
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
「1名の将校と14名の下士官、そして204名の兵卒」の日清戦争 その1 ~大陸到着前の病死者~ ― 2011/08/21
旧大津陸軍墓地は陸軍歩兵第九聯隊附属の埋葬地です。日清戦争期に亡くなった将兵を祀る219基の墓碑があります。内訳は、将校1名、下士官14名、兵卒204名です。合計219名の足取りをたどってみます。
よけいな解説は省きたいと思いますが、日清戦争の場合、戦病死者・病死者が、戦死者の10倍に達した事実を念頭においていただきたいと思います。風邪などではなく、コレラ、腸チフス、赤痢などきわめて感染力の強い伝染病です。
さて、219名というだけでは、あまりに抽象的です。
大津市に営所をおく陸軍歩兵第九聯隊のなかには、高島市出身の兵卒も多数入営していました。そのなかに、中村林蔵、福井乙吉、内田検次郎、奥村粂蔵、井花長次郎、大塚長治郎、日置卯市そして富田媒吉。
これらの20代の若者を頭に描きながら、お読み下さい。
ときは日清戦争期。明治27(1894)年7月23日に戦闘は始まrり、8月1日に、清国と日本が宣戦布告をします。
宣戦布告までに第5師団、第6師団が動員を終え、8月4日には第3師団、同30日には第1師団、10月上旬には第2師団が動員を終えます。
大津の第九聯隊が所属した第4師団が動員を終えたのは、12月2日のことでした。その頃には、黄海海戦も終わり、旅順口の占領も終わっていました。
第九聯隊の出征は、さらに遅れ、翌明治28年3月28日のことでした。中村林蔵、福井乙吉、内田検次郎、奥村粂蔵、井花長次郎、大塚長治郎、日置卯市そして富田媒吉は、このときに、多くの市民に送られて大津営所を離れました---そして、二度と戻りませんでした。
3月はどういう時期だったのか。それは、清国から全権大使・李鴻章が下関に到着し、休戦協議が行われている最中のときでした。出発して2日後に、日清休戦条約が締結されました。それは、第九聯隊が大津を離れて廣島に向かっている途中のことでした。
中村林蔵らは、まもなく廣島到着にします。廣島で10日間待機したのち、宇品港から4月11日と13日に大陸に向けて出港しました。
しかし、大陸にむけて船出するまえに、犠牲者が生まれたことが、墓碑の日付からわかります。
話はもどります。11日には、第九聯隊第一大隊と第二大隊が出港。13日には同第三大隊が出港しました。
出港したその日(11日)に、船中で亡くなった下士官がいました。それは、陸軍歩兵特務曹長・尾嵜常人でした。その墓碑(B12)の写真をこの記事のトップに載せました。吉田清次郎には死亡場所が刻まれていませんが、明白に「征清戦役軍航海船中歿」と刻まれています。
日本軍は、一方で清国と講和条約の交渉を行いながら、4月以降、直隷作戦を第九聯隊を含む第4師団と近衛師団を主力として行う予定でした。第4師団は、廣島にも、船中にも病死者を出しながら、遼東半島に向かいました。しかし、その先には、さらなる不幸が待っていました。
続きは次回です。
よけいな解説は省きたいと思いますが、日清戦争の場合、戦病死者・病死者が、戦死者の10倍に達した事実を念頭においていただきたいと思います。風邪などではなく、コレラ、腸チフス、赤痢などきわめて感染力の強い伝染病です。
さて、219名というだけでは、あまりに抽象的です。
大津市に営所をおく陸軍歩兵第九聯隊のなかには、高島市出身の兵卒も多数入営していました。そのなかに、中村林蔵、福井乙吉、内田検次郎、奥村粂蔵、井花長次郎、大塚長治郎、日置卯市そして富田媒吉。
これらの20代の若者を頭に描きながら、お読み下さい。
ときは日清戦争期。明治27(1894)年7月23日に戦闘は始まrり、8月1日に、清国と日本が宣戦布告をします。
宣戦布告までに第5師団、第6師団が動員を終え、8月4日には第3師団、同30日には第1師団、10月上旬には第2師団が動員を終えます。
大津の第九聯隊が所属した第4師団が動員を終えたのは、12月2日のことでした。その頃には、黄海海戦も終わり、旅順口の占領も終わっていました。
第九聯隊の出征は、さらに遅れ、翌明治28年3月28日のことでした。中村林蔵、福井乙吉、内田検次郎、奥村粂蔵、井花長次郎、大塚長治郎、日置卯市そして富田媒吉は、このときに、多くの市民に送られて大津営所を離れました---そして、二度と戻りませんでした。
3月はどういう時期だったのか。それは、清国から全権大使・李鴻章が下関に到着し、休戦協議が行われている最中のときでした。出発して2日後に、日清休戦条約が締結されました。それは、第九聯隊が大津を離れて廣島に向かっている途中のことでした。
中村林蔵らは、まもなく廣島到着にします。廣島で10日間待機したのち、宇品港から4月11日と13日に大陸に向けて出港しました。
しかし、大陸にむけて船出するまえに、犠牲者が生まれたことが、墓碑の日付からわかります。
4月 6日 一等卒 岩田 夛吉(78)これら三つの墓碑には共通して、死亡場所の記述がありません。それは偶然ではないと思います。下の写真は、岩田夛吉の墓碑。
4月 6日 一等卒 幾田 幾之助(121)
4月11日 二等卒 吉田 清次郎(25)
話はもどります。11日には、第九聯隊第一大隊と第二大隊が出港。13日には同第三大隊が出港しました。
出港したその日(11日)に、船中で亡くなった下士官がいました。それは、陸軍歩兵特務曹長・尾嵜常人でした。その墓碑(B12)の写真をこの記事のトップに載せました。吉田清次郎には死亡場所が刻まれていませんが、明白に「征清戦役軍航海船中歿」と刻まれています。
日本軍は、一方で清国と講和条約の交渉を行いながら、4月以降、直隷作戦を第九聯隊を含む第4師団と近衛師団を主力として行う予定でした。第4師団は、廣島にも、船中にも病死者を出しながら、遼東半島に向かいました。しかし、その先には、さらなる不幸が待っていました。
続きは次回です。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)


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