21/2450774/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。


                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)