
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
高島市の従軍者数と戦病死者数から見えるもの ― 2009/09/15
上の写真は、高島市の各地にある日露戦争の戦死者の墓地の一つです。
いまも当時の戦争の痕跡をこうして見ることができます。
しかし、戦前の戦争が地域社会にどのような影響を及ぼしたのかは、墓碑からは、うかがうことができません。
実際体験していない私には、推察するしかありませんが、各自治体が編集した『県史』『郡史』『市史』『町市』『村市』には、興味深い史実が載っています。
たとえば、高島市(旧高島郡)。
この地域と戦争との関わりを見るとき、たとえば、何人が従軍し、何人が戦死したのか、などは、大切な資料です。「明治十年西南戦役及び其後に於ける本郡の従軍人員数は今詳ならず、本庄村に於ける分は左の如し」と書かれています。
本庄村は、いまは存在しない地名です。高島市の安曇川町の一部となっています。沿革を調べてみると、合併につぐ合併で、現在の市に成った様子がわかります。
時計を逆回りにすると、次のようになります。
2005年1月1日から現在の高島市。それ以前は、高島郡として、マキノ町、朽木村、今津町、新旭町、高島町そして安曇川町に分かれていました。旧安曇川町は、1954年11月3日に、安曇町・青柳村・広瀬村・本庄村が合併して成立。本庄村そのものは、1889(明治22)年4月1日に町村制が施行されたことにより誕生します。
当時、どれだけの人口規模だったのか、調べていませんので、わかりませんが、この「本庄村」の従軍人員と戦病死者の人数が記録に残っているのです。
それが、それぞれの戦争がこの村にどういう影響を及ぼしたのかが、わかるものとなっています。
『高島郡史』(大正15年)によれば、以下のとおりです。
高島郡全体では、従軍人員は不明なのですが、戦病死者数は、わかります。『高島郡史』の戦病死者の名簿を数えてみると、
日清戦争と比べると西南戦争の戦病死者が多いように見えます。明確に「名古屋鎮台」という人もいますが、これらの人たちのほとんどが大津市に営所(基地)をおく歩兵第九聯隊の所属でした。この聯隊は、この戦争で、最も多く戦死者を出した部隊の一つだったのです。15名の死者のなかで、わかっているだけで、7名の方が、有名な田原坂で戦死しています。
日清戦争は、最初の対外戦争で、戦勝につぐ戦勝で国民的な熱狂があったと聞いています。その一方で、17名の若者が亡くなっています。西南戦争とちがうのは、ほとんどが、病死だということです。
日露戦争は、その死者の膨大さなどで、戦勝気分だけですまされない、深刻な影響を与えたことがこの数字からも、読み取ることができます。
私が、この市の各地で、戦死者の墓碑をたずねていますが、この名簿のなかにそれらの方(ほとんどが20代前半の若者)がいらっしゃるわけです。
いまも当時の戦争の痕跡をこうして見ることができます。
しかし、戦前の戦争が地域社会にどのような影響を及ぼしたのかは、墓碑からは、うかがうことができません。
実際体験していない私には、推察するしかありませんが、各自治体が編集した『県史』『郡史』『市史』『町市』『村市』には、興味深い史実が載っています。
たとえば、高島市(旧高島郡)。
この地域と戦争との関わりを見るとき、たとえば、何人が従軍し、何人が戦死したのか、などは、大切な資料です。「明治十年西南戦役及び其後に於ける本郡の従軍人員数は今詳ならず、本庄村に於ける分は左の如し」と書かれています。
本庄村は、いまは存在しない地名です。高島市の安曇川町の一部となっています。沿革を調べてみると、合併につぐ合併で、現在の市に成った様子がわかります。
時計を逆回りにすると、次のようになります。
2005年1月1日から現在の高島市。それ以前は、高島郡として、マキノ町、朽木村、今津町、新旭町、高島町そして安曇川町に分かれていました。旧安曇川町は、1954年11月3日に、安曇町・青柳村・広瀬村・本庄村が合併して成立。本庄村そのものは、1889(明治22)年4月1日に町村制が施行されたことにより誕生します。
