お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
「妻が語る野坂昭如」(NHK福祉ネット) ― 2009/09/04
作家であり、歌手であり、大酒のみの野坂昭如さんが介護を受ける身だとは知りませんでした。奥さんが語る作家と介護の日々は、深刻ななかにも、理性的で、暖かく、チャーミングでした。
そして、考えさせられることが多かったのです。
「火垂の墓」や「戦争童話集」も登場していましたが、戦争の悲惨さを不自由な体のなかで、伝えることで、「終わらない」と言い直した姿が印象的でした。そこには、病があってさらに一歩前進する人間のエネルギーがありました。
写真は、以前にも紹介しましたが、上に挙げた本の表紙です。
そして、考えさせられることが多かったのです。
「火垂の墓」や「戦争童話集」も登場していましたが、戦争の悲惨さを不自由な体のなかで、伝えることで、「終わらない」と言い直した姿が印象的でした。そこには、病があってさらに一歩前進する人間のエネルギーがありました。
写真は、以前にも紹介しましたが、上に挙げた本の表紙です。
「慰霊塔」@南小松 ― 2009/09/04
合併して大津市の最北端となった旧志賀町(大津市の葛川の方が北かも知れませんが)のそのまた最北端が小松学区。
小松学区は、北小松と南小松に分かれているようです。
北小松の墓地には「戦没者慰霊塔」がありましたが、南小松にも、「慰霊塔」がありました。
上の写真がそれです。
その左側面に、銅板がはめこまれ、南小松出身の戦死者の名前が刻まれています。
錆びや汚れなどで、読み取りが難しい部分もありますね。
この墓地の正式な名称は「大字南小松区共有墓地」。
墓地内には、一般の墓碑と並んで、戦死者の墓碑も散在しています。それらのなかには、新しく作り直されているものも多数あり、いまなお遺族の思いが深いことを感じさせます。
小松学区は、北小松と南小松に分かれているようです。
北小松の墓地には「戦没者慰霊塔」がありましたが、南小松にも、「慰霊塔」がありました。
上の写真がそれです。
その左側面に、銅板がはめこまれ、南小松出身の戦死者の名前が刻まれています。
錆びや汚れなどで、読み取りが難しい部分もありますね。
この墓地の正式な名称は「大字南小松区共有墓地」。
墓地内には、一般の墓碑と並んで、戦死者の墓碑も散在しています。それらのなかには、新しく作り直されているものも多数あり、いまなお遺族の思いが深いことを感じさせます。
銅板に刻まれていたのは「軍、戦争(戦役)、階級、氏名」 ― 2009/09/04
「大字南小松区共有墓地」にある「慰霊碑」にも、他の慰霊碑と同様に、戦死者の名前を刻んだ銅板がはめ込まれています。
このような名簿には、決まった書式がないようです。
「大石村」の「忠霊塔」の名簿には、階級がありません。戦死された順番に、戦争もしくは死亡場所、戦死年月日、死亡年齢が記されています。
北小松の「戦没者慰霊碑」は、名前だけで、イロハの順に並べられています。
では、南小松の名簿はどうでしょうか。
まず、陸軍か海軍かという区別があります。「陸軍之部」が先で、しかも圧倒的多数です。「海軍之部」の方は、少ないのです。
それぞれの「部」では、亡くなった戦争の順に、戦死者の階級と名前が記されています。「陸軍之部」が53名、「海軍之部」が11名で、合計64名のリストとなっています。
上の写真は、その右上の(最初の)部分です。
南小松区では、「日清戦役」で1人の方、「日露戦役」でさらに1人の方が戦死されていることがわかります。
その方の墓碑は、ここにあるのでしょうか?
このような名簿には、決まった書式がないようです。
「大石村」の「忠霊塔」の名簿には、階級がありません。戦死された順番に、戦争もしくは死亡場所、戦死年月日、死亡年齢が記されています。
北小松の「戦没者慰霊碑」は、名前だけで、イロハの順に並べられています。
では、南小松の名簿はどうでしょうか。
まず、陸軍か海軍かという区別があります。「陸軍之部」が先で、しかも圧倒的多数です。「海軍之部」の方は、少ないのです。
それぞれの「部」では、亡くなった戦争の順に、戦死者の階級と名前が記されています。「陸軍之部」が53名、「海軍之部」が11名で、合計64名のリストとなっています。
上の写真は、その右上の(最初の)部分です。
南小松区では、「日清戦役」で1人の方、「日露戦役」でさらに1人の方が戦死されていることがわかります。
その方の墓碑は、ここにあるのでしょうか?
日清戦争戦死者の碑(「陸軍歩兵二等卒 林力松碑」) ― 2009/09/04
日露戦争戦死者の墓碑(「小林林之助塔」) ― 2009/09/04
この墓地の「慰霊塔」は、南小松で、日清戦争で1名、日露戦争で1名の方が戦死したことを物語っています。 日清戦争で亡くなったのは、林力松さん。日露戦争では、小林林之助さん。
お二人の墓碑は、確かにありました。
力松さんの墓碑は、一番目立つ入り口に。林之助さんのものは、さらに奥で、しかも端の方で目立たない場所に置かれていました。
「小林林之助」さんの墓碑は、「塔」と刻まれています。これは、初めて目にするものです。
名前の上に刻まれている文字がとても判読しにくくなっています。階級でもない様子です。
よくよく見ると、「日露戦功紀念」と二行にわたって書かれています。たしかに墓ではなく、塔ということですね。
左側面には、「明治四十三年●●建立」という文字が見えます。
お二人の墓碑は、確かにありました。
力松さんの墓碑は、一番目立つ入り口に。林之助さんのものは、さらに奥で、しかも端の方で目立たない場所に置かれていました。
「小林林之助」さんの墓碑は、「塔」と刻まれています。これは、初めて目にするものです。
名前の上に刻まれている文字がとても判読しにくくなっています。階級でもない様子です。
よくよく見ると、「日露戦功紀念」と二行にわたって書かれています。たしかに墓ではなく、塔ということですね。
左側面には、「明治四十三年●●建立」という文字が見えます。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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