お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
牛渡六郎少佐の経歴 ― 2007/11/17
この時点で、牛渡六郎少佐の経歴がすべてわかるわけではありません。分かっていることは、以下のことです。
①福島県出身の士族。
②第四鎮台第九連隊に所属
③明治28(1895)年、日清戦争出征。
④守備隊として、第九連隊大二大隊に属して勤務。
⑤最後の任務と階級は、第九連隊第三大隊長で少佐。
⑥明治30(1897)年に、行方不明になった。
⑦三男の墓碑は、日清戦争へ出征する直前に建立した。
墓碑は、明治27(1894)年11月15日
出征は、明治28(1895)年3月28日。
⑧長女は、少佐が行方不明になってから2年後に亡くなった
行方不明を伝える文書は、明治30(1897)年8月。
長女がな亡くなったのは、明治32(1899)年4月28日。
行方不明が解消されたかどうかはたしかに不明。
しかし、不自然な墓碑の建立のあり方からは、
不幸な結果を想像します。
①福島県出身の士族。
②第四鎮台第九連隊に所属
③明治28(1895)年、日清戦争出征。
④守備隊として、第九連隊大二大隊に属して勤務。
⑤最後の任務と階級は、第九連隊第三大隊長で少佐。
⑥明治30(1897)年に、行方不明になった。
⑦三男の墓碑は、日清戦争へ出征する直前に建立した。
墓碑は、明治27(1894)年11月15日
出征は、明治28(1895)年3月28日。
⑧長女は、少佐が行方不明になってから2年後に亡くなった
行方不明を伝える文書は、明治30(1897)年8月。
長女がな亡くなったのは、明治32(1899)年4月28日。
行方不明が解消されたかどうかはたしかに不明。
しかし、不自然な墓碑の建立のあり方からは、
不幸な結果を想像します。
今屋花子之墓@旧大津陸軍墓地 ― 2007/11/17
おそらくは、将校の縁戚のための墓地と思われる旧大津陸軍墓地のMブロック。現存する10柱のうち5柱までは、かかわりのある将校の名前が特定することができています。残りは5柱。
●外見は、将校墓地とは別々の印象
私が初めてMブロックの墓地を見たとき、同じ上段にあるものの、将校の墓地には偶然接しているだけだと思っていました。
見たところ、関係がないと思わせる形になっているのです。
将校の墓碑は、L字形に並んでいます。しかも、L字の内側に顔を向けて墓石は並んでいるのです。Mブロックは、L字の外側、つまり左側にあります。ですから、将校の墓碑のいくつかは、Mブロックに背を向けているのです。
しかも、名前だけが彫られていたり、戒名だけがあったり。ていねいに見ないと関係がわかりませんでした。今は、これが将校の縁戚の墓地だとはっきりわかってきました。
●夭折した今屋花子
墓石の横の碑文を読むと、わずか1歳でなくなっていることがわかります。明治43年6月22日のことです。
墓碑には、これだけしか書かれていません。しかし、この名前と時代を手がかりに、かかわりのある将校がいないかどうか、探してみます。
●外見は、将校墓地とは別々の印象
私が初めてMブロックの墓地を見たとき、同じ上段にあるものの、将校の墓地には偶然接しているだけだと思っていました。
見たところ、関係がないと思わせる形になっているのです。
将校の墓碑は、L字形に並んでいます。しかも、L字の内側に顔を向けて墓石は並んでいるのです。Mブロックは、L字の外側、つまり左側にあります。ですから、将校の墓碑のいくつかは、Mブロックに背を向けているのです。
しかも、名前だけが彫られていたり、戒名だけがあったり。ていねいに見ないと関係がわかりませんでした。今は、これが将校の縁戚の墓地だとはっきりわかってきました。
●夭折した今屋花子
墓石の横の碑文を読むと、わずか1歳でなくなっていることがわかります。明治43年6月22日のことです。
墓碑には、これだけしか書かれていません。しかし、この名前と時代を手がかりに、かかわりのある将校がいないかどうか、探してみます。
歩兵第九連隊長 今屋友次郎 ― 2007/11/17
明治44年12月02日に、歩兵第九連隊長 今屋友次郎が書いた機密書類が残っています。
密受第五七四号
歩九教甲第四三号
軍事密第四七三号
外国武官成績ノ件報告
明治四十四年十二月二日 歩兵第九連隊長 今屋友次郎
陸軍大臣男爵 石本新六殿
外国武官成績別紙ノ通及報告候也
外国武官成績報告書
佛国参謀科 歩兵大尉 ド、ラポマレード
明治四十三年十二月五日著隊後ハ連隊本部附ヲ命シ一般教育及内務ニ関シテハ概子其欲スルトコロニ従ヒ見学ノ便宜ヲ与ヘ其他諸教練諸演習ニハ常ニ之ニ出場シ一般将校ト同様之ニ従事セシメ就中饗庭野野営其他諸検閲並秋季演習ニ於テハ宿営給養等全然連隊本部ノ一員トシテ行動ヲ共ニセシメタルニ終始其取扱ニ対シ頗ル満悦ノ誠意ヲ表シ@孜々トシテ熱心誠實ニ従事シ未曽テ倦怠ノ状ヲ認メタルコトナク其研究心ノ旺盛ナル著眼点ノ適切ナル實ニ感スルニ餘リアリ 外国武官トシテ隊附勤務ニ関スル諸条規ノ恪守服行ニ・・・。