当時、どれだけの人口規模だったのか、調べていませんので、わかりませんが、この「本庄村」の従軍人員と戦病死者の人数が記録に残っているのです。
それが、それぞれの戦争がこの村にどういう影響を及ぼしたのかが、わかるものとなっています。
『高島郡史』(大正15年)によれば、以下のとおりです。
○西南戦争 従軍人員 3 戦病死者 1ちなみに、元の記述は、西南戦争は「西南戦役」、日清戦争は「明治二十七八年戦役」、日露戦争は「明治三十七八年戦役」となっています。
○日清戦争 従軍人員 10 戦病死者 0
○日露戦争 従軍人員 120 戦病死者 10
高島郡全体では、従軍人員は不明なのですが、戦病死者数は、わかります。『高島郡史』の戦病死者の名簿を数えてみると、
○西南戦役戦病死者 15名となるのです。
○明治二十七八年戦役戦病死者 17名
○明治三十七八年戦役戦病死者 100名
日清戦争と比べると西南戦争の戦病死者が多いように見えます。明確に「名古屋鎮台」という人もいますが、これらの人たちのほとんどが大津市に営所(基地)をおく歩兵第九聯隊の所属でした。この聯隊は、この戦争で、最も多く戦死者を出した部隊の一つだったのです。15名の死者のなかで、わかっているだけで、7名の方が、有名な田原坂で戦死しています。
日清戦争は、最初の対外戦争で、戦勝につぐ戦勝で国民的な熱狂があったと聞いています。その一方で、17名の若者が亡くなっています。西南戦争とちがうのは、ほとんどが、病死だということです。
日露戦争は、その死者の膨大さなどで、戦勝気分だけですまされない、深刻な影響を与えたことがこの数字からも、読み取ることができます。
私が、この市の各地で、戦死者の墓碑をたずねていますが、この名簿のなかにそれらの方(ほとんどが20代前半の若者)がいらっしゃるわけです。
日米合同演習 ~見つめる視点が大切になります~ ― 2009/09/15
ネットで「日米合同演習」を検索すると、それに反対するさまざまな団体の記事が目立ちます。それはそれで心強く思えたのです。
私が注目したのは、報道記事です。
「基地の街」の人たちの心情は複雑だと思います。高島市でも、自衛隊の海外派兵反対のデモや集会がやられますけれど、全市民的な集まりというには、遠い気がします。「よその人たちばかりが集まっている」という中傷があるのも事実です。
自衛隊員とその家族が多く住んでいる上に、基地があることによって予算的に潤ってきたいう事情もあるのでしょう。
そういうしがらみに着目し、そのなかで、どういう思いで、合同演習を見つめているのかという切り込みは、報道記事として、意味のあるものだと思います。
しかし、「これはいかがなものか?」というものもあるのです。
合同演習がある場合は、自治体に通知がされて、そこを通じて、市民が知ることになります。市民は不安をかかえながらも、平静を保ってきたというのが、この間の経過ではないかと思うのです。
そういう市民に、演習を推進する立場から、積極的に接近を図るという動きがあります。問題は、それをそのまま報道することの是非です。
以下の記事は、ある一般新聞の報道記事です。日付は2008年12月ですが、半世紀以上も昔の記事に思えたのです。当時は、占領軍に命じられて、占領軍のための宣伝をする記事がありえたと思うからです。
私が注目したのは、報道記事です。
「基地の街」の人たちの心情は複雑だと思います。高島市でも、自衛隊の海外派兵反対のデモや集会がやられますけれど、全市民的な集まりというには、遠い気がします。「よその人たちばかりが集まっている」という中傷があるのも事実です。
自衛隊員とその家族が多く住んでいる上に、基地があることによって予算的に潤ってきたいう事情もあるのでしょう。
そういうしがらみに着目し、そのなかで、どういう思いで、合同演習を見つめているのかという切り込みは、報道記事として、意味のあるものだと思います。
しかし、「これはいかがなものか?」というものもあるのです。
