
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
南保一義大尉は、「大阪鎮台」の将校と確認 ― 2008/10/16
この間、テーマにしている「南保一義大尉之墓」。
兵卒の墓碑文が参考になることがわかりました。
この数日間、南保一義大尉の墓と同じときに、
彦根の大洞陸軍墓地から旧大津陸軍墓地へ
移葬された5柱の兵卒の墓碑を調べてきました。
その結果、どの墓碑の碑文も、5行からなっていて、
記事の順番も判で押したように同じです。
つまり、名前、本籍地と生地、家、生年月日、
応徴日、病死日、死亡場所、享年。
墓碑の形もおなじ”かまぼこ形”なので、
南保一義は、兵卒ではなく、大尉ですが、
碑文は同じ形式だと思ったのです。
となると、だいたいどこにどんな内容かを考えて、
文字を推察する方向が見出せます。
たとえば、一行目最初の文字は、「一義」
これも、なんとなくあたっている気がします。
南保一義大尉の背面の碑文のうち、
最後の一行の最初が「鎮」に見えます。
幸いなことに、十八番大隊の兵卒・
「長谷吉太郎之墓」の背面を見ると、
「鎮」の文字からはじまっています。
つまり、5行目の一文字目が「鎮」という
可能性が状況的にまちがっていないってことです。
「鎮」なら、その次の文字は「台」。
「鎮台」と続けば、南保一義が四鎮台制のもとで
創設された十八番大隊の将校という証拠になります。
そうは言っても、文字の彫りが薄いので、弱気になると
「藩」という気がしないわけでもありません。
「藩」なら、彦根藩なのでしょうか。
論より証拠です。
今日、Yさんと陸軍墓地に行ったときに、
確認することにしました。
五行目の「鎮」の下は読めないので、
その前を、つまり四行目の最後の文字を狙いました。
その文字は下で土をかぶっています。
ということは、雨に打たれることが少ないので、
読める可能性が高いってことです。
現地に行った機会に、土をどけてみた結果は、
上の写真です。
「大阪」の文字が比較的はっきり読めます。
墓碑文からも、四鎮台制度時代の将校の墓碑
ということが確認されたわけです。
もちろん、これは騒ぐ必要もないくらい当然の結論です。
十八番大隊は大阪鎮台の彦根営舎にいる
部隊であり、当然、南保一義大尉もその一員
ってことは当初からわかります。
しかし、、墓碑から確認できたことが
私にはうれしいし、残りの文面を上に述べた
推察の方法で解読することができるという
確証を持った点が値打ちだと思います。
ジグゾーパズルのワンピースを見つけた一日でした。
兵卒の墓碑文が参考になることがわかりました。
この数日間、南保一義大尉の墓と同じときに、
彦根の大洞陸軍墓地から旧大津陸軍墓地へ
移葬された5柱の兵卒の墓碑を調べてきました。
その結果、どの墓碑の碑文も、5行からなっていて、
記事の順番も判で押したように同じです。
つまり、名前、本籍地と生地、家、生年月日、
応徴日、病死日、死亡場所、享年。
墓碑の形もおなじ”かまぼこ形”なので、
南保一義は、兵卒ではなく、大尉ですが、
碑文は同じ形式だと思ったのです。
となると、だいたいどこにどんな内容かを考えて、
文字を推察する方向が見出せます。
たとえば、一行目最初の文字は、「一義」
これも、なんとなくあたっている気がします。
南保一義大尉の背面の碑文のうち、
最後の一行の最初が「鎮」に見えます。
幸いなことに、十八番大隊の兵卒・
「長谷吉太郎之墓」の背面を見ると、
「鎮」の文字からはじまっています。
つまり、5行目の一文字目が「鎮」という
可能性が状況的にまちがっていないってことです。
「鎮」なら、その次の文字は「台」。
「鎮台」と続けば、南保一義が四鎮台制のもとで
創設された十八番大隊の将校という証拠になります。
そうは言っても、文字の彫りが薄いので、弱気になると
「藩」という気がしないわけでもありません。
「藩」なら、彦根藩なのでしょうか。
論より証拠です。
今日、Yさんと陸軍墓地に行ったときに、
確認することにしました。
五行目の「鎮」の下は読めないので、
その前を、つまり四行目の最後の文字を狙いました。
その文字は下で土をかぶっています。
ということは、雨に打たれることが少ないので、
読める可能性が高いってことです。
現地に行った機会に、土をどけてみた結果は、
上の写真です。
「大阪」の文字が比較的はっきり読めます。
墓碑文からも、四鎮台制度時代の将校の墓碑
ということが確認されたわけです。
もちろん、これは騒ぐ必要もないくらい当然の結論です。
十八番大隊は大阪鎮台の彦根営舎にいる
部隊であり、当然、南保一義大尉もその一員
ってことは当初からわかります。
しかし、、墓碑から確認できたことが
私にはうれしいし、残りの文面を上に述べた
推察の方法で解読することができるという
確証を持った点が値打ちだと思います。
ジグゾーパズルのワンピースを見つけた一日でした。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)

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