●今屋友次郎の経歴
慶応3年2月 生
明治20年7月21日 陸軍少尉
明治42年5月29日 陸軍歩兵大佐・歩兵第9聯隊長
大正1年11月30日 歩兵第30聯隊長
大正4年2月15日 陸軍少将・歩兵第12旅団長
大正6年8月6日 待命
大正6年12月1日 予備役
昭和20年4月 歿
これでいくと、慶応3(1867)年生まれですから、花子が亡くなった明治43(1910)年では、43歳ですね。
密受第五七四号
歩九教甲第四三号
軍事密第四七三号
外国武官成績ノ件報告
明治四十四年十二月二日 歩兵第九連隊長 今屋友次郎
陸軍大臣男爵 石本新六殿
外国武官成績別紙ノ通及報告候也
外国武官成績報告書
佛国参謀科 歩兵大尉 ド、ラポマレード
明治四十三年十二月五日著隊後ハ連隊本部附ヲ命シ一般教育及内務ニ関シテハ概子其欲スルトコロニ従ヒ見学ノ便宜ヲ与ヘ其他諸教練諸演習ニハ常ニ之ニ出場シ一般将校ト同様之ニ従事セシメ就中饗庭野野営其他諸検閲並秋季演習ニ於テハ宿営給養等全然連隊本部ノ一員トシテ行動ヲ共ニセシメタルニ終始其取扱ニ対シ頗ル満悦ノ誠意ヲ表シ@孜々トシテ熱心誠實ニ従事シ未曽テ倦怠ノ状ヲ認メタルコトナク其研究心ノ旺盛ナル著眼点ノ適切ナル實ニ感スルニ餘リアリ 外国武官トシテ隊附勤務ニ関スル諸条規ノ恪守服行ニ・・・。
●今屋友次郎の経歴
慶応3年2月 生
明治20年7月21日 陸軍少尉
明治42年5月29日 陸軍歩兵大佐・歩兵第9聯隊長
大正1年11月30日 歩兵第30聯隊長
大正4年2月15日 陸軍少将・歩兵第12旅団長
大正6年8月6日 待命
大正6年12月1日 予備役
昭和20年4月 歿
これでいくと、慶応3(1867)年生まれですから、花子が亡くなった明治43(1910)年では、43歳ですね。
当然浮かぶべき名前でも、私には浮かびませんでした ― 2007/11/17
私が第九連隊について詳しくないために、墓石を最初に見た瞬間に浮かぶべき名前が浮かんでいなかったことがよくわかりました。
私がもし、第九連隊の関係者ならば、「今屋」ときけば、わかったはずでしょうね。だって、連隊長ですから。しかも、連隊長なら、ここに縁戚の墓石を置くことにだれも異論を唱えることはできないはずです。
●旧大津陸軍墓地でかかわりを実見できる第九連隊長
おそらく、一歳で亡くなった「今屋花子」は、今屋友次郎の43歳のときに生まれた娘なんでしょうね。孫・・・という可能性もないわけではないでしょうけれど。孫だったら、ここに葬る必然性はないと思うのです。
ということで、今屋友次郎を含めて、現在、4名です。以下、歴代の第九連隊長。
1 竹下弥三郎
2 津田正芳
3 山口素臣
4 高島信茂
5 井戸順行 ←この人の墓碑が大津陸軍墓地にある
6 高橋維則
7 内藤正明
8 田村怡与造
9 草場彦輔 ←この人の墓碑が大津陸軍墓地にある
10 中村無一←村治昭の墓碑に登場する
11 岩田正吉
12 遠藤伸二郎
13 中村無一←同上
14 斎藤力三郎
15 木村捨馬
16 今屋友次郎←「今屋花子」の墓碑とかかわりがある
17 市川堅太郎
18 船橋芳蔵
19 木原仙八
20 斎藤徳匡
21 瀬戸口弥太郎
22 名越時中
23 中村半之助
24 舞 伝男
25 兼久幸一
26 片桐護郎
27 古閑 健
28 河越重定
29 上島良雄(戦死)
30 武智 漸(戦死)
31 神保保孝(戦死) .
私がもし、第九連隊の関係者ならば、「今屋」ときけば、わかったはずでしょうね。だって、連隊長ですから。しかも、連隊長なら、ここに縁戚の墓石を置くことにだれも異論を唱えることはできないはずです。
●旧大津陸軍墓地でかかわりを実見できる第九連隊長
おそらく、一歳で亡くなった「今屋花子」は、今屋友次郎の43歳のときに生まれた娘なんでしょうね。孫・・・という可能性もないわけではないでしょうけれど。孫だったら、ここに葬る必然性はないと思うのです。
ということで、今屋友次郎を含めて、現在、4名です。以下、歴代の第九連隊長。
1 竹下弥三郎
2 津田正芳
3 山口素臣
4 高島信茂
5 井戸順行 ←この人の墓碑が大津陸軍墓地にある
6 高橋維則
7 内藤正明
8 田村怡与造
9 草場彦輔 ←この人の墓碑が大津陸軍墓地にある
10 中村無一←村治昭の墓碑に登場する
11 岩田正吉
12 遠藤伸二郎
13 中村無一←同上
14 斎藤力三郎
15 木村捨馬
16 今屋友次郎←「今屋花子」の墓碑とかかわりがある
17 市川堅太郎
18 船橋芳蔵
19 木原仙八
20 斎藤徳匡
21 瀬戸口弥太郎
22 名越時中
23 中村半之助
24 舞 伝男
25 兼久幸一
26 片桐護郎
27 古閑 健
28 河越重定
29 上島良雄(戦死)
30 武智 漸(戦死)
31 神保保孝(戦死) .
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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