合同演習がある場合は、自治体に通知がされて、そこを通じて、市民が知ることになります。市民は不安をかかえながらも、平静を保ってきたというのが、この間の経過ではないかと思うのです。
そういう市民に、演習を推進する立場から、積極的に接近を図るという動きがあります。問題は、それをそのまま報道することの是非です。
以下の記事は、ある一般新聞の報道記事です。日付は2008年12月ですが、半世紀以上も昔の記事に思えたのです。当時は、占領軍に命じられて、占領軍のための宣伝をする記事がありえたと思うからです。
米海兵隊がもちつきエンジョイ 老人ホーム「清風荘」を訪問
2008.12.9 02:55
高島市今津町のあいば野演習場などで陸上自衛隊と共同訓練を行っている米海兵隊の隊員20人が8日、同町の特別養護老人ホーム「清風荘」を訪問、もちつきやギターの演奏で、入所者らとの交流を楽しんだ。
海兵隊員らの「地元の人たちと交流したい」との要望から実現した。隊員らは施設職員の手ほどきを受けながら、初めてのもちつきを体験。隊員らの慣れない手つきを、入所者らは笑顔で見守っていた。もちつきの後は、隊員がギター演奏を披露し、入所者から大きな拍手がおくられた。
入所者側からは、毛糸の手編みのきんちゃく袋が、隊員全員にプレゼントされた。アントニー2等軍曹(27)は「入所者のみなさんが笑顔で楽しんでくれたのがうれしかった」と笑顔を見せていた。
同市での海兵隊と自衛隊の共同訓練は、11月28日から行われている。
テントウムシですが、怪我をしている? ― 2009/09/15
西南戦争で戦死した高島郡の15名の若者 ― 2009/09/15
『高島郡史』に掲載されている西南戦争の戦病死者は、15名でした。気がついたことは、すでに書きましたが、もうすこし丁寧に見ておきたいと思います。
ほとんどが戦死だと思います。有名な田原坂では7名が戦死。この7名を含めて、熊本県で死亡された方は、10名。鹿児島県が2名、宮崎県が1名、不明が2名。
所属部隊から見ると、ただ一人「名古屋鎮台」の方がいます。しかも階級は、唯一「少尉」。つまり、士官です。
明治10(1877)年の時点を考えると、この方(朽木雄六)は、士族出身者だと思われます。朽木村の市場ですから、村の中心地。苗字も「朽木」ですから、領主の朽木氏に繋がる人だった可能性がありますね。
その他の14名は、兵卒(一等卒・ニ等卒)。
平民出身だと思われます。
所属部隊は「不明」という人もいますが、当時の徴兵制度との関係から、大坂鎮台歩兵第九聯隊に所属したと思われます。ということは、明治6年から9年にかけて徴兵された若者ということです。
当時の高島郡には、村が17ありました。
その17の村に即して、西南戦争の戦死者を見てみます。
第九聯隊の戦死者を追悼する「紀念碑」(上の写真)が大津市三井寺に建てられました。高島郡から、60km離れたところでは、よほどの機会がなければ、出向くことはなかったと思われます。
その人たちの墓碑は、現在の高島市にあるのでしょうか。
ほとんどが戦死だと思います。有名な田原坂では7名が戦死。この7名を含めて、熊本県で死亡された方は、10名。鹿児島県が2名、宮崎県が1名、不明が2名。
所属部隊から見ると、ただ一人「名古屋鎮台」の方がいます。しかも階級は、唯一「少尉」。つまり、士官です。
明治10(1877)年の時点を考えると、この方(朽木雄六)は、士族出身者だと思われます。朽木村の市場ですから、村の中心地。苗字も「朽木」ですから、領主の朽木氏に繋がる人だった可能性がありますね。
その他の14名は、兵卒(一等卒・ニ等卒)。
平民出身だと思われます。
所属部隊は「不明」という人もいますが、当時の徴兵制度との関係から、大坂鎮台歩兵第九聯隊に所属したと思われます。ということは、明治6年から9年にかけて徴兵された若者ということです。
当時の高島郡には、村が17ありました。
その17の村に即して、西南戦争の戦死者を見てみます。
