
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
「廃兵」という言葉と「廃兵院」の存在をはじめて知りました ― 2011/08/10
「新儀村」の「戦時事績」で目についた「廃兵」という言葉の意味を知ろうと思いました。ネットで検索すると「廃兵院」というのが出てきました。
私は1970年代に大阪にある大学に通っていました。大阪駅から地下鉄東梅田にむかう通路のある場所に、手足をなくし義足をつけ、戦闘帽に白衣の傷病兵の姿がありました。ある人は敷物のうえに横たわり、ある人はアコーディオンを弾きながら募金を訴えていました。いろいろな意見がありましたが、初めてその様子を見たとき、気持ちの動揺を隠せませんでした。
その姿が、ダブります。そして、映画「ジョニーは戦争に行った」の最後のシーンもです。戦死も戦病死も無残ですが、生きて「廃兵」となることも無残です。
戦争のむき出しのむごさが迫ってきて、正直、気分が悪いです。
激しい地上戦が繰り広げられた日露戦争を通じて、数万人規模の負傷兵が帰還した。特に、身体機能の一部を失い、一般的な就労が叶わなくなった者の処遇は社会的な問題となった。政府は1906年4月(明治39年)、廃兵院法を公布して同年9月1日実施、フランスの廃兵院などに範を求めて整備に乗り出した。・・・「廃兵院」の収容基準というのも出ていました。
収容者は両眼を盲し、もしくは二肢以上を失う者、一肢を亡しまたは二肢の用を失う者、一眼を盲しまたは一肢の用を失う者ならびにこれ等に準じた傷痍者もしくは疾病者である。収容者はそれぞれ1室を与えられ、日常の起居を拘束せず、医療を要するものにこれを加え、軽傷者中希望によって絵画、盆栽、彫刻その他の手芸に従事させ、あるいは兵器廠、遊就館などに通勤させた。収容者の家族のために愛国婦人会と提携し、廃兵院の他に家族舎69戸を設けた。面積は2万坪。なお、発足当初は貧困状態であることが入院条件であったが、1934年に傷兵院への改組後は貧困要件は廃止され、より重傷者の施設として機能するようになった。おそらく収容基準に書かれていることが、「廃兵」の意味するところでしょう。
私は1970年代に大阪にある大学に通っていました。大阪駅から地下鉄東梅田にむかう通路のある場所に、手足をなくし義足をつけ、戦闘帽に白衣の傷病兵の姿がありました。ある人は敷物のうえに横たわり、ある人はアコーディオンを弾きながら募金を訴えていました。いろいろな意見がありましたが、初めてその様子を見たとき、気持ちの動揺を隠せませんでした。
その姿が、ダブります。そして、映画「ジョニーは戦争に行った」の最後のシーンもです。戦死も戦病死も無残ですが、生きて「廃兵」となることも無残です。
戦争のむき出しのむごさが迫ってきて、正直、気分が悪いです。
コメント
_ やつしろ ― 2011年08月10日 23時35分50秒
私の子供の頃は、「傷痍軍人」といい、名誉の負傷を負った人ということで、尊敬をしましたし、役場吏員になるなど、社会的な保証もあったようです。
_ BIN★→やつしろさん ― 2011年08月10日 23時46分19秒
「しょういぐんじん」は耳言葉として記憶にあります。目でみたのは、初めてだったにしても。日露戦争など勝利した戦争のあとでは、そういう方々にも、社会的な保障があったのでしょうけれど、先の太平洋戦争・日中戦争のあとには、保障もなくなったのではないのかと想像します。国が財政的な支援の義務を果たしたとしても、社会的な価値観が変わってしまっているので、かつてのように尊敬される地位にはいられなかったのかも知れません。
戦争に参加した軍人への補償はあっても、戦争に反対して殺された人たちへの補償は確立されていないように思います。
戦争に参加した軍人への補償はあっても、戦争に反対して殺された人たちへの補償は確立されていないように思います。
_ やつしろ ― 2011年08月11日 08時41分53秒
私の子供の頃とは、日中・大東亜戦争の頃で、傷痍軍人は保護されていたように思います。
役場には、足の不自由な、目の不自由な、手の不自由な人が、かなり雇われていて(戦後に続く)要職にも就いていましたし、威張って?いました。
勿論、傷痍軍人年金もありました。
役場には、足の不自由な、目の不自由な、手の不自由な人が、かなり雇われていて(戦後に続く)要職にも就いていましたし、威張って?いました。
勿論、傷痍軍人年金もありました。
_ BIN★→やつしろさん ― 2011年08月11日 22時02分29秒
「傷痍軍人」ということばは、いつ生まれたんでしょうか?
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