①剣熊村 2名 谷口筆松(山中)、谷口由造(野口)西南戦争で大阪鎮台歩兵第九聯隊(大津屯営)は441名の戦死者を出したとされていますが、そのうちの14名が高島郡(現高島市)出身者ということになります(あと1名は名古屋鎮台)。
②海津村 1名 南部由松(海津)
③西庄村
④百瀬村 1名 中川寅吉(知内)
⑤川上村 1名 大森六蔵(日置前)
⑥今津村 1名 古我梅治郎(大供)
⑦三谷村
⑧饗庭村 1名 尾島五次郎(熊之本)
⑨新儀村 1名 清水清五郎(藁園)
⑩本庄村
⑪青柳村 1名 中井藤吉(青柳)
⑫安曇村 2名 岸嘉七(西万木)、日置住吉(三尾里)
⑬広瀬村 1名 井上亀吉(上古賀)
⑭水尾村
⑮大溝村 1名 内田幸吉(永田)
⑯高島村
⑰朽木村 2名 仲村銀蔵(地子原)、朽木雄六(市場)
第九聯隊の戦死者を追悼する「紀念碑」(上の写真)が大津市三井寺に建てられました。高島郡から、60km離れたところでは、よほどの機会がなければ、出向くことはなかったと思われます。
その人たちの墓碑は、現在の高島市にあるのでしょうか。
日清戦争で亡くなった「軍夫」を記録する『高島郡史』 ― 2009/09/15
引き続き『高島郡史』(大正15年)に掲載されている日清戦争の戦病死者の17名簿を見ながら、地域と戦争について考えてみたいと思います。
最初に注目したことは、そこに1名の「軍夫」がいることです。
名前は、中江幸四郎。「大溝町大字音羽」が出身地。「朝鮮平安道瀧川兵站病院」で、明治28(1895)年4月7日に亡くなっています。
そもそも「軍夫」とはなにか?
一ノ瀬俊也『旅順と南京』(文春新書)によれば、
軍隊は彼らなしに戦えなかったにもかかわらず、彼らの存在は公式の戦史には刻まれることはありませんでした。もちろん、靖国神社に祭られることはありませんでした。
『高島郡史』が、「軍夫」として参加した人の名前を、他の戦病死者とともに載せていることは、公平であり、大切なことだと思えるのです。
写真は、中江幸四郎さんの墓碑ではありません。旧真田山陸軍墓地には、軍夫だけの墓地があります。その一部の写真です。
最初に注目したことは、そこに1名の「軍夫」がいることです。
名前は、中江幸四郎。「大溝町大字音羽」が出身地。「朝鮮平安道瀧川兵站病院」で、明治28(1895)年4月7日に亡くなっています。
そもそも「軍夫」とはなにか?
一ノ瀬俊也『旅順と南京』(文春新書)によれば、
軍は当初、後方輸送は輜重兵・輜重輸卒の担当する駄馬の使用、朝鮮の人夫・馬の雇用で補えると安易に考えていたが、朝鮮半島の道路事情は馬匹の使用に適さず、また朝鮮人の逃亡などが相次いだため内地から人夫(=軍夫)を募集することになった。熊本第六師団のように、駄馬より人間を雇う方が安上がりという意見を上申した師団もあった。かくして(1894年の)八月下旬以降各師団は大量の「人夫」雇用を開始した。結局日清戦争を通じて内地から雇用した軍夫は十五万三九七四人、清国・台湾にて現地雇用した人員は実に述べ一ニ一一万人余にのぼった。日本人軍夫は形式的に読法式(軍の規範である「読法」を朗読させる宣誓式)を済ませていちおう軍属の資格を備え、陸軍刑法の管轄に属した。日清戦争では、15万をこえる軍夫のうち、数千人という規模で戦病死しています。軍人より装備の劣る彼らが凍死する場合も多かったのですし、戦闘に巻き込まれる場合もありました。
軍隊は彼らなしに戦えなかったにもかかわらず、彼らの存在は公式の戦史には刻まれることはありませんでした。もちろん、靖国神社に祭られることはありませんでした。
『高島郡史』が、「軍夫」として参加した人の名前を、他の戦病死者とともに載せていることは、公平であり、大切なことだと思えるのです。
写真は、中江幸四郎さんの墓碑ではありません。旧真田山陸軍墓地には、軍夫だけの墓地があります。その一部の写真です。


西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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